作戦の前準備は、金曜日から始まっていた。普段は絶対持ち帰らないはずの、スリッパタイプの上履きを、隠すようにしながら袋に入れて家に持ち帰った。

「あれ?さく、上履き持って帰るの?」

となりのさきちゃんが、不思議そうに聞いてくる。

「う、うん、土日でちょっと使うかもしれなくて…」

「ふうん、どっかいくんだ!」

「そうなんだ!えへへ…」

私のこの計画は、大親友のさきちゃんにも内緒でやろうと決めていた。さきちゃんが知ってしまったら、ヘンな子だと思われちゃうかもしれない。止められるかもしれない。けれど靴下生活は、卒業前に絶対にやっておきたかったこと。さきちゃんには悟られないように…!

 帰宅して、自室に持ち込んだ、私の上履き。途中で甲の部分が取れそうになったので、2年の真ん中あたりで一度買い替えてからは、家に持ち帰ったことも、洗ったりしたこともない。ふつうのバレーシューズと違い、汚れることもにおいがするようなこともなかったから。わざわざ持ち帰るのは、部活や用事で他校に入る時くらいであろう。私はそんな機会もなかった。約1年半、私の足裏を守ってくれた上履き。それを私は再び袋に入れて、さらにあらかじめ買っておいたミニ金庫に入れた。見た目は草花があしらってあってかわいらしいけれど、金属製で、カギをかければ絶対に開かないような、頑丈さのある金庫だ。地元の雑貨屋さんで偶然見つけて、サイズ感も今回の計画にぴったりだと思った私は、その場で即購入を決めた。結構な出費だったけれど、それだけ私の覚悟は大きかった。金庫に鍵をかけてしまって、私のドキドキは高まっていくのを感じていた。金庫のふたが絶対に開かないことを確認すると、その日は眠りについた。そうするつもりはなかったけれど、カギを握りしめて、私は眠りに落ちていった。

 翌日の土曜日の朝、私はそのカギをポケットに忍ばせて、近所の小山に上っていた。標高はそんなに高くなく、傾斜も緩やかでハイキングにぴったりな山だ。頂上に着くと、周囲には誰も人はいなかった。頂上には小さな神社があり、そのそばにはもう使われていないであろう、井戸が残されていた。危険なためか、井戸の入り口は木の板でふさがれている。周囲は高い木で昼でも暗く、お化けが出てきそうな雰囲気さえあった。私は周りに誰もいないのを確認して、その井戸に近づいた。木で塞がれてはいるものの、その木も古くなっており、ところどころ穴が開いていたのだ。その穴の一つは、私がいまポケットに忍ばせているカギが、十分通る大きさだった。

「ふう、はあ…」

私はポケットからカギを取り出すと、震える手でそれを持ち、井戸の穴にそれを近づけていった。手が震える。これを入れてしまえば、私はあのスリッパを二度と履けなくなってしまう。卒業まであと一週間、私の靴下生活が確定する。夢にまで見た、靴下生活が、実現してしまう。ずっと、やってみたいと思っていたけれど、なかなかできなかったこと。中学生活で、やりたいことはほとんどできてきたけれど、やり残したこと。カギを持つ手が、穴のすぐそばまで来た。カギを放そうとするけれど、手が言うことをきかない。どうして?これさえなくなれば、私は靴下生活を…!

「ふうーついた!」

「意外とすぐだったね!」

「さ、ごはんにするよー!」

唐突に私の背後から声が聞こえて、私は手をひっこめた。カギは…、ある。私はそれを確かめると、カギをポケットに入れて井戸から素早く離れた。そのまま山を下りる。背後で家族がランチを食べる楽しげな声が聞こえてくるが、私はまったくそんな気分にはなれなかった。あと少しだったのに、私のバカ!すぐに決断して、カギを落としてしまえれば…!その日は家に帰り、自室のベッドでカギを眺めていた。大丈夫、まだ明日がある。明日こそ…!

 翌日の日曜日、私は昨日よりもっと朝早く、同じ場所へ向かった。頂上には日曜日の朝ということもあって、さすがに誰もいなかった。天気は昨日と同じく、快晴だ。私は今度こそ誰にも会わないうちに計画をやり切りたいという思いから、すぐに井戸へと向かった。井戸の周りは相変わらずひんやりとしていて、足元もじめじめしていた。穴はまだそこにあって、私はポケットからカギを取り出すと、ドキドキする心を押さえつつ、震える手を穴に近づけた。カギの先端が穴に入る。うん、思った通り、ぴったりだ。そのまま残りの部分も穴へ突っ込み、あとは手を放すだけ。その時になって、私はこれからのことが不安になった。これを落としてしまえば、靴下生活が確定する。1週間しかできないけれど、みんなが上履きを履いて過ごす中、一人だけ、一日中靴下のまま過ごす。当たり前だけれど、卒業式も靴下のままだ。親に見られたら、なんて思われるだろう。クラスのみんなはどんな反応をするんだろう。引かれたりしないだろうか。中学最後に、引かれるのはヤだな…。さきちゃんは大丈夫かな。一緒に高校に行くことになるだろうけれど、ずっと友達でいてくれるかな。

