今月は、阿弥陀様の救い、極楽往生というのが、身分などによらないのかについて、法然上人のご法語を見ていきたいと思います。

 

法然上人の御法語に

自身の罪悪をうたがいて往生を不定に思わんは、大きなるあやまりなり。さればとて、不思議なる道理を心えんがためなり。されば念仏往生の義を、ふかくもかたくも申さん人は、つやつや本願の義をしらざる人と心うべし。源空が身も検校別当どもが位にてぞ往生はせんずる、もとの法然房にては往生はえせじ。さればとしごろならいあつめたる智慧は往生のためには要にもたつべからず。されどもならいたりしかいには、かくのごとくしりたればはかりなき事なり。

【禅勝房伝説の詞・昭法全462】

 

訳:自分の犯してきた罪悪を懸念して、往生は叶わないだろうと思うのは大きな間違いです。だからといって、投げやりになって悪く振る舞ってよいというわけではありません。(なぜなら、自らを見据えることで)阿弥陀さまの本願という救いの手は誠に広く、そして(こんな私さえも救って下さる)不思議な道理であることに目覚めるからなのです。ですから、念仏往生の教えを奥深くて難解なものであると説く人は、まったく本願の真意を知らない人とお心得なさい。

(そうした人たちに言わせれば)検校や別当という高い位についてこそ往生は叶うのであって、この源空の身も、ただの法然房という一介の僧では往生できないということになります。(本願に救われるの)ですから、長年学び積んできた智慧とて往生のためには何の役にも立ちません。しかし、学んできた結果、このように気付いたならば、並々ならぬことです。

【法然上人のご法語② 法語類編 121P 浄土宗出版局】

 

 この世で生きていくことは大変なことです。時に間違いをしてしまうこともあるでしょう。だからと言って、極楽往生が叶わないと思うのは大きな間違いです。だからといって、投げやりとなり、悪く振る舞い、間違いを重ねるのも良くありませんと、法然上人はお説きになられます。そして、自身を省みてこそ、阿弥陀さまの本願という救いの手が大きく、その不思議な道理に気が付くことができるのですとします。

 当時から、お念仏の教えは簡単で、学や位の低い人のためのものであるという人がいました。しかし、その人たちは、阿弥陀さまの本願の真意、思いを知らない人だとされます。

 もし、身分の高い人しか往生できないのであれば、一介の僧である法然、私も往生できないことになるだろう。長年、仏法を学んできた智慧にしても、極楽往生のためには直接的には何の役にも立たないのです。しかし、仏法を学ぶことにより、お念仏が阿弥陀さまの本願であり、お念仏こそが極楽往生のために一番の大事であると気づいたのであれば、素晴らしいことですとお説きになられました。

 

 現代を生きる私たちも間違いをしてしまうことがあるでしょう。しかし、そのことを省みて、少罪でもしないようにしようと努めれば、極楽往生に障りはありません。

 また、身分や学についても、極楽往生においては関係ありません。ただ、お念仏をお称えし、阿弥陀さまを頼り、極楽往生を願うことが大事なのです。しかし、だからといって、仏法を学ぶことがまったく意味がないというわけではありません。学んだからこそ、阿弥陀さまの教え、お誓いが素晴らしいものだと気づき、よりお念仏に励むことが出来るのであれば、それもすばらしいことなのです。

 このブログもそうですが、各寺の門前の掲示板、本堂などにおかれている冊子など、阿弥陀さまの教えを記したものがございます。また、各和尚さんの法話などもあると思います。ぜひ、ご自身のお念仏の励みとなるものと捉え、ご活用いただければと思います。

 

合掌

 今月は、私たちを極楽往生に導いて下さる阿弥陀仏の思い、ご決意について見ていきたいと思います。

 

法然上人の御法語に

いかなる弥陀か十念の悲願をおこして十方の衆生を摂取し給う、いかなるわれらか六字の名号をとなえて、三輩の往生をとげざらん。永劫の修行はこれたれがためぞ、功を未来の衆生にゆずりたもう。超世の悲願は又なんの料ぞ、心ざしを末法のわれらに送り給う。われらもし往生をとぐべからずば、ほとけ、あに正覚をなり給うべしや。仏若し正覚を成り給わずば、われら又往生をとげまじや。われらが往生はほとけの正覚により、ほとけの正覚はわれらが往生による、若不生者のちかいこれをもってしり、不取正覚のことばかぎりあるをや。

【登山状・昭法全432】

 

訳:わずか十遍であってもお念仏を称えたならばあらゆる世界の衆生を極楽に往生させようと、慈悲深い願を誓われた阿弥陀さまとは、どのようなお方なのでしょうか。南無阿弥陀仏という六字のお名号を称え、三輩往生を遂げる私たちとは、いったいどういう者なのでしょうか。阿弥陀さまのはかり知れないほどの永い修行は誰のためかといえば、その功徳を遠い未来の衆生に譲り与えて下さっているのです。あらゆる仏さまにもまして慈悲深い誓願はなぜかといえば、その志を末法に生きる私たちに向けて下さっているのです。

