「いつか要一は…」 疑惑だらけの舛添都知事の亡き姉の予言 (dot. 2016.5.31)
●生活保護の姉の扶養要請を断る
他者への比類なき攻撃性と、自分の欲望を満たすことにかける絶対的な情熱の源流を辿った。
「あんなにウソばっかりついて他人を傷つけて、いつか要一は手痛いしっぺ返しを食らう。5年前にそう言い残して膵臓がんで亡くなった、母の予言通りになりましたね。ずっと詐欺のようなことをしてきたのですから、同情の余地はありません」
舛添氏の姪がそう語る母とは、11歳年長の長姉のこと。4人の姉を持つ末っ子として八幡市(現在の北九州市)で生まれ育った舛添氏は、中学2年で父・弥次郎さんを亡くした。戦前は炭鉱を持ち、戦後は市場で八百屋を経営していたという父が死んでから、舛添家は教員資格を持つ長姉と、長姉と結婚した会社員の夫が大黒柱になった。成績優秀な舛添氏を東大進学で東京に送り出した長姉夫妻は、年の離れた舛添氏を我が子のように可愛がった。東大の体質を批判して1989年に教員を退官、国際政治学者としてテレビの討論番組に出演するようになると欠かさずビデオ録画して応援していたという。
母親のユキノさんの面倒を長年見てきたのも、長姉夫妻だった。ところが舛添氏は98年に出版した『母に襁褓をあてるとき─介護 闘いの日々』を出版、認知症が進む母の介護を巡って長姉夫妻を悪しざまに罵った。その後もあらゆるメディアで介護体験を自慢して名を売り、「母」「介護」「痴呆」などのキーワードのタイトル本を少なくとも9冊も著し、2007年の第1次安倍政権で厚生労働大臣の座を射止めた。
長姉夫妻は長年沈黙を守っていたが、同年、週刊文春が3回にわたって掲載した「舛添要一『消せない過去』」で重い口を開き、「要一が本で書いている内容は、全部反対の話だと理解してもらったらいい」と当時、取材した筆者(大平)に語った。
このシリーズでは、長年生活保護を受給していた4番目の姉を扶養するよう北九州市が要請したにもかかわらず、断ったことも報じた。92年ごろのことだ。当時、売れっ子の国際政治学者だった舛添氏は、バブルを謳歌していた。講演だけで一日300万円、多い年で年間3億円を稼いだ。北海道白老町に建てた別荘で女優たちと温泉に入ったり乗馬を楽しんだり、都内にも複数のマンションを所有して、世田谷の自宅は3億円で購入したなどと、インタビューで臆面もなく語っていた。その一方で、実の姉に救いの手を差し伸べようとしない理由が、「冷血」以外奈辺にあるのか問い質そうとしたが、舛添氏は「ダメです。不愉快です」と意味不明の対応で取り付く島もなかった。
さらに、片山さつき参院議員や、フランス人女性との結婚だけでなく、片山氏と結婚していた88年当時に愛人Xさんに男児を産ませて後に認知、さらに91年と95年には別の女性Yさんに2女を産ませた後、96年に現在の妻と結婚したことなども報じた。Yさんは婚約不履行を理由に訴訟で慰謝料を請求、Xさんも出産した男児が重度の障害を抱え、ここまでの生活は並大抵の苦労ではなかったという。
●お金出ない人と付き合わない
これだけではない。県立八幡高校時代からの親友だったFさんには四つ年下の妹Zさんがいて、舛添氏は彼女との結婚をほのめかして土建業のF家からも多額のカネを引っ張った。それでもFさんは舛添氏を支援したが、母の介護を巡って実情を知るF家とは疎遠になった。Fさんは6年前に亡くなり、Zさんも現在末期がんの床に伏せっている。
長姉にも、後を追うように同じ年に亡くなった義兄にも、Fさんに対しても、舛添氏からは何のお悔やみもなかったという。
「あの人は、お金が出ない人とはお付き合いしません。私は、もう関わりたくありません」
2年前の都知事就任時、そう落胆していたZさんは今回、舛添氏が政治資金で「龍宮城スパホテル三日月」に2年連続で正月家族旅行に興じていた週刊文春報道を受けた記者会見のテレビ中継を見て、筆者にこうメールしてきた。
「テレビみました。すっきりしました。私は、がんの末期であと少ししか生きませんがよくぞやってくれました」
これまで数々の疑惑を報じられながら、運良く切り抜けてきたが、今回ばかりは外堀を埋められ浮かぶ瀬が見つかりそうもない。
舛添氏はかつて、中学時代に死んだ父のルーツを求め、『花と龍』『麦と兵隊』などで知られる芥川賞作家、火野葦平の旧居「河伯洞」(北九州市若松区)を訪れたことがある。00年の初夏。手には1930年に若松市議選を戦ったという父の選挙ビラがあった。「舛添弥次郎」の右横には片仮名で、左横にはハングルでルビが振ってある。その謎を解くために、当時の選挙戦の様子を『花と龍』などで描いた葦平に、縁を求めてやってきたのだ。
●火野葦平の掛け軸を「購入」
葦平の三男で河伯洞管理人の玉井史太郎さん(79)が振り返る。
「そのハングルの選挙ビラを持って、臨月でおなかの大きな奥さんと一緒に来ました。昭和16年に出版されて絶版になっている葦平の『美しき地図』の中で、選挙協力を求められていた主人公の朝鮮人の友人が『入れられなくなりました。こらへて下さい。今度、朝鮮のひと、候補に出る。仕方ありません』との記述を見つけ、喜んでいました」
舛添氏は「現代」01年1月号でこのエピソードを「参政権が朝鮮人にあった『戦前』を考える 立候補した父親とハングルの選挙ビラ」で書き残している。
そんな縁もあり、舛添氏はその後も2度ほど河伯洞を訪れ、玉井さんも毎月「河伯洞だより」を欠かさず舛添氏に郵送してきた。10年12月に発刊した記念誌「あしへい13」には舛添氏がこんな寄稿をしている。
<先日、懇意にしている東京本郷の古本屋が葦平の掛け軸を持ってきた>
河童の絵をあしらった葦平の軸を額装し、背景にして舛添氏が一緒に写真に収まっている。玉井さんは嘆息した。
「掛け軸も政治資金で購入されてたりしたら目も当てられません。みみっちいと言うか、あれがあの人の本質やったんかな。厚労大臣のときはSP5人に若松警察署長まで連れて嬉しそうに来てましたけどね。河伯洞だよりも今月から送るのやめます」(編集部・大平誠、作田裕史、宮下直之)
※AERA 2016年6月6日号
(引用終わり)