僕が高校三年生の時、奇妙な体験をした気がする。もう随分と昔の話だから、所々記憶が定かではない。ただ一つ確かに覚えているのは、彼女が非常に美しくて怖かったということのみである。


 ー覚醒ー

 

 薄暗いトンネルをひた走り、遂に見えた光を求めて足を動かす。息も絶え絶えで体力もあまりある訳じゃない。そんな中でも、どうにか自由になろうと足掻き続けた矢先、一気に世界が明るくなった。


 

 どうやら嫌な夢を見ていたようだ。地獄にでも落ちたのかと思ってしまうぐらいには気味が悪かった。いやしかし、どこか違和感が残っている。


「僕は何だ?」

 


丁寧に整理されている部屋のベッドで僕は目が覚めた。しかし、どうしてもここがどこなのか思い出せない。僕は一体誰なのか、ここはどこなのか、年代はいつなのか。考えれば考えるほど、頭の中が無茶苦茶に荒らされるような不快感が駆け巡る。

 「いっそのこと考えるのをやめてみよう」

そうだ、思考停止させるのが今の自分には最適かもしれない。とりあえず、一度部屋を見渡してみるのが一番良い筈だ。慌てない慌てない。

 無理矢理自分自身を落ち着かせて部屋にあるものをくまなく探してみることしたが、

 「ダメだな。何一つわかりやしないよ」

 ため息と共に言葉を吐き出し、もう一度ベッドへ腰掛ける。

 それもその筈、その部屋はあまりにも物が無く、自分自身の手がかりが何一つと言って良いほど無かったのだ。唯一わかったことは、僕の名前が「稲葉宗太郎」ということである。


 何か行動を起こさねば、戻るはずの記憶も戻らないかもしれない。恐る恐る宗太郎は自室のドアへ手を置き、そっと開けてみることにした。開けた先は綺麗な廊下で、どうやらこの家は少々豪邸に近いらしい。絨毯の明るい朱色が目に刺さる。黄金の装飾が眩しい。寝起きの人間には色々ときついものであったが、慣れるだろうと信じて足を動かした。しかしいつまで経っても慣れることはなく、ましてや吐き気と頭痛までしてきた。

「参ったな

思わず廊下で声を出してしまった。その声に反応したのか、一人の女性がこちらへ歩いてくる。

 まずい!

 宗太郎は焦って自室に戻ろうとしたが、吐き気と頭痛に耐えながらも随分と歩いてしまったらしく、なかなか辿り着けない。それに扉が多く、どれが自室かもわからなくなってしまった。

 ガシャン

軽くパニック状態で駆け出した宗太郎は、廊下の花瓶に腕がぶつかり、そのまま花瓶は地面へと落下した。落下と同時に、色鮮やかな装飾をされた花瓶は甲高い音を廊下中に響かせながら砕け散った。宗太郎は、ただそこで呆然と立ち尽くすしか出来なかった。


 「大丈夫ですよ」


 はっ、と振り向くと女性がいた。所々つぎはぎがある汚れたボロを纏っており、髪は後ろで一つにまとめていた。家政婦だ、と宗太郎は確信した。家政婦らしきその女性は、なんの躊躇もなく砕けた花瓶を拾い集めた。その間、一切宗太郎を責めることもなく。ただ黙々と欠けらを集めていた。

 「お怪我はないですか?」

 突然の問いに少々戸惑った宗太郎であったが、何か言葉を返さなければ怪しまれてしまう。そこで一言、「ああ」とだけ返事をした。

 ふと家政婦の手を見ると、傷だらけではないか。宗太郎という人物がどういった性格をしていたかは分からないが、何もしないよりかは良いだろうと、思い切って口を動かした。

「貴方こそ、手を怪我しているような」

「あら、本当ね。」

家政婦はちら、と自身の手を見るだけでまた黙々と欠けらを集め始めた。別段、彼女のことが心配と言った訳でもないが、守ってやりたい。そんな気持ちが宗太郎の心の中で生まれていた。この感情に気付くのは、まだ先になるであろう。

