エジプトのアンクとミオツクシ | ◆笑門来福/夢の円座◆
2015-04-12

エジプトのアンクとミオツクシ

テーマ:〜 ※ 古 ※ 代 ※ 史 ※ 〜


エジプトのアンクそっくりだけど、



これは大阪(=摂津)の市章。



そこにも、三島湟咋耳が隠れていた。
大阪の市章:澪漂(みおつくし)とは
「澪」=水脈、航路の意(湟、溝、ミゾ)と
「串」=杭の意を足したものなのだと(0_0!!!
「つ」は「の」の意味で「水脈の杭」つまり「船舶案内用の標識」。

「航路杭」


そして、摂津の「旧字体=『』津」の中にも
」には、手偏に「」が三つ。

(下記から抜粋)
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54731420.html

この地を今も三島と呼ぶ理由のひとつに、
この耳起源を挙げておきたい。

耳とは古代の官職名。
三島には耳とつく地主が何人もいたようで、
まず三島溝咋耳命は耳目に聞こえている。

湟咋「みぞくい」とは溝=水路、咋とは杭を立ててそこを開拓し
領地とした先住氏族の長。
だから耳はこの地域の首長の役職名である。

「魏志」では北部あるいは南部九州の官職名でもあって、
投馬国の官職に「みみ」とある。

長官は彌彌(みみ)
副官は彌彌那利(みみなり)

また日本神話では「みみ」がつく神や人物が、
最高は天孫の父・アメノオシホミミから
人間は聖徳太子(トヨトウミミノミコト)にいたるまで、沢山登場する。

その多くが南九州を出自とする神武天皇の最初の妃(ヒメタタライスケヨリヒメ)の家柄(ミシマミゾクイミミノミコトノヒメ)から出ていることになっている。

つまり「耳」を長とする氏族が、いかに渡来して来た天皇一族に
援助したかをすべてが物語っていると思える。

★『書紀』 大山祇神の子。 
★溝咋(ミゾクイ)神社の近くには三島鴨(ミシマカモ)神社がある。 
■三島大神はツミハヤヱコトシロヌシだと言われている。
 ツミハはミゾクイの娘婿だからミシマを名乗っても不思議はない。

■コモリの副モノヌシ(連ではなく)ということは、
 コモリの子である可能性が高い。

■ツミハとは『はらから』だという記述があるので、
 コモリの子のミノシマ(ミシマ)と同一人物と考えたい。
http://gejirin.com/src/Mi/mizokui.html

●三島神社
「越智氏の奉祀する大山積神は、「二十一社記」に賀茂社と同じく
 天神に属するとあり、伊豆の三島大社に賀茂氏系の言代主神と合祀
 されることから、賀茂氏との親類関係が窺える。

三島とは瀬戸内の海人族が祭る神であり、そのルーツは南九州。
「耳」とは聖職名で、南九州海人の長を示す。
摂津三島の地名に筑紫津や安満山・阿武山がある。その「あま」とは
海人である。

多くの津を形成していた海人たちが淀川には多く先住していた。

そう考える理由のひとつに、各地の古墳から出てくる
南九州から南海の貝がある。



男王はゴホウラを、
女王はイモガイを装身具・威信材としたと考古学は言っている。



「南部九州のゴホウラ貝輪は、形態変化を遂げながら北部九州に広まり、
その後近畿地方へと伝播していることが考古学上でも判明。

淀川沿線摂津三島の海人地名は三世紀からあって大和よりも古く、
北部九州人がやってきた証拠の場所となるので、そこに耳がつく人が
たくさんいるのは正しい。
同様に南九州や阿蘇に耳がつく人がたくさんいるのは、
魏志以前からのことになるから
もっとふるい弥生時代のことだろうとなり、
彼らは弥生人なのだから渡来人だとなる。


こうして大和は南部九州人と渡来人、
摂津は北部九州の古い弥生人の入ったところという
微妙な渡来の違いが浮き彫りになった。