藝藩志を読む 第四巻 | 史跡巡り和美ブログ

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○注意《記載人物》=記述中にある人物

       「」=省略

第四巻

安政元年正月十九日 年寄上座今中丹後に中老格を命ず
《記載人物》
・公 十一世(温徳公諱斉粛藝封の後二十三年)
・若公 十二世(大光公諱慶熾儲位のあと四年)
・泰栄夫人(末姫君.後に泰栄院 即ち温徳公の正室で将軍徳川家斉の第23女

・今中丹後等(在藩年寄役→中老格)

・青山侯

(三家老)
・浅野遠江
・上田主水
・浅野豊後(後に河内)
昨年冬浅野遠江等連署して今中丹後等の免職及び藩政の改革を建白をするや 若公 泰栄夫人 青山侯は頗る之を受け入れて 公を後殿に迎え再三詮議して従来突然家老に親書を付して免職を命じるのは藩政の制規に戻りしてはいけない事だ。依りてここに在藩年寄役をして丹後に中老格を伝え、要路を除き又 公よりは三家老へ親書を賜いて厚く之を慰論する所ありて以てこの処分を終局させた
三巻の終わりで「罰責主義ではない」、「温和主義」
「昇進させて、今の地位を去らせる」って、斉粛公の考えなのか?このやり方が後々どうなるか楽しみだな

藩士の小銃射的はその師家の射場於て四季の演習を許す
小銃射的の事たる従来毎年三月より八月に至る間は之を許しその他は之を禁制したり(この禁制の年月は之を知るに由なし然れども奮記に依れば寛永十年二月十二日布令に家中鉄砲小目當○古三月より八月までは放ち申すべくその外は御法度とあり其の制の己に久しきを知るべし)然るに即今の時勢に於いて砲術は最精練を要するを以て幕府は客年六月巳にその幕制を改め四季の練修を許せり依之我が藩に於いても左記の如く禁制を解除せしの所なりしたがって棒火矢等の如きも之に準じずい意発射を許せり

玉込めに鉄砲町稽古以来師家中宅に於いては四季稽古をする、その外は弟子中は銘々宅で稽古をこれまで通りにだけども当年二月朔日より稽古をする
右のこと洩れなく伝えるように

〈上欄記載〉
嘉永六年六月幕府の布令
大目付
鉄砲角場
屋敷で調練稽古の節空砲を放つこと 玉目のことは此れまで平常寛九稽古の玉目に準じるようにとはいっても以来百目玉まで稽古の角場でつかう 一貫目玉迄
の空砲を放ち調練稽古無しの分は只今のとおり心得るべきてある
一 開八州に於いて砲術稽古の義是まで場所に寄り
・・・六月
〈上欄記載〉
大目付
諸家屋敷に人数調練の節空砲を放ち三月より八月まで稽古・・・
調練出来る月は決まっていたんだね、知らなかったな

安政元年正月廿三日 於江戸沿海警備の際 公並びに青山侯の築地藩邸へ出馬方を幕府へ上申す
《記載人物》
・両公及青山侯
・松平安藝守
・中野富三郎
・二川清記
・木村幾三郎(青山侯の家老)
・近江守様

江戸沿岸警備に際し築地藩邸の軍備は巳に昨年一定する所あり然れども 両公及青山侯出馬方に関しては幕府へ禀申して指揮を受くべきを以て本日左の如く上申ありしが之を許可せり

異国船渡来の節松平安藝守築地下屋敷は濱御庭近く海岸の儀に付・・・人数組を以て警護並びに防禦も厳重に心得る様に
松平安藝守内 中野富三郎

右の如く指揮あるをもって同廿六日二川清記より青山侯の家老木村幾三郎へ通達する左の如し  
異国船渡来の節万一異変にも及び様子に寄り殿様築地御屋敷へ ご出張され 近江守様にも同所へご出張のされるように申し上げる 正月廿六日

