あの日、僕は家に帰るとすぐ、例の紙に書かれたアドレスに、メールを送ろうとした。宛先の欄に、間違いのないよう、彼女のメールアドレスを打ち込んで行く。思えばこれが、僕のお母さん以外の異性への、初めてのメールだった。
 間違いがないか、何度も確かめたあと、僕は件名、そして本文の欄になにを書こうか、すっかり迷ってしま った。えっと、女の子への、それも一度も話したこともないし、名前も知らないし、全く何も知らない女の子への初めてのメールって、なんて書けばいいんだろう。こればかりは、お母さんに聞いても、先生に聞いても、ちゃんとした答えは返ってこないだろう。それに、恥ずかしくって聞けやしない。僕は自分の部屋のベッドに寝転んで、真っ白な携帯電話の画面を見つめた。そこに5文字、打ってみる。"ありがとう"そしてまた、真っ白なキャンバスに戻す。また打ち込む。"こんばんは"そして、消す・・・。
あーもー、どうすればいいんだろう。それからかれこれ1時間ほど、僕は携帯電話とにらめっこしていた。途中電源切れになりかけて、慌てて充電コードをつなぐ。そして思考錯誤の上、完成したメールは、こうだ。
"件名:今日は、ありがとうございました"
本文:チョコレート、とても美味しかったです。ありがとうございました。
チョコレートと一緒に入っていた、紙に書かれたアドレスにメールしています。
僕は、2年2組の、光野天体です。ひかりのそら、と読みます。あなたの名前も、教えてください。
お返事、お待ちしてます"

 ・・・こんな感じかな。大丈夫かな。誤字脱字はないかな・・・。大丈夫。できた。それから、送信ボタンを押そうとして、僕はまたためらってしまう。メールを見て気分を害したらどうしよう。無視されたらどうしよう・・・。でも、やってみなきゃ、わからないよね。彼女も、まっているかも知れないし。僕は送信ボタンに合わせ、目をつむって、決定ボタンを押した。
数秒後。僕の携帯電話の画面には、送信完了の知らせと、アドレスを登録しますか?の質問。もちろん、登録しないと。こうして、名前の欄は空白のまま、僕の携帯電話に新しいアドレスが、登録された。

 あれから1ヶ月。1ヶ月前はほとんど鳴らなかった僕の携帯電話が、時々音を立てるようになった。今も、メールが来た。送信者は、2年6組の甘木心愛(ここあ)さん。雰囲気と名前が、これほどに合っている人というのは、なかなか見たことがない。その日の給食後のお昼休みも、僕は自分の席について、彼女とメールのやり取りをしていた。実際に会って話をしたほうが早いのだろうが、なんせお互い照れ屋なので。校則では、休み時間の携帯電話の操作は迷惑にならない範囲で自由である。僕はその日、彼女に渡すものがあった。日付は3月14日。ホワイトデーだ。僕のカバンの中には、彼女へのお返しが入っている。さてこれをいつ、どうやって渡そうか。あまり凝らずに、シンプルに行こう。やっぱり、あそこかな・・・。
"件名:お願い
本文:最後に、ひとつお願いがあります。今日の放課後、屋上に来てください。用事があれば、そのあとで構いません。待っています"

 そしてその日の放課後。僕は小さな紙袋を下げて、ドキドキしながら屋上に立っていた。思えば、誰かに何かを上げるのって、初めてだ。時刻は午後4時40分。春の陽気を感じる、暖かい風が頬を撫でる。屋上には僕以外の人はいなかった。
 空を眺めていると、ふいにドアの開閉の音が、屋上に響いた。甘木さんかな。僕は振り返って、屋上への階段を視界に捉える。そこを上がってくるのは、髪を最近ショートにした、相変わらずちょこん、という形容の当てはまる、かわいい女の子。甘木心愛さんだった。
ちょっと大きめのブレザーを着て、膝丈のスカートに、ふくらはぎまでしっかり伸ばし、ワンポイントの位置も正確な白いハイソックス。上履きは履かないのが、彼女流。なぜかソックスだけで、毎日の学校生活を送っている。その理由を気になって尋ねてみたのだが、いまだその疑問への答えは聞かせてもらえない。
「まった?光野くん?」
はにかみ顔で聞いてくる。
「ううん、僕も、今来たところ」
お約束の、返しだ。すると、甘木さんはくすっと笑って、
「ウソ」
「え?」
僕はきょとんとしてしまった。どういうことだろう?
「私、20分くらい、あのドアの前で立ってた」
くるりと僕の前で一回転した甘木さんが言った。
「な、なんで?」
「その顔が、見たくって」
甘木さんは、こんないたずらっ子のようなところがある。僕も何度か、この手に落ちて、痛い目を見てきたのだが・・・。
「それで、用って、なあに?」
上目遣いに僕を見る甘木さん。僕は先程までのドキドキがいつの間にかなくなっていることに気が付いた。ごく自然に、甘木さんの目の前に、紙袋を持っていく。
「これ。えっと、お返しに。この前は、ほんとうに、ありがとう。とても嬉しくて、美味しかった」
差し出された紙袋。甘木さんは、先程の僕のように、きょとんとして立ちすくんだ。
「私に?」
「うん」
「いいの?」
「うん」
先程までの勢いはどこへやら、甘木さんはあたりをきょろきょろ、僕の顔を見たり、自分の足元を見て、もじもじしたり・・・を繰り返して、やがて、
「あ、ありがとう・・・」
そういって、紙袋を受け取った。
「あけても、いい?」
「うん」
中身は、甘木さんの好きなお菓子、マカロンだった。近所の駅前の小さなお菓子屋さんの手作りだ。個数が少なくていつも売り切れだと、甘木さんは嘆いていた。
「わあ、これ、あのお店のマカロンじゃない!どうして?」
いつも以上にテンションが高まった甘木さん。袋を持ったまま、ピョンピョンはねている。ショートの髪がふわふわと揺れる。
「開店前に、並んで買ったんだ。甘木さんにお返しをするなら、これしかないと思ってね」
「ありがとう!大切にするね!」
「ちゃんと、すぐに食べるんだよ?」
「もちろん!大切に、いただきます!」
そういって、再びマカロンを袋に戻す。
「じゃあ、またね、光野くん!」
手を振って屋上をさろうとする甘木さん。そんな彼女を僕は引き留めた。
「あ、その前にちょっと、聞いてもいい?」
「・・・なあに?」
僕を振り返って立ち止まる甘木さん。なんだか僕の考えていることが見透かされているように思える。
「どうして、甘木さんは、上履きを履いていないの?」
甘木さんは、くすっと笑って、
「もう、しつこいね光野くん。そんなに気になるの?私の、足元が」
「いや、そういうわけじゃないけれど・・・」
「・・・じゃあ、またね、光野くん!」
「あっ・・・」
甘木さんはそのまま、ソックスだけの足元で、ペタペタと屋上を出ていった。気になる、けれど、深く踏み込めない。何か話したくない理由でもあるのかな。でもいつか、それを聞ける日が来ればいいなと、僕は思う。甘木さんが靴下で歩いた階段を、廊下を、その足跡をたどるように、僕は上履きを履いた足で、歩いて行った。

終わり 5/10一部訂正