おはようございます。情報教職課程修了デジタルタトゥー職人インターネット中毒者、図工です。

 

さて皆さん、ネットリテラシーって聞いたことありますか?ねっとりした寺島拓篤さんのことではありません。インターネットを使う上でよく耳にする、特に中高生なんかは学校から耳にタコができるほど言い聞かされると思います。

インターネットを取り扱う上で必要とされる能力ですが、これはいいよ、これはダメだよ、こういう危険性があるよという話だけで、その要点はほとんど教わっていないと思います。メカニズムは解説せずに表面の知識だけを教える。二次関数の解の公式に近いイメージでしょうか。如何せん知識はあっても現代のインターネットを利用した経験がない先生がほとんどなのです。

 

そこで私(情報教職課程修了)(インターネット中毒)(デジタルタトゥー)がメディアリテラシーについて語りたいだけの記事です。学校の課題でメディアリテラシーについて調べる学生に向けても取り扱いやすい内容となっております。気が向いたら目を通して頂けると幸いです。

 

 

それでは始めていくのですが、勘の良い方はここまでで気付いているであろう「ネットリテラシー」と「メディアリテラシー」を明確に区別して記載している理由から解説していきます。

 

 

メディアとは? 

 

これを語る上でまずはメディアについての知識が前提になります。よくメディアと言うとテレビだったり週刊誌のような物を連想すると思いますが、それらを含めた「情報の伝達媒体」をまとめてメディアと呼びます。

さっき言ったテレビや週刊誌はもちろん、ネットや新聞、手紙だって立派なメディアです。言ってしまえばネットというのはメディアの一部なんですね。これが区別していた理由です。ネットのリテラシーを学んだところで、他のメディアの情報を妄信して踊らされてしまっては本末転倒です。と言う訳でまずはメディアに関する理解を深めていきましょう。

 

ではまず、メディアの歴史から見ていきましょう。長々と語りますが、詳細な歴史に興味が無い人は要約を書くのでそれに目を通してください

 

人類が最初に使ったメディアは「音」でした。話すことで目の前の相手に気持ちや考えを伝えることができたのです。音は人間にとって最も基本的なコミュニケーション手段でした。しかし、声にはその場にいない人には伝えられない、記憶に頼るため内容があいまいになりやすいなどの弱点もあります。伝言ゲームなどを思い浮かべてもらえると分かりやすいと思います。
そこで人々は声に頼らない情報の伝え方を考えるようになりました。遠くに合図を送るための「のろし」や「楽器」石に刻んだ文字や、洞窟に描いた絵などの記録。こうした工夫は、「今ここにいない人」に情報を伝えるために発展していきました。

やがて人類は植物の繊維から紙を作る技術を発明し、絵や文字を紙に書くようになります。さらに印刷機の発明によって同じ本を大量に短時間で作れるようになり、多くの人に情報を伝えられるようになりました。これにより、「1人が多くの人に情報を伝える(=マスメディア)」という形が始まったのです。さらに交通が発達すると印刷された情報を定期的に各地へ届けることが可能になり、政治や経済に影響を与える重要なメディアとなりました。

19世紀になると音を電気信号に変える技術が登場します。モールス信号などの電信機や、電話や蓄音機。これらの技術はやがてラジオやテレビに発展し、電波を使って遠くの人に同時に情報を伝えることができるようになり、こうした放送メディアもマスメディアとして広く社会に影響を与える存在になりました。

しかし新聞やテレビはアナログ技術に基づいていて、専門の機械や技術者が必要であり、情報を発信できるのはごく一部の人たちだけでした。
しかし1990年代半ば以降、インターネットが普及したことで状況は一変します。誰でも簡単に情報を発信できるように、共通の関心を持つ人どうしが、場所に関係なくつながれるように、さらにスマートフォンやタブレットが登場し、いつでもどこでもインターネットを使える時代がやってきました。これが現代の我々です

 

要約しますと、メディアは文明の発展と共に人類の生活のそばで音、文字、紙、電気信号と発展してきたという話です。

 

しかしここで違和感を感じる人もいると思います。

「え、音ってメディアなの?」

冒頭にも言いましたが、メディアというのは情報の伝達媒体です。それに「音」が該当するのかという違和感ですが、こんな図を用意してみました。

 

