・・・そうだ、そうだ。必死に思い出した、あの顔。あれは砂川クルミなんかじゃない。吉岡トモヨだ。あたしがいじめてた、あの、トロヨだ。
 確かにあたしは、彼女にひどいことをしていたと思う。だから、こんなことを・・・。
 あたしは床にぺたりと座りこんだ。素足に床の冷たさが突き刺さる。外はすっかり日が暮れて真っ暗。校舎内も、そう。
 ・・・このままここに居続けるわけには、やはりいかない。トロヨ、・・・トモヨはどこに行ったのか、わからない。おそらく、もう二度とあたしの前に現れることはないだろう。大学も、やめてしまうだろう。
 でも、最後に、一度だけ、会いたい。こんなことをしてくれた怒りをぶつけるのか、それとも・・・。
 あたしは立ち上がった。靴はない。だからもう、このまま行くしかない。あたしは足の指にぐっと力を入れて、靴下だけの足を、玄関のタイル張りの床に下ろした。ひんやりと固く、気持ちいい。それから、玄関ドアを開くと、そこには申し訳程度の芝生が、学校に沿って、幅3mくらい敷かれている。ふさふさとした草の感触を足裏に感じながらそこを進み、地面は砂となる。普段この学校の中学生たちが靴を履いて駆け回っているであろう、グラウンドを、あたしは靴下のまま歩いている。砂のさらさらは気持ちいい。けど、すごく惨めな気持ちになる。そういえば、あの時、彼女はどうしたのだろう。

 あたしが彼女にちょっかいを出し始めて少しした頃、あたしは彼女の通学用の靴を隠したことがある。その数日前には、彼女の上履きを隠していて、彼女はその日から数日間、毎日白ソックスのまま、校内を過ごしていた。ちょっと恥ずかしそうにしてたのが、面白かった。だから、もっとやってみたくなってしまったのだと思う。その頃には彼女の周りから人がいなくなっていて、誰も彼女に靴を貸してくれなくなっていた。
 あたしはじゃあ、いっそ、という軽い気持ちで、友達数人と共謀して、彼女の通学シューズを学校前の水道の下に隠した。帰り際、彼女はさっさと教室を出て行ってしまったが、後からあたしたちで追いかけてみると、靴箱に彼女の姿はなかった。ひょっとしてと思って、靴を隠した場所を覗いてみたが、そこにはそのまま、靴が残されていた。あたしたちは思った。あいつ、靴履かずに、帰っちゃったのかな?その時は、あたしもみんなも、ゲラゲラ笑っていた。彼女が靴下のままで道を歩いている光景を思うと、笑いがこみ上げてきた。楽しかった。翌日、彼女は新品のシューズと上履きを履いていた。

 彼女が転校して行ったのは、それから間も無くのことだった。

  あの日、彼女は靴下のまま、家に帰ったに違いない。その時も、こんな気持ちだったのだろうか。恥ずかしくて、惨めで、やりきれない。憎らしい・・・。あたしはとぼとぼと靴下を砂まみれにしながらグラウンドを横切り、閉じられた学校門の前についた。しっかり施錠されていて、乗り越える他にない。持っていた空っぽのバッグを門の向こうに放り投げ、足を門にかける。よいしょ、と腕の力で体を持ち上げて、ストンと無事、学校の外に出られた。・・・こんなの、他の人に見られたくないな、と思った。・・・あの子も、こんな思い、だったのかな。

