1902年(光武6)、東学の信徒だった全庭云が金剛山で修行を行い、悟りを開いたと称し「白道教」の名で布教活動した。全庭云は「一定の呪文を口誦し礼拝すれば、無病息災、不老長寿、神仙となり得べし」と説き、一時は1万人の信者を獲得した。全庭云はこれらの信者から金銭を寄附させて自らの生活資金に充てる一方、若い女性信者(約60人)を篭絡して妾にし、酒池肉林の贅沢三昧の生活を送っていた。

しかし、このような教祖の姿勢に疑問を感じた信者や、全庭云の下から逃げ出そうとする妾が出た。全庭云は官憲への発覚を恐れて、これらの殺害を命じ、1916年(大正5)に妾4人と信者2人を殺したが、全庭云自身は1919年(大正8)に脳梅毒で死亡した。これらの殺人事件は1930年(昭和5)と1932年(昭和7)に相次いで発覚し、実行犯には懲役10以上の実刑判決が下り、西大門刑務所等に収監された。

これにより朝鮮半島の最悪のカルト教団は壊滅したかに思われた。ところが、全庭云の次男で二代目教祖(「第二世大元任」と称した)の全龍海は事件発覚前に逃走し、捜査の目を逃れることに成功した。この全龍海によって教団は「白白教」として復活することになった。全龍海は官憲からの追及をかわすために、教団を完全な秘密結社の形態をとることにした。情報漏洩を防ぐために、信者は一般人との交際が禁じられた。

 

白白教団は「朝鮮は近い将来、大元任(教祖の全龍海)の統率の下で日本から独立する。独立を果たした暁には、各々の信者の貢献度に応じて、政府高官や知事、警察署長などの重職に任命する。カネのある者は献金し、若く年頃の娘を持つ者は大元任に差し出すように」と巧みな言説で布教活動を行った。白白教に入信した信者は土地家屋などの全財産を教団に寄進し、若くて美貌の娘は全龍海の妾にされた。

 

そして暫くすると、「まだ独立の時機ではないので、当面の間は地方で身を隠して待機せよ」と命じ、人里離れた山間部で火田民として生活することを強制した。彼らが焼畑農業で得た収入をも献金させるなど徹底的な搾取を行った。山奥で教徒が赤貧洗うような生活を送るなか、全龍海は大胆にも京城府桜井町(現ソウル特別市中区乙支路4街)に居を構え、父親の全庭云と同様に、酒池肉林の生活を送っていた。
 

1937年(昭和12年)2月16日夜、朝鮮京畿道京城府下往十里町(現大韓民国ソウル特別市城東区下往十里洞)で、宗教絡みの乱闘騒ぎが起き、所轄の京畿道警察部東大門警察署が関係者を取り調べたところ、以前に殺人事件を起こして自滅したカルト教団「白道教」が、新たに「白白教」として復活し、京城に根を下ろしている事が発覚した。翌日、警察は京城府内のアジトを急襲し、幹部ら80人を検挙した。

 

日本政府は2月26日までに、白白教幹部約150人が検挙していたが、肝心の全龍海を取り逃がしていた。続々と検挙された信者は教祖である全龍海の居所について、何一つ話そうとせず黙秘を貫いた。全龍海の秘書に至っては、検挙時に自殺を図り、京城帝国大学医学部附属病院に担ぎ込まれる始末であった。その後も警察が厳しく信者を追及したところ、次々と教祖の殺人を供述し始め、捜査官を慄然とさせた。
 

全龍海は「自分に背く者や教団から抜けようとする背教者は死をもって罰せられる」と喧伝し、実際に教団の意に背いた信者や、自分に異議を唱えた信者、加えて性的興味を失った妾を山に連れ出して次々に殺害していた。警察は検挙した信者の証言を基に被害者の遺体の捜索を行って、314人の遺体を収容した。白白教団が日本政府によって壊滅されるまでの間に信者を600人余り殺害していたと推定される。

 

全龍海は火田民化した信者の家をアジトにし、各地を転々として逃亡を続けた。だが、全龍海は関係者が続々検挙されるに及び次第に追い詰められていった。そして、3月下旬に京畿道楊平郡の山中で自殺し、4月7日に死体が発見された。これにより白白教は壊滅した。当局によって差し止められていた記事掲載が4月13日、解禁となり世間を震撼させた。なお、全龍海の頭部は犯罪型頭脳標本として保存された。