人間のコミュニケーションというのは情報の伝達です。そしてそのプロセスは主に3つの段階を踏んでいます。発信者が思考を「記号化」し「メディア」を通して受信者に伝え、受信者が「複合」することで成立します。

 

例を上げると、発信者が考えるものを「数学の教科書」と記号化し、音声として発信します。空気中を振動して受信者に音として受け取られ、「数学の教科書」として受信者に複合されることで、初めて1つの情報伝達が成立します。つまり、音も空気と合わせてメディアの1つであると言える訳ですね。

 

 

メディアを用いたコミュニケーション 

 

記号化、メディア、複合。これらのどれか1つでも不適切だと、コミュニケーションは上手くいきません

 

例えば先ほどのコミュニケーションを水中で行うとします。発信者は音声として記号化、発信をしますが、水中では音が伝わらないため、コミュニケーションは取れません。

 

次に「犬」を伝えようとしたとき、相手が日本語を理解できない場合「inu」を複合できません。この場合でもコミュニケーションは失敗してしまいます。

 

他にも言葉が不十分だったり(記号化の失敗)、受け取り手が理解を誤り、発信者の意図を正しく読み取れなかったり(複合の失敗)、電波が繋がらないのにLINEを送ってしまったり(メディアの選択の失敗)。

最近のインターネットでもよくある話です。発信者が伝えたかったことと受け取り手との解釈の齟齬により、トラブルに発展してしまう事例が後を絶ちません。考えたことを適切に伝えるには、適切な手段を用いて工夫して情報発信を行う必要がある訳です。

 

メディアの分類 

 

では次に、メディアの分類について少し見て行きましょう

 

メディアは基本的に大きく2つに分類できます。同期的か、非同期的かです。

要するにリアルタイムで繋がっているか繋がっていないかです。他にも1対1か1対多数か、双方向か一方通行かなどの分類はありますが、一旦同期的、非同期的を押さえておけば大丈夫です。

 

 

メディアの取り扱いで気を付ける点 

 

これまでメディアについて様々なことを述べてきましたが、メディアに関する本題はここです。現代社会において本当に重要なのは、「情報との向き合い方」です。

私たちが生きる今の時代は、インターネットやSNSの普及によって誰もが大量の情報にアクセスでき、また、誰もが情報を発信できる情報社会です。検索すればあらゆる情報が瞬時に手に入り、一見とても便利な時代に見えます。しかし、この利便性の裏には大きな落とし穴が潜んでいます。

 

多くの人は「テレビや新聞、ネット記事は中立的な立場で事実を伝えている」と思いがちです。しかし、現実にはすべてのメディアには意図や立場が存在します。
例えばニュースサイトは閲覧数を稼ぐために過激なタイトルや表現を用いることがあります。また、政治的な立場を持つメディアは自分たちが支持する思想や政党に有利なように報道の角度を工夫します。
つまり、メディアは単に「事実」を伝えているだけではなく、そこには編集、選択、解釈という行為が必ず含まれます。情報は必ずライターや編集者など「誰かの目線を通したもの」であり、完全な中立など存在しないと認識することが、情報社会を生きる上での基本姿勢です。

 

実際この記事にもゴリゴリにバイアスはかかっています。ニュースサイトや新聞やテレビニュースが全て中立な立ち位置にいるとかいう甘えたバイアスは今すぐ捨ててくださいというバイアスです。

 

では、こうしたメディアのバイアスに、私たちはどう対応すべきなのでしょうか?

まず重要なのは、一つのメディアの情報だけを鵜呑みにしないことです。情報の「真偽」だけでなく、「どのような立場から発信されているのか?」という視点や意図にも目を向ける必要があります。

▼ 例:食品添加物の報道
「食品添加物は危険だ!」という記事と
「食品添加物は安全に管理されている!」という記事

どちらも一面の真実を含んでいますが、どちらを強調するかによって読者の印象がまったく変わってしまいます。これはメディアの「伝え方」による影響です。


このような時代において私たち情報の「受け手」にも、以下のような能力が求められます

・情報の出所、信頼性を見極めるリテラシー
・バイアスを意識し、異なる視点からも情報を捉える力
・複数の情報を比較し、自分なりの考えを持つ判断力

つまり情報社会において、何が正しいか?を受け身で待つのではなく、正しさを自分で見極める主体性と能力が必要であり、人はこれを「メディアリテラシー」や「情報リテラシー」と呼ぶわけです。

