副島隆彦が202627日(衆議院選挙投票日前日)に書いた次のタイトルの記事から不正選挙に関する箇所を抜粋して掲載します。

 

3214】金、銀の値動きの事。それから、またしても不正選挙が行われる。

投稿日:2026/02/07 06:33

 

次に、8日投票の衆議院選挙の結果の予測を書く。

ワルの米高官のエルブリッジ・コルビー(No3である 米国防省次官 アンダー・セクレタリー)が日本に来ていた。こいつが日本で暗躍して、何をやっていたか。

またしても日本で不正選挙(voter fraud ヴォウター・フロード)の準備をしたのだ。

 

(転載貼り付け始め)

〇 「 コルビー米国防次官が防衛・外務次官と協議 防衛費、具体的議論せず 」

2026128日   日経新聞

 

(ここに記事の中のコルビーの写真を貼る)

大和太郎防衛次官は28日、来日中のコルビー米国防次官(政策担当)と会談した。日米同盟の抑止力・対処力を強化する方策を話し合った。防衛省によると、日本の防衛費について特定の金額や結論を念頭においたやり取りはなかった。コルビー氏は船越健裕外務次官とも個別に協議した。

大和氏とはインド太平洋地域の安全保障環境を巡り意見交換した。南西諸島と台湾、フィリピンを結ぶ「第1列島線」が念頭にあったとみられる。

 

コルビー氏は会談前、X(旧ツイッター)で米国の国家防衛戦略などに沿って抑止力の強化を議論する意向を示していた。同戦略は日本を含む同盟国に国防費を国内総生産(GDP)比で5%まで引き上げるよう求める内容を盛り込んだ。来日の前には韓国を訪れ、安圭伯(アン・ギュベク)国防相らと会談した。

 

(転載貼り付け終わり)

 

副島隆彦です。 上掲とは別の記事にあるが。 2025.11.4の 米議会の公聴会で 「 上院議会の公聴会では与党・共和党を含む上院議員から国防総省ナンバー3のコルビー国防次官(政策担当)への批判が相次いだ。議会への情報共有が不十分だとして、共和党のティム・コットン上院議員はコルビー氏のチームを「豚小屋のような混乱状態にある」と批判した 」が重要だ。

 

マルコ・ルビオ国務長官も、ピート・ヘグセス国防長官も、このコルビー次官に、極東(東アジア)の防衛、軍事問題は丸投げしている。

この大(だい)ワルのコルビーが、日本の政治に、またしても不正選挙を仕掛ける。 メディア(テレビ、新聞)は、「与党が300議席を取る」という国民扇動の結果予測を流している。参政党、国民民主まで与党に入れて、そして、465議席のうちの3分の2を取らせて、それで、高市・統一教会政権に、「憲法改正へ」の動きを始めさせる。この真冬の総選挙も、アメリカが始めから仕組んでやらせたものだ。 日本人は、シーンとなって動かない。

一部の反共右翼(統一教会とその変態たち、がその中心)たちだけが、アメリカに動かされて、「国防をしっかりしないと、日本は危ない」の掛け声を掛けて、日本人を扇動している。それで、憲法改正へ、だ。私たちは、この動きに、いよいよ身構えないといけない。

 

コルビーは、東京で、駐米大使の 、こいつもヘッジファンド(博奕打ち)あがりの、ジョージ・グラスと、 それから、富士ソフト(秋葉原に本社。選挙用の票掲載のソフトも作る)を6千億円で創業家から買い取った、一番ガラの悪いハゲタカ(乗っ取り)ファンドのKKR( ケイケイアール)の会長のヘンリー・クラビスと、それから、伊藤穣一(いとうじょういち。Joi Ito 。エプスタイン島の常連)と、それから斎藤ジン(LIBTQで、NYのヘッジファンドの親玉たちへの助言業者)が、まとまって、今度も、不正選挙の準備を着々と整えた。

 

