16、江戸初期の産業

農業

  近世の農業は、一組の夫婦を中心とする小規模な家族が、狭い耕地に細やかな労働を集中的に投下し、面積当たりの収穫量を高くするという、零細ではあるものの高度な技術を駆使する小経営をおこなう点に特徴があります。幕府や大名は、このような高い生産力をもつ小経営と、それを支える村を社会の富を生み出す基礎としました。そのため、検地などによって小経営の実態や耕地の増加を調べました。

17世紀初めから、幕府や大名は大規模な治水・灌漑工事を各地で始め、用水の体系を整備しました。用水としては、芦ノ湖を水源とする箱根用水や利根川から分水する見沼代用水が知られています。また、商人の資力も利用して、海浜の浅瀬・湖沼・荒蕪地などを耕地として開発させ(新田開発)、そこに新たに百姓を移住させて村をつくらせました。また、児島湾(岡山)や有明海(佐賀)といった干潟や下総椿海といった湖沼干拓も見られました。17世紀末からは、有力な商人が資金を投下して開発する町人請負新田がみられるようになりした。その結果、18世紀初め頃には全国の耕地は2倍近くに拡大し、年貢米の増収をもたらしました。

農具は、人が用いる鍋・釜・鎌などをはじめ、牛や馬などの畜力を利用する大規模な耕作用の農具など、耕耘・除草・収穫などの作業に応じて多様に発達しました。
これらの農具には鉄が用いられ、城下町の鍛冶職人が生産・修理を行い、行商の鍛冶屋が村々を回って販売しました。

肥料は刈敷と厩肥が基本でした。刈敷は村内や近くの入会地で得られる草です。作物は、多くを年貢に当てる米がもっとも主要でしたが、小麦・粟・稗・蕎麦などの自給用雑穀、麻・木綿などの衣料原料、近くの城下町向けの野菜・果物、江戸や上方など遠隔地向けの柑橘・茶などの商品作物、養蚕のための桑など、地域の条件にもとづいて多様に生産されました。

村は、水路・溜池などの用水や入会地の維持・管理、田植えや収穫時の共同労働()など、百姓の農業経営になくてはならない役割を果たしました。

②林業

  国土の大半が山でおおわれる日本では、村や城下町の多くが山と深い関わりをもっていました。まず山は、建築や土木工事に不可欠な材木を豊富にもたらしました。とくに良質な大木を多く抱える山地は、幕府や大名の直轄支配とされ、伐り出された材木は城郭や武家屋敷の建築に用いられ、民間の手工業にも大量に払い下げられました。また、尾張藩や秋田藩などでは、藩が直轄する山林から伐り出された材木が商品化され、木曾檜秋田杉として有名になりました。材木産地の山を抱える村には、木を伐る専業の職人や、木材の運搬に携わる労働者(日用)が百姓として多数居住していました。

山の一部は村の共有地、あるいはいくつかの村々が共同で利用する入会地とされました。共有地や入会地では、肥料となる刈敷や牛馬の餌となる草が採取され、また百姓の衣食住を支えるさまざまな草木が採集されました。さらに、山は化石燃料が普及する以前のほぼ唯一の燃料エネルギー源である薪や炭の供給源でもありました。これらの薪や炭は、近隣の城下町などで大量に販売されました。

 

③漁業

漁業では、主要な動物性蛋白源として、また肥料(魚肥)に用いるために魚介類を獲得することを目的として、多様に発達しました。海・河川・湖沼でさまざまな漁法や漁具が用いられ、漁船による網漁を中心に技術の改良が進み、沿岸部の漁場の開発も進展しました。中世末以来の網漁の技術は、摂津・和泉・紀伊・長崎・大津などの上方漁民によって全国に広められました。こうして得られた漁獲物は自給用に消費されるほか、鮮魚のまま近くの都市で売られたり、塩蔵や干物などの保存処理が施されたりしました。なかでも干し鮑や鰹節などは全国規模で流通しました。海辺の漁村では、城下町の魚問屋と取引する網元などの有力者を中心とする漁民たちが漁場を占有しました。こうした漁業や流通には、城下町や三都の魚問屋の資金が大きな役割を果たしました。

④手工業

 近世は、職人の時代でもありました。職人は、生産のための道具や仕事場を自分で所有し、弟子を抱える、小規模ではありますが独立した手工業者でした。近世の手工業は、農業と同じように細やかな労働を集中し、多様に分化した道具を駆使する高度な技術によって支えられていました。

