さて、行法解説もあと残すはアパンクリアだけになってしまった。
オウムの行法は他にもたくさんあるのだが、全てを解説するのは面倒だし、またその必要もない。
肝心なことは真我の概念を理解することであり、そのためには3つの道があることは既に書いた。
信じること。
これがバクティーヨーガであるが、盲信の危険性がある。
理解すること。
これがジュニアーナヨーガであるが、高い知性が必要とされる。
体験すること。
これがクンダリニーヨーガであり、一般的な方法となる。
で、その体験をするために様々な行法があるのだが、その目的は真我の概念を理解するということであり、真我の概念を理解できる手助けになるのであれば、全ての体験は肯定される。
苦の詞章はマントラと同じ修行体系である。
10万回の課行を終了した後は、瞑想として行うことも出来る。
ひたすら詞章を唱えて、その中に没入する。
マントラと違って日本語なので、心の働きを利用しやすいという利点がある。
ここで役立つのが「苦の総量は一定である。」という考え方である。
それが事実であるかどうかはどうでもいい。
もし、その考え方を受け入れるのであれば、自分が苦しみを背負うことでこの世界の苦しみが減るということになる。
この心の働きを利用するということだ。
ひたすら苦の詞章を唱えてその中に没入すると、この世界はなんて苦しみに満ちているのだろうという思いが浮かんでくる。
そして、それがとても悲しい。
そこでこう考える。
「苦の総量が一定であるのなら、自分がその苦しみを背負いたい。」
すると、目の前に黒い霧のようなものが見えてくるだろう。
それがこの世界を覆う苦しみである。
それは自分の胸の辺りに吸い込まれていく。
苦しみがどんどん自分の中に吸い込まれていくことが、とても嬉しい。
まさに歓喜である。
ここからさらに、次の段階へと進む。
黒い霧を吸っても吸っても、後から後から湧いてくる。
そこでこう考える。
「自分の器がもっと大きければ、もっとたくさんの苦しみを背負えるのに。」
すると、自分の身体が大きくなっていく。
日本よりも、地球よりも、銀河よりも大きくなり、ついには宇宙と同じ大きさになってしまう。
ここで、全ての苦しみが、自分の内側に内在することとなる。
その素晴らしい歓喜状態を味わっていただきたい。