 どれだけそのままの姿勢で止まっていたのだろう、近くを横切る鳥の鳴き声で、私は我に返った。カギはまだそこにあった。ううん、私は決めたんだ。この計画をやり切ったら、私は何か変わるかもしれない。それに、やり残したことがあるまま卒業なんて、嫌だ。すっきり終わらせてから、高校生になりたい。私はカギを持つ手に視線を向けた。その手から、次第に力を緩めていく。やがて、カギは支えを失って、手元から離れていった。少しして、井戸の底に水が溜まっていたのか、ピチャン、という小さな音が聞こえてきた。それからはもう音はせず、あたりを飛び交う鳥の声や、葉っぱのさざめきのみが私を包んでいた。

 気づくと私は全身に汗をかいていて、ヘンな姿勢のまま止まっていたせいか、腰のあたりがいたくなった。私はそばのベンチに腰掛けて、グイッと伸びをした。周りに人がいないことを確認すると、私は履いていたスニーカーを脱いで、ソックスだけになった足を椅子にのせた。意図せず、私は学校で履く白ソックスをその日履いてきていた。くるぶしの上までの、白ソックス。何足か持っているけれど、どれももちろん、汚れのない真っ白なもの。自分から靴下を汚すなんて、生まれて初めてだ。私はソックスのまま木製のベンチの上に立った。一歩一歩とその上を歩いてみる。端っこまで来たら、ターンして戻る。もといたところまで戻ると、膝をまげて足の裏を確認してみた。ベンチの上に積もっていた、葉っぱのかけらや土がついて、うっすらと茶色っぽくなっていた。

「明日は、もっと、真っ黒になるんだろうな…」

以前見た、さきちゃんの真っ黒になった靴下を思い出す。足形に真っ黒になったソックス。私の靴下もあんなに真っ黒になるんだろうか。想像するとドキドキしてくる。私は靴を履きなおすと、山を下りた。振り返ったが、井戸はもう木々に隠れて見えなくなっていた。

 

 両足とも靴下だけになった私は、履いていた通学用シューズを靴箱に入れて、ふたを閉じた。昨日までのことを思い返して、私は自分の決断が揺るがないことを改めて確かめる。もうここまで来てしまったからには、後戻りはできない。先週まで履いていた上履きは、自宅のベッドの下で、金庫に入って”永久に”眠っているのだ。

「よし、教室に行こう…」

まだあたりはしんと静まり返っている。一歩足を踏み出すと、タン、タンという私の足音が、あたりに響く。上履きを履いている時とは明らかに違う、靴下生活独特の足音。あの日、さきちゃんが立てていた音だ。その音を聞きながら、床のひんやりとした感触を足裏を通して感じる。タン、タン、と、私は足の裏全体で廊下を歩き、階段を上っていった。教室に着くまでが、私にはとても長く、とても疲れる道のりのように、その日は感じていた。さきちゃんにはどんなふうに言おう。上履きを忘れたことにしたいけれど、それが何日も続くと、さすがにおかしいと思われるかな。やっぱり最初から事情を話した方がいいのかな。先生には何か言われないかな。大丈夫かな。怒られちゃったりするのかな…。教室の前に着くと、私はごくんと息をのんで、扉を開けた。すると中には、誰もいないと思っていたけれど、すでに一人、席に座っていた。私が一番よく知る、私が一番よく話す、私の一番の親友。

「あ、おはよ、さく。無事、来れたんだね!」

「さ、さきちゃん…?なんで…?」

「がんばったじゃん!さく」

私はそんなさきちゃんの笑顔を見て、一気に緊張が解ける気がして、その場にへたり込んでしまった。

「ちょちょちょ、あとちょっとだよお、がんばって!」

「え、えへへ、力がぬけちゃった…」

「もう、さくったら!」

 

 「さく、写真撮ろう、写真!」

「う、うん!」

クラス全員での記念写真撮影が終わり、最後のホームルームも終わって、教室の前で、私たちは胸にコサージュを付けて、二人並んだ。

「ウチ、写真とろっか?」

「あ、ありがとう!お願い!」

さきちゃんが自分のスマホを、クラスメイトの一人に手渡す。

「はい、チーズ!」

パシャ

「ありがとう!」

「いえいえ!よかったら、ウチたちのも撮ってくれない?あとでアルバム、作るからさ!」

「いいよ!」

 

 その時に取られた写真は、プリントアウトされてクラスのアルバムに保管されている。高校を卒業して、一人暮らしになった今も、時々それを取り出して眺めている。あの日の金庫は、今も実家の私の部屋に眠っている。そこにいるのは、どこにでもいるような2人の女子中学生。一つ普通と違うところをあげるとすれば、その左側の子の足元に、あるはずのものがないことであろう。

「…そろそろ、寝ようかな」

明日も朝は早い。私はアルバムを閉じると、眠りについたのだった。

 

おわり