今度も、富士ソフトの「ムサシ」という違法集計ソフトを導入して、衆議院選挙の全国の得票を、彼らのいいように弄(いじく)り回す。「ムサシ」は、米国製の「アリストス・システム」という違法集計マシーンの日本改良版だ。誰を受からせ(当選させ)て、誰を落とすかまで決める。日本の言論人で、このことを、はっきり書くのは、私、副島隆彦だけだ。今、書いておかなければ気が済まない。私は、後(あと)出しじゃんけんの、後(あと)講釈はしない。私が。このように書かなければ、日本国が暗闇に沈むからだ。

 

トランプ大統領自身は、「あまり日本を中国に嗾(けしか)けるな」と言う立場だ。

トランプは、この4月に、北京に行って、習近平と会談する。2人は、真実は何を話すか。それは、「台湾をいくらでアメリカが中国に売るか(引き渡すか)」だ。 それが、5兆ドル(750兆円)なのか、最大10兆ドル(1500兆円)なのかを、そろそろ決めないといけない。 アメリカが中国に対して持っている米国債(アメリカの大借金)の残高20兆ドルのうちの半分を、「チャラにするために、台湾をアメリカが譲り渡す」という話だ。

 

そして、アメリカは、グアム、ハワイの領土、領海まで国防線を引き下げる。それを第2列島線と言う。日本国は、フィリピンと共に、この第2列島線の内側で中国側だ。 これを、別名、ウエスト・パック( West Pac 西太平洋)の海域という。これの管理権、支配権を、中国に引き渡す、ということでもある。 これらのことを、私は、近刊の 『中国はアメリカに戦わずして勝つ』(ビジネス社、2025年10月刊)に詳しく書いた。今からでも買ってしっかり読みなさい。

 

だから、トランプは、高市と電話で話すたびに、「高市よ、中国とケンカするのはやめなさい。もっと穏やかにやりなさい」と宥(なだ)めるように言う。「自分は、習近平と穏やかに話し合って、決めてゆくつもりだ。中国に対して、あまり波風を立てるな」と。

 

ところが、アメリカの軍事、外交政策では、コルビーのような凶暴な人間を使って、中国に日本を盛んに嗾(けしか)ける。その尻馬に乗った、反共右翼(統一教会たち)の500万人の日本人が、「中国と戦うぞ」と意気盛んになる。

 

ところが、トランプ自身は、「まあ、待て待て」とそれを諫(いさ)めて、手綱(たずな)を引っぱる。この硬軟の両方のやり方で、よく分かった上で、日本を操(あやつ)る。これが今のアメリカのやり方だ。 中国にしてみれば、日本が、アメリカの言いなりのまま、軍備を増強されるのは、実にイヤなことだ。このようにして、トランプは、日本を中国との交渉材料(カード、card )のひとつに使っている。 コルビーは、「日本は、GDPの5%を国防費に出せ、使え」と、公然と言いに来た。日本のGDPは、5.2兆ドル(30年前と変わらない。円安なので800兆円だが、国内では600兆円)の5%は、30兆円だ。これで、今度は、「トマホーク」という500キロまで届く中距離弾道ミサイルを、与那国島、石垣島とかに配備する、となっている。

 

 

 

 田坂広志氏の著書「死は存在しない」(最先端量子科学が示す新たな仮説)の中で,現代の科学は「三つの限界」に直面しているということについて,ご紹介します。

 因みに,田坂氏の経歴等はウィキペディアに書かれております。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%9D%82%E5%BA%83%E5%BF%97

 

現代の科学は「三つの限界」に直面している

 

「分析」をすると,「本質」が見えなくなる

 

 先ほどから,筆者は「現代の科学は」という表現をしている。

 その意味は,人類の文明,数千年の歴史の中で,近代科学の歴史は,わずか数百年にすぎず,現在,我々が「科学」と呼んでいるものは,たしかに素晴らしい成果や業績を挙げてきたが,それでも,まだ,様々な「限界」を持ったものだからである。

 その一つの大きな限界は,現代の科学は,「意識」というものの本質を,まだ,明確に説明できないことである。

 そして,その理由は,現代の科学が「唯物論的科学」だからである。

 

