深夜の湾岸道路を麻美の運転する車は、雨を切り裂いて横浜へと急いでいた。フロントガラスに残った「赤い手形」は、ワイパーを動かしても、雨に打たれても、決して消えることはなかった。それどころか、その手形を中心に、ガラスには血管のような細いヒビがじわじわと広がり始めている。
「……野村くん。本当に、あそこへ行けば終わるの?」
ハンドルを握る麻美の横顔は、街灯の光と影が交互に走り、ひどく不安そうに見えた。
「確信はないけど、あの『オレ』が言ってたんだ。オレが夢を欲しがるほど、現実が壊れるって。……あいつを、この現実へ引きずり込んでいる入り口が、あの三年前の鏡なんだと思う。」
オレは、ダッシュボードの上にあの「赤いシミのノート」を広げた。すると、白紙だったページに、まるで誰かが透明なペンでなぞっているかのように、新しい図面が浮かんできた。それは三年前、オレが見たはずの美術館のフロアマップだった。
「瀬戸さん。三年前、君は鏡の近くで何を見たんだ? オレが倒れた時、本当は何が起きた?」
麻美は一瞬、息を呑んだ。ワイパーの規則正しい音が、車内の沈黙を際立たせている。
「……あの日、あなたは鏡の前で、自分自身と激しく言い争っているように見えたわ。でも、鏡の向こうにいたのは、今のあなたみたいな『冴えない野村くん』じゃなくて、あの……卒業式のスーツを着た人だった。」
「……卒業式のスーツのオレ?」
「そうなの。鏡の中の『あなた』が、現実のあなたを鏡の中に引きずり込もうとしていたわ。……その時、どこからか、また別の『あなた』が現れたの。それが、あの自信に溢れたチャコールグレーのスーツの佳祐くん。彼は、鏡の中にいたあなたを追い出して、自分があなたの体に収まったのよ。」
なんだそれ?麻美の言葉に、オレは眩暈を感じた。つまり、三年前からずっと、オレの「体」を使っていたのは、あの『完璧な佳祐』だったということか。そして本物のオレは、ずっと夢の世界という名の監獄に閉じ込められていた……というわけか。
じゃあ、今のオレはいったい……。
「……なら、今、この体にいるオレは、一体誰なんだ?」
その問いに、麻美は車を急停車させた。タイヤが悲鳴を上げ、車体が大きく揺れた。彼女はゆっくりとオレの方を向き、その瞳に涙を溜めて言った。
「分からない……。でも、三年前、あなたが入れ替わった直後、私はあの鏡の中に『あれ』を隠したの。……あの完璧な佳祐くんが、二度と鏡の中に戻れないように。」
「隠した……? 何を?」
「あなたの、本当の『心』よ。野村くん。……あなたが卒業式の日に私に言おうとして、結局飲み込んだ、あの言葉を書いた手紙。それを、鏡の裏に貼り付けたの。」
その瞬間、フロントガラスのヒビが激しい音を立てて砕け散った。割れたのはガラスだけじゃない。夜空の色が、まるで行き止まりの壁が剥がれるように、パラパラと崩れ落ち始めた。
剥がれた空の向こう側から、あの『卒業式のスーツ』の男が、ゆっくりと顔を出した。その顔は、もはやオレの顔ではなかった。皮膚が剥がれ落ち、下から覗いているのは、あの『赤いシミ』と同じ、ドロドロとした境界線の澱そのものだった。
『・・・ハ、ナ、セ・・・ソ、ノ、オン、ナ、ハ、オ、レ、ノ・・・』
男の咆哮とともに、世界が歪み始める。
