阿弥陀如来 誕生2

お釈迦さまのお喜びと月蓋長者の感謝はこの上もないことでした。早速この黄金を玉の鉢に盛り、三尊さまは忽ち光明を放って照らし、お釈迦さまも光明を放たれますと、不思議なことに閻浮檀金は変じて阿弥陀三尊のお姿そのままに生き写しのお姿(生身の如来) となりましたとさ。善光寺如来本尊さまのご出現ですね

月蓋長者は早速大伽藍を建立して、500人僧を招いてご供養に専念し、国中の人々も参詣して信仰し、皆救いの道に入ることができました。

この如来さまは、インドにあって人々を救われること五百年間を経て後に、空中を飛行して百済の国に渡らせられ、千二百年間にわたって人々を救い導かれておられました、聖明王の時「海を越えて東の方、日本に行って衆生を済度せん」との如来さまのお告げがありました。 国王、王妃、百官以下人民は永久に百済にお泊まり願いたかったのですが、仏勅ともなれば致し方なく、勅命をもって船にお乗せして日本に送り申し上げることになり、国王はじめ人々は惜別の悲涙にむせびながら、港でお別れを致しました。

生身の如来さまの乗られた御船は、わが国第二十九代欽明天皇十三年(552) 十月十三日に、摂津(現在の大阪)難波の港にご到着され、この時如来さまと共に、経綸や如来さまのお飾りなどの仏具も一緒に伝わりました。

また、使者から仏法の深淵なことの説明をうけた天皇は、大変に喜ばれて「自分は未だかってかくの如き微妙なすばらしい教えを聞いたことがないので、自らはお受けすべきかを決めかねる」 として群臣に対して「百済国よりたてまつれる仏像を、敬うべきや いなや」と問いかけました。

当時、日本の朝廷では大臣蘇我稲目は 「異国において誠に殊勝な神として尊敬されているので、わが国でも尊崇して日本人の心の支えとすべきである」 と主張したのに対して、物部尾興は 「もしこの外国の神をたてまつれば、日本の神々の怒りにふれて災いが起こるであろう」と反対しました。

そこで天皇は、御仏を蘇我稲目に賜り稲目は自分の屋敷に安置して向原寺と名付けて 毎日供養礼拝しておりました。ところが後に国に疫病が流行して、人々は苦しみ多くの死人が出ました。 物部尾興は子の守屋と共に「この疫病が流行するのは、外国の神を祭ったための国神の怒りによる祟りである」 と、兵を向原寺にむけて堂塔伽藍を焼き払いました。しかし、一光三尊の御仏だけは炎々と燃える猛火の中にあっても少しも聖容を損せず、赫々と光明を放たれておられます。 そこで守屋は「火に焼けぬなら水に沈めよ」と命じて難波の堀になげこみませてしまいました。

その後、世の中には様々な不思議な悪いことばかりが起こります。欽明天皇もおかくれになり、 物部尾興も病死します。蘇我稲目の子の馬子は益々仏教を信仰していましたが、尾興

の子の守屋は仏教を排撃し続けていました。のち遂に馬子は厩戸皇子(聖徳太子)と共に守屋を攻めて物部氏を滅ぼしてしまいます。(用明天皇2年587)

これ以降は、「長野の紹介 善光寺1」をお読みください。(手抜きですみませんお願い

なにやら聖徳太子如来へ御書,同御返書が前代未聞な事に、法隆寺に

今も法隆寺に保存されているらしいです。(一度私も見てみたくなりました)

長々善光寺ついて書きましたが最後までお読みいただきありがとうございます。

終わりに当たり一言 私は仏教徒ではありませんが善光寺のおひざ元に居るため善光寺に少し興味を持っただけですが、お書きいたしました。