 学校の前は舗装されていない砂利道だった。かろうじて街灯は立っているものの、靴下だけで歩くには足の裏が痛い。あたしは足にかかる圧力を小さくするため、足の裏全体をつけて、そろり、そろりと進んだ。靴下が汚れるとか、もうそんなことは気にならなかった。もうとっくに、埃まみれの砂まみれなのだから。でも、ずっと裸足でというのは、なんともきつい。
 砂利道を少し歩いて行くと、一気に視界が開けて、田んぼが広がる。ここから道は未舗装のあぜ道へと変わる。ここを靴下だけで歩くなんて・・・。土が湿ってて、ねちょねちょして、草がツンツンして、ときどき変なものを踏む感触もあって・・・。足元は大変なことになっている。家に上がれないかもしれない。靴下、代えとか持ってきていたらよかったな。
 あぜ道をひたすら歩く。ずっと靴下のままなので、だんだん足が痛くなってきた。もうどれくらい歩いているだろう。もう直ぐ大きな道に出てもいい頃なんだけど。
 あぜ道の感触にようやく慣れてきた頃、足元の感覚が急に変わった。地面がアスファルトの舗装道路に変わったのだ。ようやく、たどり着いた。後はここを、左に曲がって10分ほど歩けば、始発のバス停にたどりつく。もう今日のバスは残っていないけれど、きっとあの子はもういないだろうけど、やはり直に行ってあたしの目でみて見ないと、納得がいかない。
 すっかり日は落ちて、あたりは真っ暗で肌寒い。地面も冷たくなってくる。先ほどのあぜ道で着いた土が乾いて、靴下にまとわりつく。ときどき、車道を古い車が通り過ぎて行く。この地域は昔のまま、変わらない。この舗装路も、昔のまま。ひび割れも治された跡はない。
 学校を出てどれほどの間、歩いていたのだろうか。そこに大きな、真っ黒い建物が見えてきた。もっとも、昼間に見ていたそれは真っ白なスーパーの建物だ。そしてその横にあるのが、バスの待合所。不思議なことに、最終バスは行ってしまったはずなのに、まだそこには電気がついていた。そしてその中に人影が見える。淡いピンク色のカーディガンに、紺のショートパンツ、ベージュのショートブーツを履いた彼女は、トモヨだった。
 あたしは急に、あたしのなかでなにかがこみ上げてくるのを感じた。怒りでもない。憎悪でもない。もっと他の、全く違う、何かだ。あたしはバス停への残り数十メートルを、駆け出した。パタパタという足音が夜の田舎町に響く。トモヨは驚いたように目を大きく開いて、あたしのことを見ていた。その目は赤く腫れ上がっていた。
 バス停に飛びこんだあたしは、彼女に抱きついておいおい泣き出した。トモヨの方も、いつの間にかあたしの頭に手を回して、泣き出していた。
 夜の、しんとした町のバス停で、あたしたち二人の泣き声だけが、大きく響き渡っていた。

 「ちょ、ちょっと、もう、いいかげん、離れなさいよ。」
ぐすん、と涙を拭きながら、トモヨはあたしの体を遠ざけた。
「なんで、ここにいたの?」
あたしはとりあえず、恐る恐る聞いてみた。
「しょうがないじゃない。バスがいなかったんだから。」
「え?でも、さっき・・・。」
「時間間違えちゃったのよ。最終バスは、夜の8時12分。あと5分よ。」
「うそ・・・。じゃあ、あたしたち、帰れるの!?」
「ええ。」
「よかったあ!本当に、よかった。あなたに、また、会えたから。あそこから歩いてきて、本当によかった。」
「まさか、靴履かずに来るなんて、思ってなかった。案外すごいことするのね。あなた。」
「あたしも、必死でさ。怒りとか、悔しさとか・・・。でもね、いまは、違うよ。」
「何?」
「トモヨ。ごめんなさい。」
あたしは深々と頭を下げた。目線の先に、泥だらけになった白ソックスが見える。
「あの時の、ことだよね。あの学校で、あなたにひどいことしたのは、このあたし。本当に、ごめんなさい。」
トモヨはしばらくの間、何も言わなかった。あたしも、顔を上げられなかった。
 「バカ・・・。」
トモヨは小さくそう呟いて、あたしの頭をポンとたたいた。
「絶対に許さないって、思ってたのに。そんなことされると・・・。・・・できなくなるじゃない。」
あたしは顔を上げた。同時にトモヨはそっぽを向いた。肩が細かく、震えていた。
その時、一台のバスが、轟音を響かせながら、あたしたちの目の前に滑り込んできた。
「・・・乗ろう。一緒に、帰ろう。」
トモヨがあたしの手を取って、バスに乗り込んだ。
始発のバスは、あたしたちだけを乗せて、20分遅れで発車した。

終わり