つらつらと綴ります。


今まで霊感は上がるものだと思っていたけれど


きっとそういう事ではないと気づき始めました。




まだ辿り着いていないので


分かるような分からないような


そんな曖昧なところだけれど


恐らくは間違っていないと思います。




これまで、記事の中でも


霊感を上げる方法のようなものを


あくまで私見として書いたことがあるけれど


何か違うな…と、消して来たのには


私なりの違和感というか、そういう理由がありました。


それは今思えば、間違っていたのではなく


足りなかった、、そんな感じです。




それで、最近分かってきたのは


霊感というのは、元々生まれ持ったものがそれぞれにあって


それは、鍛えれば上がる、というものではなく


自分の中にいつの間にか溜まってしまった不純物を極限まで無くして行くことで


際立つというか


本来のものが発揮されてくる


そんな感じなのかな、、ということです。




じゃあ、最初から何も溜めなければ良いかと言うと


決してそんなことはなく


生きていくために身に付けた知識や常識や


欲や、善悪含めた様々な感情…


そういったものを経験して捨てる


その作業が必要なのかな、と思うのです。




生きていく主体はもちろん自分なのだけれど


この世界は互いに助け合う、作用し合うことで成り立っていて


それを、例えば、相手の立場になって考えてみるとか


そんな小さな小さな世界ではなく


もっともっと俯瞰したところで世界を見る必要があって


自分にとって何か不都合があったり


不便さがあったり、納得が行かなかったり


そんなことが感情に影響しているうちはまだまだ俗で


世界は相互作用で出来ているのだから


自分にとって常に便利な、納得の行く世界であるはずがなく


またそれを優しさや思いやりで補うことが正しい訳でもないのです。


優しいから我慢する、優しいから助ける


ではなく


それが当然だからそうする、ということ。


そんな当たり前のことも、極々自然なこととして受け止められる…


というか、不自然とさえ感じない


その極地まで行く必要があるのだろうなと思います。




本当につらつらと書いてますが


読んで下さっている方、ついて来れてますか(笑)


茅ワールドに巻き込んでしまっていたらごめんなさい。


でも、この際だから巻き込まれてみて下さい。



続けます。



この世界は一人ひとりが主体でありながら


その主体のみでは完成しない相互作用の世界で


だからこそ、自分の主体の軸をずらすことなく


世界を俯瞰する力が必要で



それができて初めて


本当の意味での他者への感謝も生まれる


生きている世界への感謝も生まれる


そういうことなのだろうと思う訳です。



そしてその俯瞰する力は


まっさらな生まれたての心のままでは決して身に付けることが出来ず


清濁併せ呑んでこそ


そしてそれを捨ててこそ


見えてくるものだろうと思うのですよね。




その辿り着いた先に見えるものを神と呼ぶなら


それがその人にとっての神であって



俗に言う、神社に行けば会えるという神も


もしかしたら、全てを取り払った者だけが


出会う存在であるのかも知れません。




遥か昔の人は皆、神を見ることが出来たと言われているけれど


それは今のようなデジタルな情報社会ではなかったから、ではなくて


生命として、確実に死が近くにあったわけで


安全な今を生きる私たちよりも


真髄、真理にたやすく到達していたからではないかと思うのです。




私は個人的には神様はいると思っているけれど


絶対に神は居ない、と説く人の話を聞いていると


あぁ、もしかしたら居ないのかも…


と思ったりもするわけです(笑)



けれど、じゃあ私が見てしまう、感じてしまうものは一体何なのか、、


いやいや、やはりあれは神以外の何者でもない


あれを神と呼ばないなら、それこそ一体何なのか、となる訳で



だから、そうかそうか、やはりあれが神なのだ


と、自分が一番腑に落ちる所に着地しているのかと


そう思ったりもしています。



でもね、人間の力を超えた何かと繋がる瞬間を本当に感じている身としては


お願い、あれを神と呼ばせて…と思う気持ちもあるのです(笑)




こう書いていくと


私が神社で神を感じられるのは


私がその極地に達した人間だからだ


と言っているように聞こえてしまうけれど


それも少し違っていて


私はまだどこにも辿り着いていないのだけれど


何故か、所謂、霊感といったものが発揮されやすい体質なだけ、ただそれだけなのです。




そしてその霊感というものも


霊力?霊能力?そんなものと区別されているようだけれども


私にとって、そんなことはどうでも良くて


と言うより、良く分からなくて


別に分からなくても良いものでもあります。



だから拘りなく霊感という言葉を使っていますが


私が言いたいのは


霊感なんていうものを上げるための努力をするというのは


もしかしたら本末転倒であって


やはりそれは生き方の結果なのだろうと思うのです。



寺社にせっせと通えば霊感が上がるというのは


それは不思議な力が身に付くのではなく


削ぎ落とす機会をもらっているだけなのだろうと。



一人で行こうが大勢で行こうがそこは自由だけれど


行ったからには、神と呼ばれる者と一対一で向き合う


己と向き合う


そんな時間にしなければ、霊感は発揮されないのです、多分。




世の中には霊感を上げたい人がいらっしゃいますが


それは一体何のためでしょう…


もしも霊感を発揮できるようになったら


その力を何に使いたいですか?


それは本当に霊感に頼らなければ出来ないことですか?


そもそも人間に霊感が備わっているのは何故でしょうか?


そしてその力に差があるのは何故でしょうか?



霊感を上げたいと思う方は


ぜひ自問自答してみて下さい。




そして最後にもう一つ。


削ぎ落とす練習をするのにうってつけの方法があります。


それは、見えない世界の追求に、限りなくお金に頼ることなく挑むこと。



行きたい神社がある


会いたい神がいる


じゃあ、そこまで歩いて行ってみて下さい。



飛行機や新幹線なんて絶対にダメ。


泊まるところも寝ることを満たすだけの場所。


食事も生命を維持するためだけのもの。



夢を叶えるとか、努力するとか


そういう世界とは全く別次元。



好きだからやる、嫌だけどやる


そんな小さな世界を抜け出せたら


今とは全く違う景色が見えるかも知れません。





霊感を上げることを考えない生き方。

本当の意味でそれが出来るかどうか。

そこにこそ霊性の真実が隠されているのです、きっと。