年寄寺尾石見の職を免し寄合を命す
《記載人物》
・今中丹後
・寺尾石見(年寄→寄合役)
・山下右仲(用人→旗奉行)
・今中權六(大小姓頭→手先者頭)
・横山十介(勘定奉行→郡廻り)
・三家老
・青山侯

往に三家老連署して藩政の改革及び職員黙陟を建白するや今中丹後を転職せしめられたり今日又年寄役寺尾石見に寄合役を命じ隨て用人山下右仲を旗奉行に大小姓頭今中權六を手先者頭に勘定奉行横山十介を郡廻りに転任せしむ之に代わるに推薦せし人あれども未だ之を採用するに至らざりき右等黙陟の命なりしを以て三家老よりは二月十七日を以て青山侯へ謝表を呈出す

乍慱奉申上候先般
殿様
若殿様へ内密封書差上方之義御取持奉願候所御速に御許容・・・
浅野遠江
上田主水
浅野豊後

安政元年正月廿八日 江戸築地藩邸守備の為先鋒一番手並びに青山侯の先駆隊を出張せしむ
《記載人物》
・米使彼理
・堀伊豆守
・在府手明之
・大広間席
・林大学頭等
・井戸石見守(大目付)
・和泉守
・堀田恂之助(用人)
・青山侯.両公
・井戸対馬守

正月十六日米使彼理は軍艦六隻を以て相州浦賀に来航す 昨年の約定に依り国書に対する通商条約の回答を得んと欲する所なり幕府は大に驚き諸藩兵をして急に江戸湾海岸を守備せしめその他諸警備のことに関しては昨年の例によらしめ左の如く布令せり

嘉永六年浦賀に黒船が来航して一年過ぎて、再び来たのね、でまた「幕府大に驚き」となっている
いきなり現れたわけでは無いだろうにね
 でも今回は、守備の手順が出来ているはず
堀伊豆守
在府手明之
大広間席
異国船近海へ渡来の節その様子に寄人数屋敷敷内に用意致し登城老中より案内次第登城する 若人数出張の儀は出火の節の心得
一 門番火の番等にと勤める面々は登城せず持ち場に詰める
一 大手組山下御門内外又幸橋御門内外櫻田組○御門へ一旦相詰、日数掛かる様子のときは仮小屋で登板非番を立て順番に二手宛詰める
一 増上寺固める儀も同様火の番勤める衆の内より一ニ手指し遣わす寺社奉行も一人
一 御備場御用に勤める面々持ち場ある者登城しないで勤める
正月
火の番、増上寺、登城はしないで持ち場を詰めるか
浦賀表へ渡来船乗り入れの節・・・老中若年寄出馬の節は小具足陣羽織着用 諸向銘々勝手のものを用いる
但し異変なく老中若年寄見廻り等は火事具を用い
諸向これもまた銘々の火事具を用いる
正月
着用する物の取り決め、なるほどね、こういうのも決めないとイケないのか
大目付
異国船渡来につき海岸屋敷の面々は武器等廻し置き万一非常の節混雑無いようにする 穏便に取り計らう
正月

大目付
異国船渡来の面々は万一異変があるときは火消し屋敷において早盤木打つ間 万石以上櫓有りの向に同様早盤木を場末まで打ち続ける 非常の場合は火の元を取締る
一 異国船渡来中、失火の節は盤木は用いず半鐘を用いる
正月

異変かある時「早盤木」を打つ、失火の時は「半鐘」を打つ、これいいな

林大学頭等を指遣して彼理を応接させる彼理は之を顧みず進みて本牧に入る依て更に吏をして論して之を退かしむ猶聴かす同廿七日彼理は又進みて神奈川沖に入る幕府大に驚き大学頭に命じて横浜を以て彼我応接の地と為し假館を築く 翌廿八日は大目付井戸石見守等に命じ府下海岸に邸宅を有する諸藩に布令して之を警備せしむ其の当藩への令書は左の如し
彼理、今度は強引に突破してきたな 16日浦賀に来て、27日に神奈川に移動したんだね
また「大に驚き」って、普通追跡するよね
結局神奈川が応接の地になっている
海岸屋敷有りの面々人数差し出し
事を立てないよう穏便に取り計らう様和泉守殿に伝えた
正月廿八日
岩瀬修理
永井岩之丞
堀 織部
井戸石見守