 すなわち,現代の科学は,この世界の本質は「物質」であり,「生命」や「生物」も「意識」や「心」や「精神」も,すべて,「物質」が複雑な物理的・化学的な相互作用を生じた結果,生まれてきたものであるとの立場,すなわち,「唯物論」の立場に立っているからである。

 これは,言葉を換えれば,すべてを「物質」の性質で説明する「物質還元主義」の立場であるとも言える。

 

 そして,その結果,この「唯物論的科学」は,「意識」というものも,すべて「物質」が生み出したものであるとする立場に立ち,我々の「意識」や「心」や「精神」というものも,人体の中の「脳」という部位の「神経細胞」が起こす化学的・電気的な相互作用によって生まれてくるとする立場に立っている。

 それゆえ,この「唯物論的科学」は,「肉体」が消えれば,「意識」も消え,死後に「意識」が残ることは無い,従って,「死後の世界」など無い,との明確な立場に立っている。

 そして,我々の多くは,現代の科学のこの考えを「絶対の教義」のごとく,受け入れてしまっている。

 その理由は,先ほども述べたように,現代においては,「科学」が「最大の影響力を持つ宗教」になっているからである。

 しかし,現代の科学,すなわち,この「唯物論的科学」「物質還元主義的科学」と呼ばれるものは,すでに何十年も前から,限界に直面している。

 それは,次に述べる「三つの限界」である。

 

三人のノーベル賞学者からの根本的批判

 

 現代の科学が直面する「第一の限界」は,「要素還元主義」の限界である。

 

 この「要素還元主義」とは「ある対象の性質を理解するためには,まず,その対象を小さな要素に『分解』し,次いで,それぞれの要素を詳細に『分析』し,最後に,そこで得られた分析結果を『総合』すれば,その対象の性質がすべて解明できる」という考えである。

 実は,『方法序説』を著した十七世紀のフランスの哲学者,ルネ・デカルト以来,永年,科学は,この「要素還元主義」に立脚してきた。

 しかし,近年,その限界が明らかになってきたことから,この「要素還元主義」を超える科学的手法として,「複雑系科学」(Complexity Science)が注目されるようになってきたのである。

 この「複雑系科学」とは,現代の科学が立脚する「要素還元主義」への根本的批判として生まれてきたものであるが,分かりやすく言えば,「物事が複雑になっていくと,新たな性質を獲得するため,複雑な対象を要素還元主義的に分解し,分析し,その結果を総合しても,対象の性質を正しく理解することはできない」という立場に立った科学である。

 一つの例を挙げれば,秋の空に浮かぶ鱗雲の性質を理解しようとして,その雲を取ってきても,それは水蒸気の固まりにすぎず,鱗雲の性質は消えてしまって,分からない。そして,水蒸気の性質を理解しようとして,その水分子を取り出してきても,水蒸気の性質は消えてしまって分からない。さらに,水分子の性質を理解しようとして,それを分解して,酸素の原子一個と水素の原子二個に分解しても,水分子の性質は分からない。

 同様に,「意識」や「心」や「精神」というものの本質を知ろうとして,脳を解剖して神経細胞の働きを仔細に調べても,それだけでは,決して,「意識」や「心」や「精神」というものの本質を知ることはできないのである。

 この「複雑系科学」については,拙著『複雑系の知』や『まず,世界観を変えよ』において詳しく述べているが,その要点を述べるならば,以上のような説明になる。

 

 そして,この「複雑系科学」は,決して怪しげな「似非科学」ではない。

 それは,米国ニューメキシコ州のサンタフェにある「サンタフェ研究所」が,1980年代から,その研究を進めている真っ当な科学である。

 この研究所は,三人のノーベル賞受賞者,物理学賞のマレー・ゲルマンとフィリップ・アンダーソン,経済学賞のケネス・アローが中心となって1984年に設立したものであり,現在も,世界中の優れた若手研究者が集まって,学際的な研究を続けている。

 それにもかかわらず,現代の科学は,このサンタフェ研究所が提起している「要素還元主義の限界」という問題提起を正面から受け止めることなく,相変わらず,唯物論的科学や物質還元主義的科学が主流となって,「意識」の問題を解明しようとしているのであり,それが,現代の科学が,いまも「意識」の本質を解明できない理由でもある。

