著名人の自伝ほどあてにならないものはない、嘘でたらめばかりが書かれている、という趣旨の言葉を、数多くの伝記文学を手掛けてきた、亡き瀬戸内寂聴先生の著書で見かけたことがある。
 今回は一冊の本を通して、ベストセラーになった二冊の自伝とその虚実について考えていきたい。


 数年前、吉岡安直について検索していたところ、「貴妃は毒殺されたか 皇帝溥儀と関東軍参議吉岡の謎」(入江曜子著・新潮社刊)という一冊の本の存在を知り、早速注文してみた。「我的半生」と「流転の王妃の昭和史」を以前に読んだことがあったからである。現在この二冊は自宅にないので、内容がうろ覚えであることはご容赦いただきたい。

 元々、「流転の王妃」というタイトルの「王妃」という部分に引っ掛かりを覚えていた私としては、目からうろこの思いで、「貴妃は毒殺されたか」を一気読みしてしまった。「流転の王妃」嵯峨浩は確かに皇帝溥儀の弟溥傑の妻であるが、溥傑は「王」だったのだろうか? 答えはNOである。父親の醇親王の地位を受け継いだわけでもなく、皇太弟になれたわけでもなく、日本に留学中の軍人であったのだから。

「流転の王妃」には浩に執拗に意地悪をする吉岡中将の姿が見られるが、「妃殿下」という身分に憧れ満州でもそのような振る舞いをしている浩に対し、冷たい態度を取った吉岡を、入江氏の言葉を借りれば、「紙の上で殺戮」し憂さ晴らししているに過ぎなかったのである。もちろん、いち軍人に過ぎぬ吉岡に溥傑の身分や皇位継承権を決める権利はないのでとばっちりもいいところであるが、浩は吉岡夫人亡き後、自伝の「Y大佐」を「吉岡」と書き換える姑息ぶりをみせている。
 尊敬する人物は西郷隆盛であったらしい吉岡は、おそらく飾らない気さくな人柄の人が好みで、妃殿下でもないのに妃殿下として振る舞う浩とは徹底的に相性が合わなかったのだろう。それに吉岡は常に皇帝の傍にいるという職務上、直属の部下も持たず、派閥にも属さず仕事に邁進していたようである。こういう人物は仕事ができるから重宝はされるが、損をしやすいタイプともいえる。


 溥儀の自伝にも必要以上に吉岡に対し必要以上に陥れている記述があるようだ。弟の日本人妻浩に毒殺されることを怯え、寵愛する妃を吉岡に毒殺され…といった被害者ぶりを自伝に書いていた溥儀であるが、「貴妃は毒殺されたか」に書かれている、甘いものが大好きな溥儀は吉岡の自宅を訪れる時、吉岡夫人手作りのおはぎを喜んで平らげていたというエピソードとはかけ離れているし、譚玉齢の死因については病死であったようである。譚玉齢が愛国主義者であったがために毒殺されたのだという溥儀の言い分も出鱈目であろう。第一妃を入れるにあたっては本人ならびに親族について調査が入るはずであり、関東軍にとって邪魔な人物が妃になれるはずがない。日本人女性と結婚させるために彼女を殺したのだ、という溥儀の発言にも信憑性は薄い。側室は何人いてもいいからである。
 なお「貴妃は毒殺されたか」には、譚玉齢を診察した日本人医師のうちの一人の証言が載っているのであるが、その証言によると譚玉齢は病死であったそうだ。私が二つの自伝よりも入江氏の書物の方を信じる理由も、この医師の証言の存在が大きい。


 二つの自伝はなぜ吉岡を陥れたのか? それは溥儀の場合「保身」、浩の場合「中国への帰国」であろう。満州国がなくなり、中国政府で生きていかねばならない彼らは、「私は満州国や関東軍にこんなにひどいことをされました」とアピールしなければならなかったのであろう。発刊当時生存が絶望視されていた吉岡を悪く言うことに、二人は何のためらいもなかったのである。悪いのはなにもかも軍部、という戦後の風潮の中、吉岡の遺族が浩の著作に対し沈黙を守らざるを得なかったことも、この二つの自伝の広まりに拍車をかけたのだろう。(ただ溥儀は、元皇帝という特殊すぎる身分と、本来なら紫禁城で一生暮らせる立場であったのが優待条件を反故にされたという事情がある以上、生きていくためには仕方がない部分もあるだろうと、個人的には同情はしている)


 ベストセラー書物による歴史の改竄は恐ろしい、しかも生存者が多数いて嘘を証明しやすい近現代についてもこうなのだから、証言する者が誰一人いない歴史は、本当に正しい「過去の出来事」なのだろうか…と思うと恐ろしくなった。