松平安芸守
留守居


当藩築地邸海防の事に関しては幕府へ伺定めし所あり且其の準備の如きも予定せし軍配あるを以て今回は之によりて先ず先陣として一番手の人数を出張せしむるを事に決定し依って本日(正月廿八日)用人堀田恂之助を総司として一番手人数を率いる直に築地邸へ出張せしむ 其の二番手三番手等の如きは己に準備の整いたるを以て米艦の動静に従い之を進退せしむる事となせり
又青山侯の兵隊の如きは己に幕府へ上申せし所あるを以て是亦本日先駆隊を出張せしむ 両公並びに青山侯に在りては野服にて出馬時々海岸を巡見ありて海防は厳重なりとす
我が両公、青山侯も海岸巡見で出馬されたのね
野服でね

壹ノ手
《役職35件、192人名前ナシ》
築地屋敷に差置かれる
《役職4件名前ナシ》
青山侯先駆隊
足軽大将 栗間半六
同人組先手足軽十一人
伊藤内蔵之助組先手足軽十一人
大砲奉行 品川大助
     大野八十郎
大砲掛り 香川吉六郎
     小川武兵衛 
陣場奉行兼目付使番 伊藤保之丞
長柄奉行假役 長谷川静輔
長柄之者小頭 増原大三郎
       長柄之者拾人
歩行目付 横田益之進
普請方仕事方 土井彦三郎
武具方 池上新平
勘定所支配足軽 平林亀蔵
        宮川紋蔵
        山本恒介
小人目付 田中桂次郎
武具方 小人二人
賄方 小人三人
大砲掛り 小人四人
築地藩邸配置砲門
西洋忽微砲
五門
外記流
五門
棒火矢
二門
計拾貮門

然るに林大学井戸対馬守等は二月十日より横浜に於いて彼理と談判を開始し安政元年二月廿六日に至り遂に自後米国の漂民を撫恤し若しくは船中必要の物品を買興するを許し其の物品は豆州下田松前函館の二港に於いて交付することを約したり(条約の交換は三月三日なり)翌廿七日幕府は神奈川横浜を除きその他の沿海守備を徹すべき旨を発令せり是に於いて諸藩江戸海岸の警備を解くを以て築地出張の当藩兵も撤退せしむ然れども米艦は猶神奈川に繋泊し三月十三日を以て退帆するに至れり
大目付「」
嘉永六年黒船が浦賀に来て一年後、神奈川の横浜で林大学、井戸対馬守等の応接で交付に至ったんだ
《日米和親条約》

安政元年二月廿七日 藤田新五郎(用人上席)に年寄を命じ名を兵庫と改めしむ
《記載人物》
藤田新五郎
黒田図書
辻勘三郎
三家老
小島太郎作

藤田新五郎は従来黒田図書辻勘三郎等と共に藩政の○敗を憂い之が挽回に盡力せし者なり依って往に三家老より推薦して執政に採択を上申したる所なりとす
黒田図書藤田新五郎を以て之に代へ其他人の才の抜擢を建白する所なりしに暫く新五郎を挙用して図書及び小島太郎作辻勘三郎等に至るをして己む
広島藩は能力のある人を執政にしていくよね

安政元年二月(晦)日 広島五新開(皆実、国泰寺、竹屋、観音、蟹屋)農業資金貸借法を定め之を布令す

従来広島新開農民は其慣例として毎年各自所有の田畑を抵当となし里正の斡旋により綿作肥料資金を他より借り受けて使用し其年秋収の際に於いて其子本を併せて之を返償せしめ以て農業資金の融通を為せり然るに近年金融漸次渋滞し農民は困難に陥れりその然る所以のものは当藩の紙幣は逐年増業の為に物価は非常に騰貴し金貨と紙幣売価と大なる差違を生じ為に貸借の間に於いて暗に大損害を生ずるを以て金主も恐慌す懐き金銀の貸借を危疑するにあまり其他種々の弊害之に随伴して遂に資金不融通のげんしょうを来せりといえども是専ら藩幣の売格より原由する所なれ○素より傍観すべからざるに依り是が救済法を講じ更に相互間貸借の便法を里正等に下問し其考案に就きて貸借証書書式等を規定し之を施行せしむることと為せり
近来畑質不融通作人共及び迷惑綿作仕込等才覚方も
趣聞いて・・・
二月   五組
新開へ