 

ミクロの世界では,「物質」が消えてしまう

 

 現代の科学が直面する「第二の限界」は,「物質消滅」という限界である。

 

 すなわち,唯物論的科学は,世界のすべては「物質」の性質から説明できるとする立場に立つが,現代の最先端科学,特に量子科学の世界を究めていくと,そもそも,その「物質」そのものが,確固として存在するものではなく,非常に不確かな存在であることが明らかになっている。

 実際,我々の目の前にある世界を日常感覚で見るならば,「物質」とは,観ることも,触ることもできるものであり,目の前に明確に「存在」し,「質量」や「重量」を持ち,どこに存在しているかという意味での「位置」も明確に分かるものであるが,一方,この世界を,極微のレベル,原子よりも遥かに小さな「素粒子」のレベルで観察するならば,そうした日常感覚で捉える「物質」という存在が「消えて」いく

 

 その象徴的な例が,素粒子の一つである「光子」が示す「粒子と波動の二重性」である。

 これは,量子科学の教科書レベルでも,良く紹介される性質であるが,光の実体,すなわち「光子」は,観察の方法によって,「粒子」の性質を示すときもあれば,「波動」の性質を示すときもある。すなわち,光子というものを,「極微の物質」であり「極微の粒子」だと考えても,実際には「波動」としての性質を示し,「物質」として,その「位置」を測定することさえできないのである。

 これは,量子科学の創成期に,アルベルト・アインシュタインやヴェルナー・ハイゼンベルクを始めとする多くの科学者を悩ませた「粒子と波動の二重性」の問題であり,現在も,量子科学の根本にある「パラドックス」とされているものである。

 

 また,アインシュタインの提唱した「相対性理論」(Theory of Relativity)において,「E=mc2」という方程式が示されるが,これは,「m」という質量を持った「物質」が,「mc2」という「エネルギー」へと変換されることを示した方程式である。

 すなわち,我々が「物質」と呼んでいるものは,実は,すべて「エネルギー」の固まりに他ならず,目の前に存在する「物質」は,それがいかに強固な存在に見えても,それは,究極,「エネルギーの固まり」に他ならないのである。

 そのことを象徴的に示すのが,原子爆弾である。これは,ウランやプルトニウムという核分裂性物質が,連鎖的に核反応を起こすと,瞬時に巨大なエネルギーに変換されることを利用した大量破壊兵器である。

 同様に,原子力発電が実用化されているのは,「物質」の本質が「エネルギー」であり,ウランやプルトニウムという「物質」が,核分裂によって瞬時に「エネルギー」に変換されるからである。

 さらに,あなたは驚かれるかもしれないが,この量子科学においては,日常感覚では何も存在しないと考えられている「真空」は,実は,「無」ではないとされている。

 それは,実は,「量子真空」(Quantum Vacuum)と呼ばれるものであり,莫大なエネルギーが潜む場である。そして,その中から,素粒子が生まれてきては,消えていく場でもある。

 すなわち,ここにも,ある種の「物質」と思われるものが,真空(無)から生まれてきて,真空(無)へと帰っていくという不思議なプロセスが存在する。

 

 このように,現代の科学である「唯物論的科学」や「物質還元主義的科学」が立脚する「物質」という存在は,実は,極めて曖昧な存在であり,むしろ,現代の最先端科学は,この世界の本質は「物質」ではなく,「波動」であり,「エネルギー」であることを明確に示しているのである。

 これが,現代の科学が直面する「物質消滅」という限界に他ならない。

 

現代の科学には「説明できない不思議」が数多くある

 

 現代の科学が直面する「第三の限界」は,「説明不能」という限界である。

 

 すなわち,現代の科学には,「なぜ,そうしたことが起こるのかを,説明できない」という問題が,数多くあるのである。

 その事例として,ここでは「五つの問題」を挙げておこう。

 

