エゴの観察を日常にしていると、握りしめてきたもの、握りしめているもの、がクリアになってきます。
そして握りしめるという行為の裏側には必ず”愛されなければならない”という必要性が潜んでることに気がつきます。
やっかいなことに、内奥で握りしめてきた観念は頭で考えて解決できるような代物ではありません。
5%の表在意識で95%の神秘に挑んでも太刀打ちできませんものね。
できることは、自我をつぶさに観察すること。
そうすることで、自我は単に自我という機能であって、本来的な”わたしそのもの”ではないというポジションに立ちます。
”観察されるもの”と”観察するもの”の間に空白が生じる。
インスピレーションがその空白に沸き起こる。
帯域が広ければ通信速度が上がるように、意識が観察者寄りになるほどに、内在神との帯域は広がりインスピレーション(内在神の声)を受け取りやすくなるようです。
わたしたちは、これまで”観察されるもの”に同一化してどっぷりと三次元世界のドラマを楽しんできました。
自分のアイデンティティを外側の何かー身体、もの、事象、環境ーに同一化し、無価値観を埋めるゲームを楽しんできました。
起こる出来事や感情の要因を”自分以外のなにか”のせいにしている場合、まだ三次元ゲームを楽しんでいる最中ということになりますね。
ゲームを続けるのも、別の次元でゲームを楽しむのもお好み次第です。
そんなゲームもそろそろ終わりにしようかなと決めた心魂は、意識を”観察されるもの”から”観察するもの”へ移行しはじめます。
自分好みの入り口から、切り口から、方法から。
いずれにしても、どのような方法であれ、”観察するもの”へのシフトですから、自我意識(エゴ)の観照が必須課程となっているようです。
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さて、以下は無償プログラムⅠからの抜粋です。
大切な思い出の品である指輪に自己を同一化していたご婦人のお話。
動画もあわせてご覧になって頂くと、おもしろいかと思います。
よければご活用ください
なくなった指輪
「頭から抜け出したときに、初めてそれを感じられるんです。それは感じるしかない。考えたってわかりません。エゴはそれを知らない。だってエゴは思考でできていますからね。
その指輪は実は思考としてあなたの頭のなかにあり、それをあなたは自分と混同していたんですよ。あなたは自分あるいはその一部が指輪のなかにあると考えていた。
エゴが求め執着するのは、エゴが感じることができない『大いなる存在』の代用品です。
モノを評価して大切にするのはいいが、それに執着を感じたら、それはエゴだと気づかなくてはいけません。
引用元:ニュー・アース /エックハルト・トール 『第二章エゴという間違った自己のメカニズムーなくなった指輪ー』より
MEMO動画 6:23
ではでは本日もありがとうございました
本当の自分に還り、本物のゆたかさを味わう
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