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常吉の家系

第二回目が6年ぶりとなってしまいましたが何食わぬ様子で前回に宣言した通り、常吉に関する事に触れていきたいと思います。

かれこれ15年くらい前に身内の集まりに母親が行った際、引き取り手がなく危うく廃棄されそうだった常吉の経歴資料を、じゃ、って事で軽い気持ちでうちの母親が引き取って来てくれました。
興味ない人にしてみたら只のゴミですが、明治古写真の世界からするとこれは一級品の資料になるべくシロモノです。
これを引き取ってくれずに処分されていたらと思うとちょっとゾッとします。
まだ常吉に関しては何も解明されておらず、色々不明だった事が本当に闇に葬られていた事でしょう。
母親に感謝です。
常吉の経歴書資料
常吉の経歴資料


■成田常吉
福井県武生出身
父は旧福井藩士族 成田半之助。母は豊田サク。 
長男 吾郎(旧名 市之丞)二男 常吉 三男 孝 四男 豊四郎の四兄弟です。
常吉は文久2年(1862)2月1日生まれ
長男吾郎は内務省勤務に始まり外務省勤務で海外赴任も多数こなし、最終的には正七位に叙せられていると
いう華々しい経歴の人だ。
それとは対照的に常吉は新橋の江木写真館に勤める前までは転々としている放蕩ぶりです。
常吉の細かな経歴については改めてこの後触れていくこととにします。
孝は教員で、豊四郎は洋食屋を営んでいた。
母親が言うにはお茶の水の書泉グランデ付近でお店をやっていたらしく、子供の頃に食べに行ったそうです。

常吉の奥さんは同郷の武生の造り酒屋の娘の成田マサ。
子供には恵まれていて、男女合わせて十人いました。その子供たちのほとんどは逆に子供に恵まれず、
常吉の四男だけが四人の女子に恵まれたが、更にその子供たちはほとんど女子で、常吉の曾孫で男系は
私の家だけとなります。

残念ながら現在常吉の写真業を継いでいる親族はいません。
それどころか、あろうことかうちの親族の間で常吉は「只の写真館をやっていた人らしい」程度の認知で、
明治の写真師として歴史に名を残すであろう人物としては全く伝わっていないない有様でした。
原因としては、孫娘が生まれる前に死去している事で、その仕事ぶりが伝承されずにきた事が一つ大きいようです。
自分が写真師だったのに、自分の写真も一枚も残っていないのも残念な事です。これは関東大震災で無くなってしまったかもしれません。従って私もどんな顔をしていたか知りません。
先日、常吉より長寿だった曾祖母の写真を見る機会がありました。
祖父とは全く似ていませんでした。おそらく祖父は常吉似なのではないかと睨んでいます。


常吉が戸主の謄本
常吉が前戸主の時の謄本

では次回は経歴書の中を見ていきたいと思います。

レジェンド オブ 常吉 

デジカメを誰もが持ってるこのご時世

「明治古写真」 「彩色写真」

という単語は関心ない人にはなんのこっちゃでしょうね。

モノクロ写真に手で色付けして、カラー写真にしていくような事は今やる人いませんね。
そんな彩色写真アプリがあったら個人的には楽しいかも。誰か作ってくれないかなあ。

フォトショップなどでレタッチは今や当然のようにやりますね。グラビアモデルの写真はかなりレタッチしてますしね。
彩色写真はレタッチの元祖といえるかもしれないです。

明治の古写真を見ていると、閑散とした見慣れない風景や見慣れない風俗、それに見慣れない写真のクオリティが、逆にデジカメを使ってる現代人にとっては新世界でかなりワクワクしてくると思うんですが。
うん・・してくるでしょう。(←強引)

明治の頃は写真撮影は職業でした。
そういう人を写真師といい、成田常吉は江木写真館新橋支店の写真師でした。


写真師 成田常吉の情報は、これまで「古写真界」の専門科の間でも
江木写真館を通しての仕事情報、及び評価は知られていても、人物情報は謎でした。
ましてや退転した後の事などは皆無です。

ここ2、3年前から生没年や略歴が漸く出回りだしましたが、それは私が発信源です。
なぜなら、このブログのタイトル通り私が「成田常吉の曾孫」だからです。

初回はこのくらいにして、次回からは常吉についてもう少し踏み込んでいきます。

常吉の職場だった新橋の江木写真館「江木塔」
現在は静岡新聞東京支社ですが、この塔の名残はある。

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