大割申出書
一 田畑質証文並び役人共奥書左の通り改申度奉存じ候事
畑質証文之事
何村之内
一 何畠何及何畝   分米何石何斗
一 何田何反何畝   同 何石何斗
  畝○何反何畝何石何斗
  元銀何百目    但利息月
  此銀金○何両何歩借用
  本文元銀金に借用の儀借主望み申すけれども金に        、、直し此通り朱書に仕遣わし申し候事
右私所持之田畠質物書入前文之通銀子致借用正に御座候然る上は今月より九ヶ月限り元利共相違無く返済万一限月に至り返○方及び遅滞戻は御村方へ申出質物之地所御請取り御勝手に御帖切・・下其期に至り・・
御役人中聞き届けの御奥書願い受進・・如件
「証文書式6ページ記載」 

安政元年三月廿三日 海防の経費巨額を要するを以て節倹を戒○す
昨年来米艦来航し幕令に因り江戸海岸防禦の為築地藩邸へ出兵しその兵数は多からざるに費途は頗る多額に昇りたりといへども事苟も外防上に関るを以って藩職に於いて固より盡○せざるを得ず 然るに従来財政の疲弊に際し其経費の支出は頗る困難せざるにあらず况んや此餘時變に依り猶又出兵等の幕令あるに於いては其経費の支○に堪へざるも測り雖きをや其時に當り藩士の家禄を減給するかが如きは固より為す能はざる所なれぱこの際藩士に在りては飽迄質素倹約を守り朴実の古風に復し百事勘○の道を盡し文武の勵勤苦○精せずんほなるべからざるを以って左の
訓令する事と為せり(藩士の家禄は去る嘉永元年より同五年に至る五年間二ツ物成を給し同年八月に至り其年一年限り五歩の實給を為し昨六年尚又五歩の實給ありたり 因って現今は二つ五歩の給禄なり故に此時勢一藩の節倹を勵み士気の萎○を戒め以て此訓令を業せし所なり)
「」「」
着る服は綿とか、妻子も主人の服に応じ質素に。
婦女子の頭飾り、嫁取りの式、贈答、跡目等の饗応、
など組支配方へ末々まで伝えるようにと書いている

安政元年四月九日 幕府は米国と下田箱館に於て互市を約せし旨を交付す
《記載人物》
・戸田伊豆守等
・川路左衛門尉(筒井肥前守) 
・林大学頭
・井戸對馬守
・伊澤美作守
・鵜殿民部少輔
嘉永六年六月六日未使彼理の来航するや幕府は同六日を以て戸田伊豆守等をして其国書を受けしめ来年一月を以てこれが回答をなすを約して之を去らしむ七月十八日魯使某も亦長崎港に来り其宰相の書を出して通信互市を乞へり八月十九日長崎奉行をして○書を受けしむ十月晦日筒井肥前守川路左衛門尉に命じ長崎に至り魯国書翰の回答を為すため江戸を出発せしむ十一月朔日幕府は米国書翰に對するしょこうの意見和戦相半して決し難きを以て明年の米国への回答は姑く遷延し○詞應接の事に決し専ら兵備を修めしむ十二月十八日筒井肥前守等は魯使を延見し回答を授け幕府大喪を以て開港を延期するの意を述べ帰去せしむ本年一月米使彼理再航す二月十九日林大学頭等は彼理と談判し遂に石炭を給し漂民を憮恤するを許し之が為下田箱館の開港を約す二月二十三日筒井肥前守等は魯使を説破し長崎より帰府せり然るに幕府の有司等は己に米使に説服せられて前日の定議を守る能はず遂に米人に開港を許せるに至れば茲に於て内は海内の民心を失ひ外は異国へ    皇朝の威信を失へり而して本日即ち四月九日に至り幕府は諸藩へ該開港の事を交付したり之を下田条約と稱す此開港絛規は外国条約の嚆矢にして後に英佛蘭等相続いて来り通信を請ふも皆之に準○する所なり畢竟當初其處置を誤りたるに依る所にして是より和親と攘夷との二論を○起し許多の變亂す醸成し其勢ひ遂に王政の復古を確立せざれば己まざるに至る
「下田約絛 内容記載有り 
嘉永七年三月三日 林大学頭花押 井戸對馬守花押 伊澤美作守花押 鵜殿民部少輔花押」
「従公儀被仰出 ・・・」
外国船が何國の浦方へ勝手に渡来されては取り締まれないので下田と箱館に於いてすると