 第一は,「自然定数の奇跡的整合性」という問題である。

 これは,現在,我々が住むこの宇宙は,宇宙の基本的性質を表す「自然定数」と呼ばれるものが,「奇跡的な数字の組み合わせ」になっているという問題である。

 具体的には,重力と電磁気力の強さや,陽子と中性子の質量の大きさといった数字が,わずか0.1%違っただけで,この宇宙は,このような生命の誕生にふさわしい形で「存在」することはできなかったのである。そして,現代の科学は,なぜ,この宇宙は,その自然定数が,このような「奇跡的な数字の組み合わせ」になっているのかを,全く説明できないのである。

 

 第二は,「量子の絡み合いと非局在性」という問題である。

 これは,一度,絡み合った(Entanglement)量子同士は,宇宙の彼方に引き離されても,一方が,ある状態を示すと,もう一方は,瞬時に,その反対の状態を示すという不思議な性質である。これは,光の速さよりも速く,情報が伝達されることになり,アインシュタインの相対性理論に反することになるが,この「非局在性」(Non-Locality)と呼ばれる量子の性質を,現代の科学は説明できないのである。

 

 第三は,「ダーウィニズムの限界」という問題である。

 これは,生物の進化は,すべて,突然変異と自然淘汰によって起こるとするダーウィンの理論では,人類のように高度で複雑な生命が誕生するためには,地球の年齢,46億年を遥かに超える年月が必要になるため,現実に,この地球上に,数十億年の期間で人類が誕生した謎を,現代の科学は説明できないのである。

 

 第四は,「生物の帰巣能力の謎」という問題である。

 例えば,河川で卵から孵化した鮭の稚魚は,春,海に降り,遠く離れた外洋で何年かを過ごし,最後は,生まれ故郷の河川に戻ってきて産卵する。また,鳩の帰巣能力や渡り鳥の方向認識能力の高さは良く知られており,蟻もまた,かなり離れた場所から正確に巣に戻る。さらには,五千キロの距離を歩いて飼い主の元に戻った犬の事例も報告されているが,現代の科学は,こうした生物の帰巣能力の謎を解明できないのである。

 

 第五は,「神経の伝達速度と反射運動の謎」という問題である。

 これは,例えば,野球において,投手が投げた時速160キロの球を,打者の視神経が捉え,脳神経に伝え,筋肉を動かすというプロセスでは,神経での情報伝達の速度を考えるならば,理論的には,とても間に合わないという問題である。しかし,現実には,打者は,この球を打ち返すことができるが,この反射運動の謎を,現代の科学は説明できないのである。

 これらは,ごく一部の例であるが,現代の科学には,「なぜ,そうしたことが起こるのかを,説明できない」という問題が,数多くあるのである。

 

いまも「意識の謎」を解明できない現代の科学

 

 こう述べてくるならば,現代の科学が,決して「万能」でもなく,「無謬」でもなく,解き明かせない「謎」を数多く抱えた「限界」のあるものであることが理解できるだろう。

 そうであるならば,我々は,現代の科学の主張を無条件に信じ込み,「現代の科学が否定しているのだから,神秘的な現象や死後の世界は存在しない」という固定観念は,一度,取り去って,まずは,虚心に,我々の生きているこの世界を見つめてみる必要があるだろう。

 

 特に,現代の科学が直面する最大の問題の一つは,「意識の謎」を解明できないという問題である。

 その「意識の謎」のうち,最も根源的な問題は,そもそも,現代の科学は,「物質」から「意識」というものが,どのようにして生まれてくるのかを,説明できないのである。

 現代の脳科学は,そのことを,「脳神経の作用で,意識が生まれてくる」と説明するが,この説明そのものに,多くの科学者や哲学者が疑問を抱いている。

 

 むしろ,現在,最も注目されているのは,「そもそも『物質』そのものが,極めて原初的な次元で『意識』を持っているのではないか」という仮説である。

 すなわち,ルネ・デカルト以来,当然と考えられてきた,「物質」と「意識」というものを対立的に捉える考え方ではなく,むしろ,「物質」の根源的構成要素である,量子や素粒子そのものに,極めて原初的な次元の「意識」が備わっているという考えである。