 

そしてもう一つ大切なのは、私たち一人ひとりも「」であるという自覚です。
SNSやブログ、動画配信など、誰でも簡単に情報を発信できる時代において、私たちは知らず知らずのうちに影響力を持つ存在になっています。そのため、発信する側にも情報デザインの視点が不可欠です。
誰に向けて発信するのか?
誤解を生まないよう、どう表現すべきか?
その情報が偏っていないか? 差別や誤情報を含んでいないか?
これらを常に意識し、受け手にとってわかりやすく、正しく、思いやりのある情報発信を行うことが求められます。

 

 

ネットコミュニケーションの特徴 

 

というわけでやっと来ましたこの記事の本題であるインターネットコミュニケーション!ネットリテラシー!ここまでは知識を入れる時間だったのである程度固めの文章でしたが、こっからは何でもアリです。みんなで寺島拓篤をねっとりさせていきましょう。

さてメディアの中のインターネットにフォーカスして話を進めていく訳ですが、ネットコミュニケーションには二つの特徴があります。それは「匿名性」と「記録性」です。て言うか超ぶっちゃけると皆が恐れてるネットリテラシーってこれがほぼ全てです。他はネットが出る前からあるメディアリテラシーに発信者にもなりうるとかいうちょっと固めの毛が生えた程度です。一つずつ見ていきましょうか

 

 匿名性

まずはこれ。 インターネットのコミュニケーションでは氏名や所属な、個人の特定につながる情報を隠すことができるという性質です。オタクは大体ハンドルネームで生きているので馴染み深いと思います(偏見)。

 

匿名性というのはインターネットにおける最も強力で、最も危うい性質のひとつです。名前を名乗らずに発言できるという構造は人々に自由を与えます。例えば自分の立場や環境では言いにくいこと、社会的に不利になるような告発、あるいは心の奥底に抱えた悩みや苦しみを、誰にも知られることなく吐き出すことができます。これはときに救いとなり、誰かの命を守ることもあります。

しかしその裏側には責任を持たない言葉が乱れ飛ぶ世界があります。自分の名前が表に出ないからこそ攻撃的になれる。誰かを傷つけても「誰が言ったか」は問われず、「言った内容」だけが炎のように広がる。実名では絶対に口にしないような言葉を軽々しく投げつけてしまう。正義感や正論を盾にして、他人を裁く遊びに夢中になる。

結果として発言は過激になり、仲間内でそれを煽り合い、どんどんヒートアップしていく。

 

オタク界隈でも匿名性は日常です。匿名だからこそオタク同士でフラットに意見交換ができる。しかしちょっとした誤解や意見の食い違いから「晒し」「叩き」「界隈の空気が悪い」なんてことになるのも一瞬です。匿名であることで守られるものもあるが、同時に匿名であることで人を簡単に傷つけてしまうことも忘れてはいけません。

 

余談ですが、匿名で同じ趣味の人たちでコミュニティが形成されると往々にして起こるのがサイバーカスケードとエコーチェンバー現象です。

同じ意見を持つ人たちの間で情報や主張が繰り返されることにより、その意見がより強化され、他の意見に耳を傾けなくなる情報環境のことを指します。異なる視点や批判的意見が入り込みにくいため、意見の偏りや過激化が進行しやすくなります。これがエコーチェンバーです。

 

そしてよく一緒に名前が出てくるのがサイバーカスケード。このエコーチェンバー現象がさらに進行し、特定の意見や情報が短時間のうちに同質のコミュニティ内で連鎖的に拡大していく現象がサイバーカスケードです。元々同じ意見を持つ人々が集まるとその集団内で極端な意見が生まれやすいことは以前から知られていましたが、インターネット上ではこの傾向が加速しています。
特にSNSや掲示板などのデジタル空間では似たような価値観を持つ人々が集まりやすく、相互の「いいね」や共有によって特定の意見が急速に広まることで、デマやフェイクニュース、ヘイトスピーチ、炎上などの社会問題が発生する要因となっています。