安政元年四月廿七日 財政経理の為の藩内各郡へ調金を令す
《記載人物》
・佐々木所左衛門(割庄屋頭取)
・多賀谷千兵衛
・竹内亮左衛門
・有田健左衛門
・兵之助
・吾一郎
従来當藩の租税は一定租税の外は妄りに○税を徴収せず特に臨時民間へ調金の如きは素より其例寡き所なり然るに今や積年府庫空耗の後に當り俄に海防の事ありて其費途を支出するの術なく是に於て去月廿三日を以て藩士へ質素倹約を訓令し茲に又外国船防御経費の支出の為め止を得ざる處置として遍く藩内各郡へ調金を分課せしめ且つ質素倹約只管僕實の風儀を○守すべき旨各郡代官より之を郡内へ布達せり(此布達へ往に藩士へ節倹を命せし令書二通を添付すれども茲にはこれを略す)
「態申遣    ・・・某郡 御役所 割庄屋 某宛」
臨時物入りで御上御不自由され・・組合村々へ出銀するよう伝えている
「口演書  ・・・」
とにかく質素倹約、米銀のことを長々と言っている
調金の布令は各郡役所より郡内の割庄屋各自へ対し布令している代官所つきの者が説論して金を集めている
千六百六拾貳両集まる
 異国船防御御手當に付御用銀郡辻寄帖
「賀茂郡 黒瀬組 浦部組 志和組 下西条組 高屋組 上西条組 竹原組」
どこがいくら出したかの記載有り

安政元年四月廿九日 往に北関炎上を使者佐々木三郎太夫を遣わし上京して 天機を伺候せしむ
《記載人物》
・聖上
・公
・佐々木三郎太夫(大阪藩邸番百々亀之丞の変名)
・筒井極人(京都藩邸番)
・坊城傳奏(大納言俊政)
・三條大納言(実満)
四月六日 大宮御所より失火して仙洞御所又は内侍所へ移り遂に 禁裏御所 准后宮殿を延焼し轉して市街におよべり 聖上は下加茂社若しくは聖護院宮へ行幸ありて避災せらる同七日暁に至り鎮火す此変災に関し幕府は令して同十一日より十三日に至る三日間音曲を停止し以て四海をして謹慎の誠意を表せしむ同十四日 
公は先例により 天機伺候の為め江戸よりの使者として佐々木三郎太夫(実は大阪藩邸番百々亀之丞の変名)
をして上京せしむ而して三郎太夫は本日筒井極人(京都藩邸番)と共に坊城傳奏(大納言俊政)に至り 天機を伺ふ五月八日坊城傳奏より召命あり三郎太夫は極人と共に参殿す傳奏は今度 禁裏御所の炎上に就き為伺 天機使者○指登候段則○及言上益御機嫌能被為在○旨   
勅答を伝達せり継て六月十日筒井極人を以て使者と為し左の品を献納せしむ
 禁裏御所へ・・・
    准后御殿へ・・・
即日傳奏三條大納言(実満)より使者を以て目録の通り之を献上し御満足○ 思食 准后よりも同様の内旨ありし事を伝達せり

藝藩志第四巻終