3.明治政府の発足

①新政府の発足

 戊辰戦争が進む中、新政府は政治体制を整え始めました。明治天皇の元服を機に、1868年1月には諸外国に対して王政復古と天皇の外交主導権の掌握を宣言し、対外関係を整えました。ついで、3月14日には五箇条の御誓文を交付しました。五箇条の御誓文は、諸侯会議の議事規則として、参与由利公正・福岡孝弟が起草したものに木戸孝允が加筆修正して完成させました。五箇条の御誓文では、公議世論の尊重と開国和親など新政府の国策基本方針を示し、天皇が公卿・諸侯(旧大名)・官僚を率いて神々に制約する形で天皇親政を強調しました。

 翌3月15日には、五榜の掲示を新政府は掲げました。五榜の掲示では、旧幕府の民衆政策が維持され、君臣・父子・夫婦間の儒教的道徳を説き、また徒党・強訴・キリスト教の信仰が禁止されました。

 そして、閏4月に、政体書を公布し、明治政府の組織を整えました。政体書によって、国家権力は太政官と呼ばれる中央政府に集権させ、形式的にはアメリカ合衆国憲法を模倣した三権分立制が導入され、高級官吏を4年ごとに互選で交代させるなど欧米的な近代政治体制が導入されました。しかし実際の運用では、太政官の立法・行政の区別は明瞭でなく、官吏の互選も1回しか行われませんでした。行政機関とされた行政官の長である輔相には公家の三条実美と岩倉具視が就き、その下に神祇官・会計官・軍務官・外国官が置かれました。立法機関とされた議政官は当初、議定・参与からなる上局と各府県・藩から選出される下局で構成されました。

下局は1869年に公議所、そして集議院へと再編されました。

②元号明治東京奠都

 新政府軍が関東を制圧すると、明治天皇は1868年7月17日に江戸を東京と呼称を改める詔を発しました。そして、8月27日に即位の礼を京都御所で行いました。そして、9月8日に元号を『慶応』から『明治』に改元し、同時に一世一元の詔を発し、天皇1代につき1つの元号とする一世一元の制を採用しました。

 9月には、明治天皇は東京に行幸にお出かけになり、12月まで滞在しました。そして、1869年1月に再び東京に行幸にお出かけになるとそのまま東京に滞在されました。これによって、事実上首都機能が京都から東京に移りました。しかし、明治政府は京都の公家・町人の反発が予想されたため、正式な遷都宣言を出しませんでした。このことから、このことを東京奠都といいます。

 

政体書での人事

太政官

行政官

輔相

三条実美・岩倉具視

神祇官

鷹司輔熙

会計官

万里小路博房

軍務官

小松宮嘉彰

外国官

伊達宗城

民部官(M2・閏4)

蜂須賀茂韶

刑法官

大原重徳

議定官

上局

議定

三条実美・岩倉具視・中山忠能・中御門経之・正親町三条実愛・

鷹司輔熙・東久世通禧・松平慶永・鍋島直正・蜂須賀茂韶

参与

大久保利通・木戸孝允・由利公正・福岡孝弟・後藤象二郎ら9名

下局

貢士

大木喬任

 

史料編

 

五箇条の誓文(由利公正 原案)

議事之体大意

一、庶民志を遂け人心をして倦まざらしむるを欲す・

一、士民心を一にし盛に経綸を行ふを要す

一、知識を世界に求め広く皇基を振起すべし

一、貢士期限を以て賢才に譲るへし

一、万機公論にし私に論するなかれ

 

五箇条の誓文(福岡孝弟 修正案)

会盟

一、列侯会議を興し、万機公論ニ決すべし

一、官武一途庶民に至る迄各其志を遂ケ人心をして倦まざ らしむるを欲す

一、上下心を一にし、盛に経綸を行ふべし

一、智識を世界ニ求メ大ニ皇基を振起すべし

一、徴士期限を以て賢才ニ譲るべし

 

五箇条の誓文(木戸孝允 完成版)

一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ

一、上下心ヲ一ニシ盛ンニ経綸ヲ行フベシ

一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ

一、智識ヲ世界ニ求メ大イニ皇基ヲ振起スベシ

 

五榜の掲示

第一榜

一曰、五倫の道を正ふすへし

ニ曰、鰥寡孤独癈疾の者を憫むへし

三曰、人を殺し、家を焼き、財を盗む等の事を為す勿れ

第二榜

曰、徒党を樹て強訴し、或は相率て田里を去ること勿れ。

第三榜

曰、切支丹邪宗門は、旧に伋りて之を厳禁す

          ※

以上三榜永世の定法とす

第四榜
 外国人に対して暴行を為すを禁す
第五榜
 逋逃を禁す

 

※外国公使の抗議で第三榜は改正された。

第三榜(一八六八年閏四月改正版)

一曰、切支丹宗門の儀は是まで御制禁の通り固く相い守るべき事

一曰、邪宗門の儀は固く禁止すべき事