 筆者は,この仮説は,極めて説得力を持つ仮説であると考えており,この仮説が,「意識の謎」を解き明かす鍵になると考えているが,その意味は,本書の後半で語ろう。

 ここでは,現代の科学は,「物質」から「意識」というものが,どのようにして生まれてくるのかを説明できないという事実を,まず,理解しておいて頂きたい。

 

我々の誰もが体験する「意識の不可思議な現象」

 

 このように,現代の科学は,基本的な次元で「意識の謎」を解明できないのであるが,それゆえ,現代の科学は,我々の誰もが日常的に体験する,次のような「意識の不可思議な現象」を説明できないのである。

 

視線感応

以心伝心

予感

予知

占い的中

既視感

シンクロニシティ

 

 これらの出来事は,あなたも,これまでの人生で,一度ならず体験されているのではないだろうか。

 

 まず,「視線感応」とは,日常の何かの瞬間に,ふと,視線を感じ,その方を見ると,たしかに,誰かが自分を見ていたという体験である。

 

 「以心伝心」とは,人間同士が,何の言葉を交わさず,何のコミュニケーション手段も持たない状況で,相手の考えていることが分かったり,同じことを考えていたという体験である。

 例えば,永年連れ添い,気心知れた夫婦の間では,言葉を交わさなくとも,いま相手が何を感じ,何を考えているかが分かり,同時に,同じ言葉を発するなどのことは,しばしば起こる。これは,多くの夫婦が体験されていることだろう。

 また,少し特殊な例では,双子の兄弟姉妹の間では,この「以心伝心」が日常的に起こることも,心理学的研究で報告されている。

 

 「予感」とは,文字通り,何か良いことや悪いことが起こることを,事前に感じ取っているという体験であるが,例えば,「何か悪い予感がする」「胸騒ぎがする」と思った後,何かのトラブルが起こったという体験は,実は,誰もが持っているだろう。また,ギャンブルを行う人は,この「予感」の力が発達しているため,こうしたことは日常的に体験しているだろう。

 

 また,この「予感」よりも,さらに明確かつ具体的に未来の出来事を感じ取る体験が,「予知」と呼ばれるものである。この「予知」を体験する人は,「予感」よりも少ないと思われるが,筆者は、この体験を持っている人にもしばしばお目にかかる。そして,筆者自身も,この「予知」については,極めて象徴的な体験を持っている。そのことは,第四話で詳しく語ろう。

 

 さらに「占い的中」とは,易者や占い師によって行ってもらったり,自分自身で行った「占い」での未来予測が,不思議と当たったという体験である。筆者は,この「占い的中」についても,象徴的な体験を持っている。

 

 そして,「視線感応」と「以心伝心」は,現在において起こる体験であり,「予感」や「予知」や「占い的中」は,未来について起こる体験であるが,「既視感」は,過去の記憶と現在の出来事が結びつく体験である。

 すなわち,この「既視感」は,フランス語で「Deja Vu」(既に見た)とも呼ばれる体験であるが,日常の何気ない光景を見たとき,突如,「ああ,この光景と全く同じ光景を,過去に見たことがある」と感じる体験である。この「既視感」は,青少年期に良く体験すると言われるが,これも,あなたは,一度や二度は,体験したことがあるだろう。

 

 最後の「シンクロニシティ」(Synchronicity)とは,日本語では「共時性」と訳されている現象であるが,例えば,会話で誰かのことが話題になると,丁度,その人物から電話がかかってきたり,ある問題で悩んでいると,たまたま喫茶店で隣に座っていた客が,そのテーマで話をしていた,といった体験である。

 

「説明できないものは,存在しない」とする頑迷な立場」

 

 このように,「視線感応」や「以心伝心」,「予感」や「予知」や「占い的中」,「既視感」や「シンクロニシティ」といったものは,我々の誰もが日常に体験するが,そして,古今東西,無数の人々が体験し,報告されてきたが,こうした「意識の不思議な現象」を,現代の科学は説明できないのである。

 そして,現代の科学は,「説明できないものは,存在しない」という立場をとるため,これらの「意識の不思議な現象」を,すべて,「単なる偶然」「ただの錯覚」「何かの思い込み」「一種の幻想」「脳神経の誤作用」といった理由で説明しようとするのである。

