嘉納治五郎に「人に尽くすこと」を教えた母「定子」

息子への教育でなにより重視したのは「人に尽くすこと」。例えば、治五郎が家に友達を連れてくると、定子は一番おいしいお菓子を息子ではなく友達にあげました。身内を差し置いてでも客をもてなすことにより、母は「人に尽くすこと」の模範を息子に示したのです。

 

また、治五郎が人への配慮を欠いたときは、反省するまで決して許しませんでした。定子自身も、困っている人がいれば、自分自身のことは二の次というくらい、親身になって支えてあげたと言われています。

 

13歳になった治五郎

当時、治五郎は小柄(成人のときに158cmと言われているので、このときは145~150cmと予想される)な少年だったので、まったく歯が立ちません。

 

自分の弱さと力でねじ伏せる古い考えがまだ残っていることに、治五郎はショックを受けます。そんなとき、治五郎は体が小さくても強くなれる武術「柔術」の存在を知ったのです。

 

しかし、時代は文明開化を迎えて柔術はすでに古い武術として扱われていました。当時、家によく出入りしていた元武士だった男がかつて柔術を学んでいたことを知った治五郎は、柔術の指導を男に頼みますが「時代遅れの柔術なんて学ぶ必要はない」と、断られます。治五郎は仕方なく、書物を通じて独学で柔術を学ぶのでした。

 

 

 

 

 

 

牛島辰熊

この肥後柔術三道場の対抗戦は、判定勝利はなく「参った」のみで勝負を決するもので、時には腰に短い木刀を差して試合をやり、投げて組み伏せ、最後は木刀で相手の首を掻き斬る動作をして一本勝ちとなるルールでも戦った[2]。これら古流柔術は柔(やわら)をあくまで武士の戦場での殺人武術だと位置づけていた。
 
1940年第3回天覧試合に向けて、木村は毎日10時間をこえる稽古を繰り返し、牛島も木村の優勝を願って毎夜水垢離をして、牛島の悲願であった天覧試合制覇がなされた。その激しい師弟愛は「師弟の鑑」と賞賛された。
 
 
 

 

 

 



私も少林寺拳法の2段(今はしていない)で多少、武術をかじったが、昔の先生方は命がけだったのだと身が引き締まる思いであります(欧米のボクシングみたいに階級制は悲しいが、同じだけ努力すれば身体が大きい人が得なのはあきらかなので、、、)。