生きづらさは、どこからくるのか――ズレた私と、 窮屈な社会 ,うつ病の果てに考えた。

生きづらさは、どこからくるのか――ズレた私と、 窮屈な社会 ,うつ病の果てに考えた。

僕はずっと世界になじめていない気がしている。
話していても、働いていても、どこかズレている。
うつだから仕方ない? 

でも、「生きづらさは、どこからくるのか」。
その問いから、もう一度皆さんと一緒に考えてみたい。

元気があれば何でもできる。そう言った人がいる。

この言葉を聞くと、少しいらっとする。

いやいや、元気がないから困ってるんだよって。

疲れた人にアリナミンと言う広告が溢れている。

でも、疲れたときに休めないことに問題があるんじゃないの? 

左の指を欠損している少年が努力して、甲子園に出場し、何本もヒットを打ったことを世間は賞賛している。

僕も驚きとともに感動を覚える。

でも、少しの違和感が残る。

なぜ障害のある人が健常者と同じ土俵で「がんばること」が素晴らしいのか?

障害の有無に関わらず、

「がんばります」「がんばれよ」このような言葉は普段から溢れているように思うけれど

何をそんなに頑張らなくちゃいけないのだろうか?




「元気があればなんでもできる」

このフレーズは、典型的な健康第一を称賛する1つのスローガンになってると思います。体を健全に維持し、最大限に稼働させることが既に社会的義務になっている。逆に健康でなければ人にあらずといったようなプレッシャーをかける。そういう構造になってとボクは考えます。なぜそのような構造が一般的になってしまっているのか。その方が社会を動かす人からすると楽だからだと僕は思います。自分が1つのチームのネージャーだと考えてください。例えば10人いるメンバーのうち、毎日誰かが調子が悪いと言って休んでばかりいると仕事が回らなくなると言うのは現実です。これがもし野球だと9人いないとそもそもチームとして成立しません。組織として何かを成し遂げていくためには、その組織に関わる人たちが健康でいてくれる方がありがたいわけです。


元気があれば何でもできるといった人は、そういうことを意図して言ったわけではないと思います。彼はシンプルに「元気があれば、困難も乗り越えられるんだ、がんばろう!」

と言うメッセージだったと思います。


逆にだからこそ、元気第一主義、健康第一主義といった構造が、目に見える形で出てくるわけではなく、マルクスの言うところの下部構造として作用するところに、今の世の中の息苦しさがあるのではないでしょうか。


労働の辛さ、社会で「まともに」生き残る大変さを、「健康ならなんとかなるでしょ?!」と追い詰める。


そんな社会は僕は好きじゃないですね。