観・省・発・転について
「憎まれっ子世に憚る」という流儀があって、私も性懲りもなくその流儀に従って生きて 仕舞うことになっているようです。アスベストに関するブログを書かせて貰うにあたって、現状を観る・観た結果を省みる・発信する・転ずるという流れがあるよう想えます。アスベスト疾患の療法を観察した結果、医師による一連の医療行為に従って症状が落ち着き、自宅療養や仕事に復帰さえも出来るようです。前回はこの主治医の手を離れて再発するまでの間に、延命の為に民間療法や健康食品などで病気と折り合いをつける努力が疎かではないかと、発信させて貰いました。この言葉によってご遺族の心を傷つけるであろうことは予測できます。ご遺族には「愛する人を送り出した自分たちの行為はあれで良かったのか」との想いが残されていて、それ故の自責の念を再燃させて仕舞うことになるであろう、と推測できます。然しながら後から来る人たちに私たちは何を遺せるのか。傷ついた人たちの心は心として、同じ道をたどるであろう後に続く人たちのために、道標を立てながら前へ進む心掛けも先人の務めではないか、との想いも否定できないのです。これまでも憎まれっ子として生きたいと想ってきましたし、これからも成せることは覚束ないながら道を変えることなく「自省」と「憚る」ことを続けたいのです。死期を悟っている動物たちのように、私にも微かにですがその報せが届くようになりました。「裏付けのない確信」は人生最後の「神仏による救いを確信」することで幕を閉じるのかも知れませんね。