今日も、上履きは、そこになかった。私は仕方なく、履いていたスニーカーを脱いで靴箱にしまうと、底が薄くなった白ソックスのまま、廊下を歩き出した。いつものこと。だからもう慣れた。

以前にも、上履きがなくなっていたことがある。私はすぐに新しいものを買い直し、それを毎日、家に持ち帰るようにした。しかし、そのせいで今度は学校に履いてきたスニーカーを代わりに盗まれるようになってしまった。スニーカーを盗られるくらいなら、上履きを盗られたほうがましだと思った私は、その翌日から、上履きを学校で履かなくなった。一日、学校に上履きを置いて帰っただけで、上履きはその次の日の朝、跡形もなくなっていた。もう上履きを盗られたと知った時の、あの絶望感を味わいたくなかった私は、その日以降、冬が近づくまで、学校で上履きを履かなかった。スニーカーも肌身離すことなく、いつも持ち歩いていた。それでも、毎日私の何かが、なくなっていた。

私はいつの間にかクラス全員から、なにか異質なものを見るような目で見られていることに気がついた。ちょっと前までは休み時間中ずっと楽しくおしゃべりしていた子たちも、次々に私から離れていった。班を作るときも、私の机は誰の机ともくっつかない。

担任の先生は、きっとそれらのことに気がついているんだろうけれど、何もしてくれない。きっと、注意してもみんな聞かない。私も、頼ろうなんて、思わない。だって、先生もクラスのみんなから嫌われているんだから。私のクラスは、そんな感じで、どこかおかしかった。

その日は、冬が近づいたある水曜日だった。前日、私はうっかりしていて、上履きを置いて帰ってしまった。寒いから、さすがに上履きなしでは嫌だと思って、12月に入ってからは持ってきていたのだが、翌日、靴箱をのぞくと、やはり誰かに盗られてしまっていた。もう何足買ったかわからない。名前を何度書いたかわからない。そんな上履きが、またなくなった。こんなに盗られているのにもかかわらず、私はいまだその犯人が分からない。めぼしい人はいるけれど、ちゃんとした証拠はなく、どうしようもない。

私は再び白ソックスのまま、学校の中を歩いていた。冷たくて、冷たくて、凍えてしまうけれど、誰も、ソックス姿の私に、上履きを貸してくれる人はいない。だからトイレに入るのも、私はソックスのままだ。もしそこに先客がいたら、そのみんなの視線が足元に突き刺さって、居心地がとても悪い。

用を済ませて教室に戻ると、私の席から女の子たちがさっと散っていった。見ると、そこには破かれた私のノート。家にコピーをとっておいて助かった。私は無言のまま、周りを見ずに、破れた紙を集めて、ゴミ箱に入れようとした。

そこを覗き込んだとき、ゴミ箱にあるはずのないものが入っていた。ノートの残骸を脇に置いて、それを取り出す。それは、ズタズタに切り裂かれた、私の上履きだった。昨日まで私の足を守っていた、まだ汚れの少ない真っ白な上履き。今は見るも無惨なゴミに成り果てていた。私の後ろから、クスクスと乾いた笑い声が聞こえてくる。私を噂する声も聞こえる。

その時、チャイムが鳴った。途端にガタガタとクラスの人が席に戻る。一歩遅れてまだゴミ箱の横に立っていた私は、入ってきた担任の先生に睨まれた。先生は、誰からも好かれていない。だから、誰も先生の言うことを聞かない。けれどおとなしい私は、先生の怒った様子を見ると、ドキドキして、うつむいてしまう。その時も、私は先生から目線を逸らした。先生は、このクラスでは私だけが、先生の言うことを聞くということを知っている。なぜなら、私が先生を無視すると、ほかの人から嫌がらせを受けることを、先生は知っているからだ。先生は、私が手にしていた上履きには目もくれず、