 たしかに,古今東西,無数の人々が体験し,報告されてきた「意識の不思議の現象」の中には,事実,「単なる偶然」「ただの錯覚」「何かの思い込み」「一種の幻想」と呼ぶべきものも数多くあるだろう。さらには,「手品」や「詐欺」のようなものもあるだろう。

 しかし,そうしたものを除外しても,なお,「偶然」や「錯覚」,「思い込み」や「幻想」などでは説明できないほど,明確で鮮明な「意識の不思議な現象」があることも事実なのである。

 

 日本には,「這っても黒豆」という諺がある。

 二人の男が,畳の上にある黒い物を見ながら,言い合いをしている。

 「あれは黒豆だ」「いや,あれは虫だ」

 そう言い合いをしているうちに,その黒い物が這い出した。

 それを見た片方の男が,「ほら,這っている。やはり虫だっただろう」と言うと,もう一方の男が,頑固に言い張る。「這っても黒豆だ」。

 

 現代の科学が「意識の不思議な現象」に対して示す姿を見ていると,筆者には,あたかも,この「這っても黒豆だ」と主張する人物のように思えてくる。

 それは,どれほど「意識の不思議な現象」が体験され,報告されても,「現在の科学で説明できないものは,存在しない」とする,頑迷な立場と言える。

 しかし,もし,「科学」というものが,本来,「世界の真実の姿を探究する」ことを目的とするものであるならば,むしろ,こうした無数に報告される「意識の不思議な現象」が,どのような原因で生まれてくるのかを,謙虚な姿勢で,真摯に見つめ,探究し,仮説を立て,その検証に向かうべきであろう。

 それは,永年,科学者と研究者の道を歩んできた一人の人間としての,筆者の思いでもある。

 そして,その思いゆえに,本書で,筆者は,人類の歴史で無数に報告されてきた「意識の不思議な現象」が,どのような原因で生まれてくるのかについて,科学的な仮説を立て,説明を試みようと考えている。

 

現代のガリレオの呟き「それでも,不思議な現象は起こっている」

 

 人類の歴史を振り返るならば,かつて,「宗教」というものが,「科学」に対して圧倒的に優位であった時代がある。

 その時代には,「宗教」は「科学」の主張や言説を,弾圧と呼ぶべき形で,圧殺した歴史がある。

 その一つの象徴が「ガリレオ裁判」であろう。

 一人の科学者として,「地動説」を唱えたことから,宗教裁判にかけられ,「地動説」を撤回し,「天動説」を認めることを強要されたガレリオ・ガリレイは,やむなく,それを認めたが,裁判の後に呟いたとされる。

 

それでも,地球は動いている」と。

 

 現代の科学の姿を見ていると,この「ガリレオ裁判」が,皮肉にも逆の様相を呈しているように思えてならない。

 現代は,「科学」というものが「宗教」に対して,圧倒的に優位となった時代。

 そうした時代においても,なお,無数に報告され続ける「意識の不思議な現象」。

 それらの現象を,「説明できないものは,存在しない」とする現代の科学が,すべて「単なる偶然」「ただの錯覚」「何かの思い込み」「一種の幻想」「脳神経の誤作用」として切り捨てたとしても,それらの現象を体験した無数の人々は呟くだろう。

 

それでも,不思議な現象は起こっている」と。

 

 されば,現代の科学は,「科学で説明できないものは,存在しない」とする立場を改め,謙虚に,真摯に,この「意識の不思議な現象」の解明に向け,新たな歩みを始めるべきであろう。

 そして,人類の歴史始まって以来,無数の人々が抱いてきた問い,「なぜ,不思議な出来事が起こるのか」「なぜ,神秘的な現象が起こるのか」「死後の世界は存在するのか」といった問いに,21世紀の科学は,あくまでも「科学的な立場」から,「答え」を示していくべきであろう。

 

 では,なぜ,筆者は,本書を通じて,そのことを提言するのか。

 そして,本書を通じて,その「答え」の方向を示そうとするのか。

 

 次の第三話では,その理由を述べよう。

 

 (引用はここまで)