4.積極外交
①欧州との協調
立憲政友会の田中義一内閣は、外交政策を欧米諸国に対しては協調外交を引き継ぎました。
1927年にアメリカ・イギリスと海軍の補助艦制限を話し会うジュネーブ軍縮会議に参加しましたが、交渉妥結しませんでした。次いで、1928年にパリ不戦条約を調印し、国際紛争解決のための戦争を非とし、国家政策解決の手段としての放棄することを「其ノ各人民ノ人民ノ名ニ於テ」と宣言しました。しかし、1929年の批准に対して政府は、この部分は天皇主権の憲法を持つ日本には適用されないものとすると了解されました。
②中国北伐
中国では、1919年に孫文によって中国国民党が結党され、広東を中心に中国南方に支配を広げました。一方、1921年には陳独秀らによって中国共産党が結成されました。そして1924年には、軍閥や北京政府に対抗するため中国国民党と中国共産党が連携し、第1次国共合作が成立しました。
1926年に孫文が死去すると、後継には蒋介石が就任し、そして中国革命軍総司令に就任し北伐を進めました。
1927年初頭には国民革命軍の勢力は長江流域に達し、漢口などのイギリス租界を回収しました。これを受け、イギリスは日本に共同で中国出兵を呼びかけましたが、幣原外相の対中国内不干渉政策により、提案は受け入れられませんでした。3月には、国民革命軍の勢力が南京にまで達し、その際米・英・日の総領事館や居留民が襲われ死傷者が出たため、アメリカ・イギリスは長江上の軍艦から報復攻撃を行いましたが日本は加わりませんでした。この事件を南京事件といい、この事件の中心には中国共産党が関与していたとされています。これを受け、中国国民党は4月12日に反共クーデター(四・一ニクーデター)を行い中国共産党と絶縁しました。そして、南京に国民政府を置きました。
③山東出兵
憲政会の第1次若槻内閣は、幣原外相の下内政不干渉主義に則り国民革命軍の北伐の干渉に消極的でした。しかし、陸軍や国家主義団体・野党立憲政友会・中国に利権を持つ実業家などから日本の利益を守れない軟弱外交と揶揄され、対中強硬方針を唱える声が上がりました。一方、小日本主義の立場から植民地を放棄して貿易関係に重点を置くことを主張した石橋湛山(第55代首相)のようなジャーナリストもいましたが支持は広がりませんでした。
1927年4月に成立した立憲政友会の田中義一内閣は、中国に対して積極外交をとりました。6月から開かれた東方会議では中国関係の外交官・軍人を招集し中国問題を協議し、満蒙の日本権益を守る方針を確認しました。一方、陸軍では1919年に関東都督府が関東庁に改組された際に、関東都督府陸軍部が独立し関東軍なり、大陸進出の急先鋒となっていました。
田中義一内閣は、満州軍閥の張作霖を支援し、北伐を再開した中国革命軍に対抗するため日本人居留民の保護を名目に、1927~1928年にかけて3度にかけて山東出兵を実施しました。第2次山東出兵では、1928年5月に日本軍と国民革命軍の間で武力衝突が発生しました。この戦闘を済南事件といい、一時関東軍は済南城を占拠しました。
④張作霖爆殺事件
日本は3次にわたる山東出兵で張作霖を支援しましたが、張作霖軍に敗北すると関東軍の一部で謀略によって張作霖を排除して満州を直接支配しようとする考えが台頭してきました。
1928年6月、関東軍の河本大作大佐らは中央政府に諮らず独断で、北京から満州へ帰還中の張作霖を奉天郊外で列車ごと爆破して殺害しました。この事件を張作霖爆殺事件といい、当時の国民には真相は報道されず満州某重大事件と呼ばれました。
田中義一首相は元老西園寺公望からの助言を受け、真相の公表と厳重処分を決意し、その旨を昭和天皇に上奏しました。しかし、閣僚や陸軍から反対を受けたため首謀者河本大作大佐を停職にしたのみとしました。この田中義一首相の方針転換を巡って、首相は昭和天皇に叱責され、1929年に田中義一内閣は総辞職しました。
しかし、陸軍の目論見ははずれ、張作霖の子で満州軍閥を率いることになった張学良は1928年12月満州全土に中国国民党の旗である青天白日旗を掲げ、国民政府に合流しました。このことを易幟事件といい、満州全土が国民政府支配下に置かれました。こうして、北伐は完了しほぼ全土の中華民国による中国統一がなされました。中国では、不平等条約撤廃、国権回収を要求する民族運動が高まりました。そして、1931年には国民政府も不平等条約の無効を一方的に宣言する外交方針をとるようになりました。