「授業は始まっています。なぜあなたは席についていないのですか。お仕置きです。自分の机の上に、私がいいというまで正座しなさい。はやく!!」

私はびくっとして、ゴミ箱に全てを突っ込み、教卓の目の前に置かれた自分の席についた。何度席替えをしても、私の席は必ずここになる。私の引いた番号は、席替え係によって、必ずここに割り振られるのだ。机の上に正座をした私は、背中にみんなの視線を浴びていた。鋭いナイフで何度も刺されるかのような痛みを背中に感じていた。先生に言われて足の間にスカートの裾を挟んでしまっているため、私のソックスの裏は後ろから丸見えになっている。1日学校内を歩きまわった白ソックス。きっと埃をたっぷり吸い付けて、足裏は真っ黒になっているだろう。それを真後ろの席の女の子に見られるなんて。恥ずかしくて消えてしまいたい。先生は指し棒を持ちながら、黒板に書かれた図の説明をしている。誰も聞いていないのに。先生は授業を始めると自分の世界には入るから、生徒の事は見えないのだ。けれど私は動けない。正座をやめてしまうと、誰かが叫ぶ。先生は我に帰る。そして私は怒られる。それをもう何度も経験した。一度、後ろの人が足の裏をくすぐって、授業中に笑い出してしまった私は、そのまま授業終了まで、廊下に立たされていた。この日は授業が終わるまで、とても長く感じた。結局私は授業の間中、汚い足の裏をみんなにさらし、机の上に正座し続けていたのだった。

「それでは、体育館に移動しましょうか!」

その授業の後、先生が言った。私はざわざわと教室を出て移動を始めたみんなの後ろを、こそこそとついて行った。行きたくはなかったけれど、出ないと、また何をされるかわからない。

「ねえ、リョウ、どうして今日も裸足なの?上履きどうしたのよ?」

教室を出てすぐ、私の肩に手をまわして、一人の女子が話しかけてきた。同じクラスの、田中萌さん。その後ろに、萌さんの取り巻き、山田絵里さん、佐藤璃々さんもいる。

「なんでも、ありません」

私はその手を払いながら答える。

「ちょっと、なによその態度。モエがせっかく心配して言ってるのに」

「いいのよ、いきましょう」

3人は私を一瞥すると、みんなと一緒に行ってしまった。私は一人、人気のなくなった廊下を体育館に向かって歩き始めた。その足元に、上履きはない。白い靴下だけ。これまでにも、さっきの3人はちょいちょい、私にちょっかいを出してきていた。それまでしばらく誰も寄り付かなかったのに、原因は私にもわからないけれど。

水曜日の5限目はロングホームルームとして、毎週クラスごとに活動をしたり、学年で集まったりしている。今日は私の学年、2年生がみんな体育館に集まって、ある訪問者と一緒に遊ぶことになっていた。

中学校の指定は白いハイソックス。それに中学校指定の制服、セーラー服に学年色の上履きを履くのが、学校で決められたスタイル。スカート丈も厳しくきめられていて、短すぎると怒られる。私は面倒だから、長めにしてはいている。靴下も、真っ白いもの。だから月曜から今日まで、毎日上履きも履かずに校内を歩いていたから、その靴下の裏は足型に真っ黒に汚れてしまっていた。お母さんを心配させたくないから、その靴下は自分でこっそり洗っている。

「みなさん、今日は市の動物園のほうから、飼育員さんと動物たちが来ています。では、拍手で迎えましょう!」

まばらに起こる拍手の中、飼育員さんと思しき服装に身を包んだ人が4人、動物は、ライオンやゾウなんてこなくって、ケージに入れられたウサギやモルモット、ハムスター、インコ、オウム。最近人気のアルパカや、ヤギ、カメ。しかし、最後に入ってきた、思わぬ動物に、私たちは驚かされる。

「おい、あれ、オオカミ、じゃね?」

「ウソ、まさか、犬でしょう?」

「でも、牙とかすごいよね?」

ぽつぽつと疑問の声が広がる中、飼育員さんが説明を始める。動物の種類と名前。最後に紹介されたのは、やはり、オオカミだった。

「こちらは、シベリアオオカミのウルフくんです。生まれた時から、飼育員の橋本が世話をし続け、人間との信頼関係は保証されています。ただ今日は、万が一のこともあって、口輪をつけることにしていますので、ご安心ください。では、説明も終わったところで、これから皆さんのところに行って、ふれあいの時間としたいと思います」

動物の準備が整うと、みんなそれぞれのグループで動物を触ったり、エサを上げたりし始めた。私はそんなお友達もいつの間にかいなくなって、一人で見て回ることにする。けれど、アルパカは人気者でまったく姿は見えないほどの人だかりだし、小動物も人気のせいで触れない。ヤギもどんどんニンジンやレタスを食べて、カメは頭を縮めて眠っている。やっぱり一人じゃなにもできないかと、体育館の隅に行こうと人だかりの間を抜けているうちに、何度か靴下だけの足を、上履きを履いた足で踏みつけられた。誰もが動物に夢中で、それに気づかないのか、謝る人はいない。端っこに抜けたところで靴下を見ると、上履きの裏の跡が、私の靴下の甲の部分に、黒い汚れを残していた。