 

自分と似た考えの人ばかりをフォローし、似た意見ばかりがタイムラインに流れ「これはもう常識でしょ?」「世の中の大半がこう思ってる」と自信満々にツイートしている人を見たことがあると思います。
異なる意見を見た瞬間に敵と判断し、引用や鍵引用で晒し上げなどの“自衛”に走る時点でもうその人にとっての「情報」とは思考の材料ではなく、自己肯定感を補うサプリメントに過ぎません。そして同じサプリを舐め合うだけのカスのエコーチェンバーグループが形成され、内部で「正しさ」の濃縮還元が始まる。気づいた時にはもはや事実や根拠はどうでもよく「私たちの正しさに共感しない奴=敵」という構図だけが残っています。

 

先ほどネットリテラシーなんて既存のメディアリテラシーに毛が生えた程度と言いましたが正にこれです。情報社会では何が正しいか?を受け身で待つのではなく、正しさを自分で見極める主体性と能力が必要とされるという話をしました。インターネットのアレらになりたくなかったら気を付けることをお勧めします。

 

 記録性

 

次にこれです。皆さんはどうかは分かりませんが、私にはとても馴染み深い(最悪)特徴ですね。所謂デジタルタトゥーというやつの最たる原因です。インターネット上での情報の送受信は常に記録が残る特徴があります。また、一度公開された情報は簡単に記録、蓄積、検索、複製、伝達されるため、完全に消去することは難しいです。軽い気持ちで書き込んだ冗談や掲載した写真が後々までトラブルを起こし続けることもあるため、冷静に、責任を持って発信することが重要です。

誰かが偶然保存していたり!!!!

これに関して言えることは
言わないと「気が済まないこと」は、言わない方が良い。

です。

 

インターネットにおけるコミュニケーションはしばしば「瞬間」のやり取りのように錯覚されます。しかし現実にはその多くが記録として残り続けるという特性を持っています。誰かの投稿に返信した言葉も、自分が放った一言も、たとえツイートを消したところでスクリーンショットやアーカイブによって意図せず保存され、何年も後になって再発見されることすらあるのです。
この記録性が厄介なのは、当人の心がとっくに過ぎ去っていてもデータとしての言葉は生々しくその場に留まり続けるという点です。自分では「一時の感情だった」「もうそんな気持ちはない」と思っていても、ネットはその「一時」を永遠に保存します。

だからこそ上の言葉が重要になります。

気が済まないから言ってしまった言葉は後で見返したときただの後悔の種になります。むしろ言わなければよかったと思う確率のほうが圧倒的に高いです。あなたが忘れても、誰かが忘れていない。検索して思い出される。保存されて、ほとぼりが冷めた頃にまた晒される。泥酔してアイドルちゃん揉ませてくれと叫んだ映像がXに一晩だけ流れた結果、本人の目に入り保存されている事例もあります。

インターネットは優しくありません。あなたの「気が済むための愚痴」は、他人にとっては「一生残る印象」になるかもしれません。慎重さと誠実さを欠いた言葉はいずれ自分に返ってくる。その時になって「気が済まなかったから言っちゃったんだよね」で済むような場所ではありません。


 

最後に 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。特段面白い内容ではなかったと思いますがここまでお疲れさまでした。あとこれはここまで読んでくださった方向けのガチ余談なのですがこのブログ、古のインターネットごっこをしています。そこに全てを置いてきた。以上。解散!

 

 

おま○け 

 

ネットでの発言をきっかけに炎上ってのをよく見かけますが、大概思い違いによる不幸な事故みたいなやつが多すぎる気がします。

共通する構造としてどれも


・コミュニケーションの非対面、非同期性
・文脈の共有が不完全なまま拡散
・「勝手な読み込み」「意味の取り違え」


によって発信者の意図がねじ曲がりやすいっていうネットの特徴がモロに出てる。特に発信者が若年層だとそういう経験が浅いせいか、伝えたい意図が湾曲して受け取られがちという印象です。ただそれを目くじら立てて燃やす側もどうかと思うよ。みんなで大人になろうな…