ドリー・ファンク・ジュニアが亡くなった。
昭和44年、日本プロレスのリングで
アントニオ猪木と対峙したNWA世界ヘビー級
王者。その姿こそ、ワタシの中の
ドリー・ファンク・ジュニアである。
名前もカッコイイ!そして得意技だった
「スピニング・トーホールド」という技名は、
その語感だけでも、いかにも世界王者の必殺技
という響きがあった。
ドリーにカンガルーキックを見舞う猪木。中指と薬指には
添え木と包帯が。にしてもスピニングトーホールドって
全くどんな技か想像がつかなかったね
そして当時のNWA世界ヘビー級王座は、
ドリー以降とはまったく価値が違っていた。
私たち少年にとって、それは間違いなく
「世界一強い男」の証だったのである。
昭和44年当時、アントニオ猪木はWリーグ戦で
優勝したとはいえまだジャイアント馬場の
一歩後ろを歩く存在だった。
NWA世界戦は馬場は挑戦せず12月2日に
大阪府立体育館で満を持して猪木は対決した。
この試合の1週間前にはインタータッグ戦で
馬場猪木と対戦したのはドリーとダニーホッジ
というヘビー級、Jヘビー級の世界王者が
タッグだったのね。
試合放送は録画で12月31日。そう紅白歌合戦の
裏番組。おそらくコンテンツが他になかったん
だろうけど当時のNETテレビとしては
猪木で勝負だ!日テレを追い越すんだ!
そんな意気込みがひしひしと見受けられる背景
もしびれましたよ。
試合は60分戦いっぱなしの0-0時間切れ
引分け。60分持たせるのはやはりプロ。
ドリーはそいうったNWAチャンプとして相当
高い技術をもっていたわけで、猪木も実はその
インタータッグ戦で薬指を骨折しており
ハンディもあったのね。
しかしオヤジのシニアは日本プロレスの馬場派
より「イノキは隙があれば相手を潰そうとする
スカンク野郎だ」と吹き込まれ
「ババと引き分けるのは構わないが、ナンバー
2のイノキとやって引き分けたらワタシの
ジュニアが弱そうにみえるやろ!」と結果には
不満だった模様。
後から振り返ると猪木との時間切れ引分けの
おかげでドリーの日本における株も
上がったわけで。
翌昭和45年。福岡スポーツセンター。
迎えたドリーとの第2戦
これまた名勝負
ドリーのリバーススープレックスにカウント3
を取られた猪木は芸術的な原爆固めで1-1に
持ち込む。
猪木の原爆固めでもベストスリーに入る出来。
そのブリッジの高さは他の追随を許さない
時間切れ寸前、猪木はコブラツイストで王者を
攻め込み、ゴング誌はあと3分あれば猪木は
勝っていた、と評価する試合。
残念ながら王者には届かず。
そして第3戦
日本プロレス初のダブルタイトル戦!
ユナイテッドナショナルチャンピオンの猪木は
ドリーの世界王座にタイトルをかけて挑む。
盛り上がらないわけがない!
しかし例の日本プロレス乗っ取り疑惑で猪木は
除名となりこの第3戦は幻と終わる。
振り返ると、この出来事も昭和プロレス史を
語る上で欠かせない一ページである。
端にしか見えないがNWAベルトとUNベルトの
大きさの違いがよくわかる写真。
二人がベルトをつけて対峙する姿は見たかったなあ。
大人になってから、プロレスという世界の
仕組みも知った。
NWA世界王者の仕事は各地のテリトリーを
巡り、地元のスターを引き立てながらも
王座を守る。
世界王者には、そうした役割もあった。
少年だった私は、その巧みな世界観に見事に
魅了されていた。
しかし、それを知った今でも、あの試合の
価値は少しも色褪せない。
ドリー・ファンク・ジュニアの試合には、
世界王者としての風格だけではなく、
レスリングそのものの質の高さがあり、
一つひとつの攻防に説得力が生まれ、
試合全体に品格があった。
だからこそ、半世紀以上経った今でも鮮明に
思い出すことができる。
ワタシは
アントニオ猪木のお別れの会にも足を運んだ。
その会場では、映像を通じてドリーが猪木への
追悼の言葉を贈っていた。(まあカネで動いた
んだろうけど)
昭和44年、世界王者として猪木の前に
立ちはだかった男が、半世紀後にはライバルへ
別れの言葉を送る。
そして昨日、
そのドリー・ファンク・ジュニアも旅立った。
猪木を見送り、今度はドリーを見送る。
少年時代に憧れた二人の物語は、
ワタシの中で静かに幕を閉じた。
今度こそ終わっちまったなア
それでも、昭和44年45年のあのリングだけは、
決して色褪せることはない。
昭和という時代に本物の「世界王者」の姿を
見せてくださり、
本当にありがとうございました。