しゃがんでその汚れを払っていると、ふと目の前に誰かが立った。顔を上げると、そこにはさっきのオオカミの大きな、ふさふさとしたグレーの毛におおわれた顔があった。ふー、ふー、と鼻息がすぐそこに聞こえる。瞬間は、何が起きたのかよくわからなかった。けれど落ち着いてよくよくみると、飼育員さんの言っていた、口輪は、その顔に見られなかった。 

どうしよう、私、食べられちゃうの?そう思ったとたん、私の体はひもで縛られたように、動かなくなった。頭では逃げなきゃ、と思っているのに、体がいうことを聞かない。先程まで聞こえていた体育館のざわめきも、まったく聞こえなくなった。オオカミの顔が、下に下がった。

その次の瞬間、私の足に、何か温かいものがふれた。硬直が解けたのか、私は頭を舌に向ける。見ると、オオカミはその長い舌で、私の靴下をペロペロとなめていた。その汚れを取ってくれているかのように、何度も、何度も。それが終わると。オオカミはその大きなふわふわとした毛におおわれた体を、私の体にくっつけて、すりすりとこすりつけた。温かくて、気持ちよかった。そのまま私の体の周りを一周すると、オオカミは私の足を包み込んで、どっかりと横になった。温かくてふわふわとしたオオカミの体に、私の足は包み込まれた。気持ちいい。私はそっと、彼の体を撫でてみた。ぬいぐるみのように、ふさふさとした毛並み。たくましい体の感触。一度も触ったことのない、ものだった。そのまま彼は眠ってしまったようで、おなかが規則正しく、上下している。私はその体の上に、自分の体を重ねてみた。耳を彼のおなかに当てると、ぐるるる、すー、といった音が響いていた。そのまま私も眠ってしまいそうだった。

「・・・おーい、大丈夫か?」

肩を叩かれた。私は目を開けて、周りを見る。彼は今もそこにいた。気持ちよさそうな寝息を立てている。そして前のほうを見ると、クラスの人、知らない人、たくさんの人が、私の前に立っていた。

「すごいですね、私でも、ウルフはこんな風に眠ってくれませんよ。きっと、強くてやさしい心を持っているんですね。口輪を忘れたときはひやりとしましたが、安心しました」

飼育員さんが言って、にっこりとほほ笑んだ。見ていた人たちも、にこやかな表情で私を見つめている。

「気持ちよさそうにしていますし、起こしたら悪いですから、もうちょっと寝せていてやりましょう。いいですか?」

「は、はい・・・」

私がコクコクとうなずくと、飼育員さんはどこかへ行ってしまった。入れ替わりに、見覚えのある顔の3人。

「・・・リョウ、すごいじゃない。・・・今までの上履きなら、靴箱の上よ。・・・今日のは、ちょっとひどかったと思う・・・。今までのは、あんた背、低いから、・・・あたしが、返しとく。ごめん」

顔を赤くしてそれだけ言うと、3人は去って行った。確かに、私は背が低くて、靴箱の上には手が届かないけど、そんな近くにあったんだ。

「・・・リョウちゃん」

「え?」

見ると、以前まで私と一緒だった子が、そこにはいた。

「ご、ごめんなさい!」

「え?」

「私たち、あの、最近、近寄りづらくって、でもずっと、仲直りしたいなって、思ってたの。今まで、本当に、ごめんなさい。許してもらおうなんて、思ってないよ。一人にさせちゃったし・・・。でも、もう一度、お友達になってくれませんか?」

体が熱くなる感じがした。何かがこみ上げてくる。私はそれらを抑え込みながら、ただうなずいた。

また飼育員さんが近づいてきて、彼のおなかをポンポンと叩いた。彼は頭をもたげて、飼育員さんを見る。

「ほらウルフ、時間だぞ。ご飯が食べられなくなるぞ」

ご飯、という言葉に、彼の耳はぴくりと反応した。立ち上がって、ふるふると体を揺らす。それから再び私を見た。つぶらな瞳だった。優しい目をしていた。彼は一度瞬きをすると、くるりと踵を返して、飼育員さんと歩いて行った。でもまた途中で立ち止まって、小さく、

「ワン」

と鳴いた。

 

おわり