「あの、すみません」

とある月曜日の昼休み、図書委員の当番でカウンターに座って、最近入った小説を読んでいると、不意に声がかけられた。中学校の図書室で、特に何もない昼休みだったので、本の貸し出しや返却もあまりない。なので急に声をかけられて少しの間フリーズしてしまった。

「あ、はい、返却ですか?貸し出しですか?」

中学校1年生のころからもうかれこれ2年間、ずっと図書委員をしていると、いろいろな生徒と話すことになる。幸い、僕の中学校にはそんなにワルな生徒はいない。だからたいていのことはこなすことができる。しかし、この生徒に対してはそんな僕も少しドキドキしてしまった。

「ちょっと聞きたいんですけど・・・」

カウンターの前に立ってにいたのは、髪を二つ結びにした小さな女子生徒だった。大きな瞳でこちらをじっと見つめてくる。学年はおそらく1年生かな?上履きやネームプレートの色でふつうはわかるのだけれど、ネームプレートは胸の部分についていない。その上、この子はどういうわけか上履きを履いておらず、くるぶしの少し上くらいまである白いソックスだけで立っていた。僕の担当日ではおそらく初めてくる生徒だ。

「はい、どうかしましたか?」

なにか聞きたいことがあるようで、僕が彼女の次の言葉を待っていると、頬を赤く染めて、精一杯、といった雰囲気で彼女はこう続けた。

「今日私、上履き忘れちゃって・・・。くつした、汚れちゃってるんですけど、脱いで入ったほうがいいですか・・・?」

「靴下、ですか・・・?」

僕の学校の図書室は、上履きを脱いで入らなければならない。そこへ汚れた靴下で入るのはどうか、という質問。こんな質問は初めてのケース。別にそのまま入ってもらっても問題はないだろう。しかし、上履きを忘れて今も靴下ということは、朝からいままでずっと靴下で過ごしていたことになる。けっこう汚れているのかな。気になった僕は、

「そうですね・・・、どれくらい、汚れてる感じですか?」

「えっ、ええと、えっと・・・、こ、こんな感じ、です・・・」

入る上でこのままでOKかどうか判断したい、純粋にそんな理由で汚れ具合を聞いただけなのだが、女子生徒は頬を真っ赤にしつつ、右足をおずおずと曲げて、足の裏を見せてくれた。

「あー、けっこう・・・」

見せてくれた白い靴下の足の裏は、足の形がはっきりとわかるほど、黒っぽい汚れが浮かびあがっていた。校舎内の砂やほこりを、この時間までで集めてしまったのだろう。

「そう、なんです・・・。今日に限って移動教室が多くって、それにここに来る途中で水道のあたりがぬれちゃってて・・・」

なおも、真っ赤になりながら、手を口に当てて今日のことを話してくれる女子生徒。みていると、そんな仕草がたまらなくかわいらしく思えてきた。靴下を脱ぐ、という動作も恥ずかしいだろうけれど、この靴下ではほぼほぼ土足と変わらないので、脱いで入っていただこう。

「なるほどです。すいませんけど、けっこう汚れちゃってるので、脱いで入ってもらっていいですか?靴下は、上履き入れに置いといてもらえれば」

「あ、はい、わかりました!」

彼女は足を戻してそう言うと、カウンターから一段上がる段差に座って、片足ずつ、僕の目の前で靴下を脱いでいった。横から見える表情は、先程より収まったものの、頬は赤く染まって、少し恥ずかしそうである。両足とも素足になると、足の裏を軽く手ではたいて、靴下を上履き入れの上に置くと、

「ありがとうございます。ちょうど借りたい本が入ったみたいなので、どうしても読みたくって」

そう言って、にっこり笑った。

「いえいえ、ごゆっくりどうぞ」

「ありがとうございます!」

彼女はそう言うと、裸足のままペタペタとカーペットの敷かれた図書室へと入っていった。

 昼休みが終わろうという頃、残っている生徒がいないか見回りのため図書室内を回っていると、カウンターからは見えなかった位置の、窓際の机に、彼女が座っていた。姿勢よく、素足をしっかりと床につけて、入ったばかりの長編小説を読んでいる。日差しが本の上に落ちて、二つ結びになった髪がたれて、いい感じに横顔を隠している。時間も忘れて読んでいるのだろうか。夢中になるのは、作者やこの本を入れようと勧めた僕からするととてもありがたいのだが、もうすぐ次の授業が始まってしまう。このままでは僕も彼女も遅刻だ。肩をトントン、と叩いてみると、彼女ははっと顔を上げて僕を見上げた。

「・・・?」

「すいません、もうすぐ次の授業が始まりますよ」

「えっ、ほんとですか!?ごめんなさい!」

彼女は勢いよく席を立つと、

「あ、あの、この本、借りたいんですけど、時間が、ないですよね??」

本を胸のあたりに抱えて、僕の方にずい、と顔を近づける。近くで見ると、いい香りがふわっとして、端正な顔立ちがより際立つ。

「放課後また来てもらえるのでしたら、キープしておきますよ」

半ばのけぞりながらそう伝えると、

「ほんとですか!?ありがとうございます!!」

「いったん、預かっておきますね」

「はい!放課後またきますね!ほんとにありがとうございます!」

彼女はそういうと、ぺこりとお辞儀をして、出口へ向かった。

「あ、あの、一応、クラスと名前を聞いててもいいですか?」

そんな彼女の、制服に素足というアンバランスで華奢な背中に問いかけると、

「1-4の、中野シオリ、です。漢字は、本に挟む「栞」です。よろしくお願いします!」

くるっと回って、そう自己紹介してくれた。彼女は一度靴下を忘れて図書室を出ようとしたが、はっとしたように立ち止まると、靴下を手に取り、

「また、来ますね!」

彼女、栞さんはカウンターに残る僕に笑顔を向けると、靴下は手に持って、裸足のまま、廊下へと去っていった。ペタ、ペタ、という足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。僕はそんな彼女との出会いの余韻に浸りつつも、預かった本をカウンターに置き、彼女の名前を書いたメモ付箋を張り付けた。何かが本の間に挟まっていたので、少し取り出してみると、四葉のクローバーがラミネートで挟まれた栞だった。おそらく彼女のものだろう。僕はそれを元のように本に挟み込むと、カウンターを整理して、チャイムの鳴りだした廊下へと歩き出した。まだ近くにいるかもしれない、いたらいいな、という希望を抱きつつ、自分の教室へと急いだ。放課後の時間が、とても楽しみだった。

 

おわり