 先程の会話を少し交わしてから数分が経った。欠けらを集め終わり、立ち上がった家政婦の横顔が宗太郎の視界に入った。

 なんて美しいんだ

 切長の目に、ツンと高い鼻。口は小さく華奢な体型。そして何よりも色白な細い手を美しく感じた。美しいという感情の基盤は、宗太郎と同じかどうかはわからない。いいや、そんなこともうどうでも良いのだ。今目の前にいる彼女が美しければ、僕は幸せだったのだ。

 その日、僕は彼女に一目惚れした。


 軽い会釈を交わし、彼女は立ち去っていく。あぁ、その後ろ姿も美しい物だ。もう暫く見ていたいが、彼女は階段を降りてどこかへ行ってしまった。そのまま追ってもよかったのだが、もし他の家族に様子がおかしいと思われてしまったらと思うと足が動かなかった。彼女の美しさによって忘れていたが、僕には記憶が無い。記憶を失っている状態で女に惚れてしまうなんて。

 「チクショウ!」

 心の中で思わず叫んだ。もしこれが街中やバーで出会っているならば話が違っていただろう。

宗太郎は彼女と仲がいいのだろうか?

彼女は婚約者なのだろうか?

血のつながりはあるのだろうか?

 今の僕は宗太郎であり別人だ。宗太郎の事は、今の状態ではまだわからない。しかし、これから生きていくには記憶を取り戻す必要がある。それすなわち、今の僕の記憶を書き換えることである。

 彼女に惚れた僕は何者なのだ?

そんな思考が脳裏を駆け巡る。鬱陶しいぐらいに胸が騒がしい。ひとまず、落ち着く為にも部屋へ戻ることにした。


 女に惚れ、不審な感情に取り乱されてから1時間近く経った。未だに部屋から出るのが怖く、ずっとベッドに横になっていた。時刻は6時。もう暫くしたら夕食を呼ばれる時間だろう。彼女を見たい好奇心と不審がられる恐怖心が混ざり合い、なかなか部屋から出られずにいた。

 コンコン

ふと扉を叩く音が聞こえた。驚いた僕は咄嗟に寝ているふりをすることにした。

「宗太郎様、夕食の準備が整いました。1階に降りていらっしゃいね」

 花瓶を落とした時とはまた違った声色。だが、たしかにこの声は彼女だ。あぁ、声までも透き通っていて実に美しい。

 いけない、僕の状態でこんなにも女に惚れてしまうなんて。咄嗟に我に帰り、これからどうするかを慎重に考えることにした。

 「宗太郎様?様子がおかしいようですが、体調が優れないのですか?」

 戻ってきた。あの美しい彼女が。ダメだ、ダメだ、彼女に会いたい。ええい、と扉を勢いよく開けた。

 「お元気ですのね。よかったです。」

 「貴方は

 「何か、おっしゃいましたか?」

 チクショウ!今度はどもってしまったではないか。これでは怪しまれてしまう。しかしいつかは記憶を取り戻さなければならない。どのようにして、今の僕の感情を残しておこうか。必死に思考を巡らせ、思い切り口を開けた。

 「貴方は僕のことをどう思っているんだい」

 「宗太郎様は、いつもお部屋で絵を描かれていらっしゃいますよね。お母様や家の方はみな興味が無いようですが、私は好きですよ。誠実で、素敵な想像力をお持ちなのだと、つい絵を眺めてしまいますわ」

 そうか、宗太郎は絵描きなのか。絵描きにしては、えらく部屋が綺麗であったが、どこかにアトリエでもあるのだろう。彼女の言葉を少々不審に思ったが、絵描きという情報だけでも今はありがたい。

 「そうだったんだね。今度は貴方の絵を描いてみせるよ」

 「まあ、本当に?嬉しいわ。それから、食事の支度ができておりますの。早くいらっしゃいね」

 彼女は嬉しそうに頬を赤らめて、ボロの裾を軽く握っていた。きっと彼女の癖なのだろう。彼女の小さな癖を知ることができ、心の中で僕は小さく喜んだ。