今働いている特別養護老人ホームには100歳近い高齢者が沢山いる。

 

 

胃にチューブをつけ、そこから栄養を補給して生きている人。

 

意思疎通は困難で、うめき声をあげている人。

 

食事の摂取、着替え、オムツ、入浴、車いすとベッドの移乗、生活の全てに介助が必要な人。

 

尿道に直接管を繋いでそこから尿を排出する人。

 

四肢が拘縮(固まって)して、関節が変形してしまっている人。

 

 

 

患者さんがケガや病気になって、そこからリハビリをして身体を元に戻して、元の生活に戻れるようになることがリハビリ職のお仕事だと思っていた理学療法士の学生時代。

 

 

大学病院で臨床実習を行っていた時、

 

呼吸器をつけて、自ら動くことができない、意思疎通が取れない

 

ベッドで寝たきりの患者さんに対して、先輩セラピストが関節を動かすリハビリをしていた。

 

 

“これは何のためにやるんだろう?”

 

“これをすることは本当にその人のためになるんだろうか?”

 

 


これ以上関節が硬くならないように、今の状態を悪化させないように、、、。

 

 

理由付けは分かっている。

 

 

硬くなってしまったら、着替えの時には痛みを生じるかもしれない。

 

オムツ替えの時に苦痛があるかもしれない。


だから、やっていることは「正当な」ことだった。

 

 

だけど、私の中では、その人にとってそのリハビリをすることが本当に必要なことなのか?

 

 

そう思ってしまった。

 


今でも食事介助をしている時に、開きにくい口に対して声掛けをして食べてもらう。

 

 

この人は、本当にこれを望んでいるんだろうか?

 

食べたいと思っているのか?

 

私たちが本人の意図に反して食べさせてしまっているのではないか?

 

 

 

言葉が通用しない人は、表情で、

 

表情が受け取れない人は、飲み込みのペースで、

 

その人の意思を受け取ろうとするけれど、

 

 

 

本当のところはどうなのかわからない。

 

 


もう食べたくないよ。


今日は少しだけでいいよ。


お腹すいたから沢山食べたい。


気分が悪いから今日は何もいらないよ。

 

 


認知症が進み会話ができない人に対して、

 

 

もしスギさん(仮)が喋ることができたなら、何を言ってくれるんだろう?

 

どんな会話ができるんだろう?

 


相手の意見が分かったらどんなにか楽だろう?と思う。

 


意思疎通ができる人ばかりだと、それぞれの要求がつきなくて対応が大変になるんだけれども。(笑)

 

 


誰かのサポートをしている人は、少しだけ立ち止まってみて欲しい。

 


自分がしていることが、本当に相手のためになっているのか?

 

相手が望んでいることなのか?

 

相手が望んでいることとは違っていたとしても、その人にとって本当に必要なことなんだろうか?

 

 


今やっていることに自分で“OK”が出せるのかどうか。

 

 

潔く胸を張れるのかどうかが大事。

 


仕事としてやる義務があるかもしれない。

 

 

でもそのやり方は変えることができるはず。

 

 

本当にその人のためになるには?という問いを持ち続けていれば、

 

一番いい方法がやがて見つかる。

 

 

 

今まで習ってきた知識や持っている技術を武器として、

 

これは正しい

 

これはやるべきことだから

 

これが私たちの仕事だから

 

これをやるのが当たり前だから

 

そんな風に考えてしまいがち。

 

 

 

真面目で責任感が強い人ならなおさら。

 


一見、これが正解という確固たる軸を持っている人は強そうに見える。

 

 

でもそうやって、“こうあるべき”を振りかざしている人は実は危うい。

 

 

その“あるべき”は人から授かったモノが多い。


自分の中での真実ではなく、人からもらったモノをそのまま信条とすると

 

徐々に自分の心と行動が分離してしまう。

 

 


ある時ポキッと折れてしまう。

 

 

本当にこれはいいことなんだろうか?

 

迷いながら、答えを探しながら、迷走しながらも

 

その人にとっての一番の“こたえ”を見つけられた人は強い。

 

弱そうに見えても、実は強いのだ。

 

 

迷った上で、考えに考えた上での自分の“こたえ”に従っているから。

 

 


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