近世の初めに職人とされたのは、幕府や大名に把握され、城郭や武家屋敷、寺社の建築、都市の建設、鉱山の経営、武器の生産などを担う大工・木挽・鉄砲鍛冶などに限られていました。これらの職人は町や村に住み、幕府や大名に無償で技術労働を奉仕し(国役と呼ぶ)、その代わりに百姓や町人の役負担を免除されていました。

17世紀の中頃になると、民間のさまざまな需要に応じて、多様な手工業生産が都市を中心に急速に発達しました。これらの生産に従事する職人たちは、業種ごとに仲間や組合をつくり、都市部では17世紀末頃までに借家人として定着しました。代表的なものには、紙漉や酒造などがあります。

一方、村々にも大工などの職人がいました。そのほか、麻・木綿などの織物生産は早くからみられました。戦国時代末期に綿作が朝鮮から日本に伝わると、木綿は従来の麻とともに庶民の代表的な衣料として急速に普及しました。木綿の生産は、村々の女性たちが伝統的な地機(いざり機)を用いておこなうのが中心でした。また、紙漉による和紙の生産は、楮を主な原料とし、流し漉きの技術とともに全国の村々に広まりました。和紙は大量に生産され、行政・経営・情報伝達・記録の手段として不可欠なものとなり、学問や文化の発達にも大きく貢献しました。このような村々の手工業は、百姓が農業の合間におこなう仕事(農間渡世)として広く把握されていました。

⑤鉱山業

 鉱山業では、中世の終わりから近世の初めにかけて、海外から新しい精錬や排水の技術が伝えられ、製鉄技術も刷新されました。各地では金・銀・銅の鉱山開発が競って進められ、鉱山町が各地で生まれました。主な鉱山としては、石見銀山や生野銀山、院内銀山など、佐渡相川の金山・銀山、足尾銅山、別子銅山、阿仁銅山が知られていました。なかでも銀は世界でも有数の産出量に達し、東アジアの主要な貿易品となりました。

17世紀後半になると金銀の産出量は急減し、かわって銅の産出量が増加しました。銅は拡大する貨幣需要に応じるとともに、長崎貿易における最大の輸出品となりました。鉄は、砂鉄を採集しておこなうたたら製鉄が中国地方や東北地方を中心に発達しました。そこでつくられた玉鋼などは商品として全国に普及し、多様な道具に加工されました。

鉱山で使われた鉄製のたがね・のみ・槌などの道具や、掘削・測量・排水などの技術は、治水や溜池・用水路の開削技術にも転用されました。その結果、河川敷や海岸部の大規模な耕地化が可能となり、農業や手工業生産の発展に大きく貢献しました。

⑥商業

商人は本来、自分の資金で仕入れた商品を、自ら買い手に売る小経営のことを指します。こうした小経営の商人は、中世以来、広く存在していました。近世の初期に平和が実現し、交通や流通が安全におこなわれるようになると、まず豊富な資金や船・馬などの商品輸送手段、蔵などの貯蔵施設を所有する豪商が活躍しました。この時期の豪商は初期豪商と呼ばれ、京都の角倉了以や茶屋四郎次郎、摂津平野の末吉孫左衛門、堺の今井宗薫らが知られています。彼らは堺・京都・博多・長崎・敦賀などを根拠地とし、朱印船貿易や、交通体系がまだ整備されていない時期に地域間の大きな価格差を利用して巨大な富を得ました。また、両替商として活動する者も多くいました。しかし、鎖国によって海外との交易が制限され、さらに国内で陸上・水上交通が整備されていくと、これらの豪商は急速に衰えていきました。

17世紀後半になると、全国の商品流通は三都や城下町などの都市を根拠地とする問屋が支配するようになりました。問屋は生産地の仲買から商品を受託し、これを都市の仲買に手数料(口銭)を取って卸売りしました。生産地の仲買は仕入れた商品を遠隔地の問屋に販売を委託し、都市部の仲買は都市内の問屋や市場で仕入れた商品を武家や小売商人などに売って利益を得ました。小売商人は、市場の仲買などから購入した商品を消費者に売る商人で、店舗を構えて販売する者、路上で店を出す者、商品を持ち歩いて売る零細な振売など、さまざまな形態がありました。問屋や仲買は、都市や生産地で業種ごとに仲間・組合と呼ばれる同業者団体をつくり、独自の法(仲間掟)を定めて営業権を独占しようとしました。