 私たちの往生が叶わないというのであれば、阿弥陀さまは覚りを開かれたというのでしょうか。もし阿弥陀さまが覚りを開かれていないというのであれば、どうして私たちの往生が叶うというのでしょうか。私たちの往生が叶うのは阿弥陀さまが覚られたからであり、阿弥陀さまが覚られたのは、私たちの往生を叶えて下さるからなのです。「もし往生できなければ」という一節はこのように理解せねばならず、「決して仏とはならない」と誓われたお言葉に、いかなる限定があるというのでしょうか。(いや、あろうはずもありません)。

【法然上人のご法語② 法語類編 115P 浄土宗出版局】

 

 阿弥陀さまがお覚りを開かれた時、四十八の誓願をお建てになられました。その中に、南無阿弥陀仏とお称えし、私たち衆生が極楽往生できなければ、お覚りを開かないというものがあります。今回は、その誓願を受けてのお話となります。

 法然上人は、阿弥陀さまが遠い末法という時代(平安末期から現在、未来までの世界のこと)の人々のために、この誓願をお建てになられたことを説かれています。そして、阿弥陀さまがお覚りを開かれているからこそ、私たちの極楽往生が叶うのであり、誓願にある「覚りを開かない」というのは、誓いを絶対に守り、行うという阿弥陀さまの思い、ご決意であると受け取らなければならないとされました。

 阿弥陀さまもご修行時代には、人々を救うために修行をし、覚りを開かれることを目指しております。自分の建てる誓願に、お念仏による極楽往生が出来なければ、覚りを開かないというのはとても強い思い、ご決意であったと思います。そして、阿弥陀さまが覚りをお開きになっているということは、お念仏と称えれば、私たちが必ず極楽往生が出来ることの確証となるのです。

 皆様も、なにか目標を立てるとき、これが出来なければ○○しないなどという約束をすることがあるでしょうか。これは生半可な覚悟ではできないことと思います。

 阿弥陀さまの誓願、その思いとご決意に思いをはせながら、お念仏とお称えしていきましょう。

 

合掌

  今月は、極楽往生が出来た後のことについて、お話いたします。これは、先日、私が教化高等講習会に出席し、その講義を拝聴し、ぜひ檀信徒の皆様にもこのことをお伝えできたらと思ってのことであります。

法然上人がお生まれになられる前、比叡山に源信僧都(恵心僧都・横川僧都とも呼ばれていた)という大徳がおられました。天台浄土教の基礎を作られた方で、著作は多数見られます。法然上人も、特に『往生要集』という著作を読んだことが浄土門への道となったと語られております。
 その『往生要集』大文第二「欣求浄土門」に説示されるのが、浄土に往生した者が受ける十種の利得についてです。挙げていきますと以下のものとなります。
①聖衆来迎楽。臨終時に苦しみがなく、阿弥陀仏や観音・勢至菩薩が来迎して浄土に引接してくれる。
②蓮華初開楽。蓮華のつぼみの中に寄託して浄土に往生し、その蓮華が初めて開くとき、清浄の眼を得て浄土の荘厳を見ることができる。
③身相神通楽。三二の勝れた特質(三二相)を持つ身と天眼などの五種の神通力を得ることができる。
④五妙境界楽。浄土では、五感の対象となるものすべてが、清らかで勝れたこよなきものとなっている。
⑤快楽無退楽。浄土では、行者がもはや退転することなく楽を受けることができる。
⑥引接結縁楽。縁故のある人びとを浄土に迎えとることができる。
⑦聖衆俱会楽。多くの聖者たちと浄土で会うことができる。
⑧見仏聞法楽。仏を見ることや、仏の法を聞くことが容易にできる。
⑨随心供仏楽。心のままに自由に阿弥陀仏や十方の諸仏を供養することができる。
⑩増進仏道楽。浄土の勝れた環境によって自然に仏道を増進して、ついにはさとりを得ることができる。(Web版 新纂浄土宗大辞典より引用)

特に、私たちが注目すべきは、⑥引接結縁楽についてです。ここは、縁のあるご家族や親戚、友人などが現世での生活において、悪い境遇に陥らないように、日々善い行いに勤め、明るく幸せに過ごせるように助け、見守ってくれると読み取ることが出来ます。
つまり、私たちが大事な故人を供養し、お念仏をお称えすると、故人も極楽浄土から私たちを見守り、悪いことから遠ざけ、善い人生を送れるようにして下さるのです。そして、いまわの時には極楽浄土へ導いてくださるのです。
 極楽浄土へ往生したのちの生活はどうなのだろうなど、様々なことを皆様お考えになられると思います。共に学び、共にお念仏をお称え出来ていければありがたいと思い、今月の言葉といたします。
合掌