私はくずであると自覚する人間である。

ここから先の話では、私は自分の考えに自信がない。

なぜなら、私自身がくずではない人生を生きたことがないからである。

くずの考える範疇からは所詮、抜け出すことができない、大海の一滴がごとき持論である。

日本から一度も出たことのない人による世界論がごとき空虚さが残ってしまう。

一度でいいから、くずではない人生を生きてみたいものである。


しかし、私にはくずの世界から出国するパスポートは与えられる見込みがないので

私に新しい世界観が広がることはないのである。悲しい話である。


さてくずが考えるくず論を本格的に展開していきたい。



目の前の事象に対して、自分以外の責任である。

と判決を下し続ければ、くずの世界に足を踏み入れることはなくなる。


世の中がこのように簡潔にできていれば、きっと世の中に、

客観性はともかくとして、主体的な意味において

自分をくずと自覚する人は死滅するのである。


しかしそうはならないのである。

短期的には、くずには陥らない。

しかし長期的には…


失敗を周囲の責任にした瞬間に人間は成長をあきらめてしまう。

周りの責任である、自分の努力の余地がないと考えるからである。

この行為は単に目をそらし、逃げているだけである。

そしていつかは壁に当たり、そして結局は自分の責任と判定するしかなくなってしまうのである。

行き止まりまで、追い詰められてしまうのだ。


そこで行き止まりに当たらずに切り抜けられる人は本質的にくずではないのだ。

私には当てはまらないのでこのタイプの話をすることはできない。


心理学では、失敗に対して原因を

1、自分の才能のせい

2、自分の努力不足のせい

と設定する場合


1、を選択するものは潜在的に自分の努力が不足していることを

自覚するものであるという。

つまり、潜在的に認めているからこそ、壁に当たった瞬間の衝撃なり、ダメージ

つまり、自分をくずの世界へと押し込む力は強くなる。


長期的には結局、くずにとってくずの世界から逃げることは、最終的な心へのダメージを

無意味に増やしてしまうだけなのである。


くずにとっては、断罪式は自分で判定するからこそ辛いものになってしまうのである。


くずの個人差。

これは大きな問題である。


つまり、この個人差がないとすると世の中の人は等しく、くず、もしくはくずではない人ということになる。


この解は直観的に納得できるものであろうか。

私はのどに引っ掛かりを覚える。


私はこう考える。


私たちはくずの世界では神、裁判官、地獄の閻魔などの立場に等しくなる。

つまり、判断者である。断定者である。


人生で得た様々な知見から、目の前の事象を断罪していくのである。


ここで、簡潔に物事を判じるために、世の中の事象で自分にとって都合の悪いことの

原因を自分、もしくは自分以外のみであるとしたい。

人間は比較検討する際には二つのものしか比較できないのだ。

現代の脳科学を超えた頭脳の持ち主ではなく、平凡以下のくずな能力しか持たない私は

この手法を取らざると得ない。とても悲しい話である。


さて、仕事の失敗を自分のせいだと考えた。

そうすると当然自分はくずだと断じる。


反対に失敗を周囲の環境に責任を押し付ければ自分はくずの世界には入らずに済む。


とても簡単な話である。

くずの世界はくずなりに簡潔にできているのである。



しかしながら一律にそういうわけにはいかないのがこのくずの断罪式なのだ。




私にとってくずの世界は自由な世界である。

目の前のどの事象をくずの世界に引きずり込むかについては私のみが

決定する権利を持っているのだから。


つまるところ、傍観者になりえるのである。

後世の学者、評論家などと等しい立場で物事を観察できるのである。

自分の行いに対してすらそうである。


これは、自分の原因、これは他人が悪い、環境が悪い、運が悪い……


自分が無責任に何事も決めることができる、これが私にとってのくずの世界である。


このくずの世界に対する私の考え方が許されるという前提でなら、

この点にくずに対する個人差が大きく影響する余地があるのだと私は考える。




私が自分のことをくずと思う場面、

そこには常に他人の存在が意識にある


たとえば、他人が簡単にできることを失敗してしまう時


これは当然他人との比較してしまうから自分が劣っていることを自覚し、

さらに発展させれば、失敗をすることで他人に迷惑をかけると考えるから

くずという発想が生じるのである


もし、失敗したことが、

一日で1000km歩く

300対3万の戦いに勝つ


であったらどうであろうか

私は、この失敗になら自分のことはくずだとは考えない

それは「成功した人が偉大である」と捉えられるべき事柄だからである

5000円と1万円を間違えておつりを五千円多く渡してしまうのとは、根本的に違うのである



たとえば、一日中布団ですごし、休日を終わらせてしまったとき


この場面でも私は自分のことをくずであると考えてしまう

そこにもやはり、意識の中に他人が存在する


私は一日8時間寝たからといって自分をくずだと卑下することはない

だが、

周りには休日に遊ぶことで平日から解放されて気分転換する人がいる

休日に勉強し、運動し、趣味に打ち込み、自分を鍛錬する人がいる


だから私は自分をくずだと卑下してしまうのである


休みの日にくず、くずと飽きずに書いている、

私は今日眠りにつく前に自分のことをくずだと卑下するであろう


自分がくずと思う場面はどのような時か


たとえば、


ほかの人が簡単にできるようなことをミスしたり、自分ひとりでは解決できずに

ほかの人の手を借りた時


手伝うべき場面なのに、見て見ぬふりをしてしまった時


人に言えないようなことをしてしまった時


一日、布団にはいったまま何もせずに休日を終わらせた時


いつもよくしてもらっている人に対して心の中で悪態をついた時


まだまだあるが、ぱっと思いつくことはこの程度であろうか

おそらく、くず日記をつけていれば尋常ではない具体例を上げることができるだろう

これからは、くず日記をつけてみよう


さて、くず日記でこの仮説の検証数を増やすとして、

私が、自分のことをくずと考える場面の共通性はどこにあるか


それは他人の存在を意識するときである