新年おめでとうございます。

昨今は、タイムパフォーマンス、コストパフォーマンスという言葉を略して、タイパやコスパという言葉が若者を中心に流行っているようです。できる限り時間を節約して、またお金を節約したいというのは悪いことではないと思います。しかし、総てをそれらの基準で考えてしまうのは良くないのかもしれません。

 

法然上人のご法語に

問う、本願の一念は、尋常の機、臨終の機に通ずべく候か・

答う、一念の願は、二念におよばざらん機のためなり。尋常の機に通ずべくは、上一形を尽くし、の釈あるべからず。この釈をもてこころうべし。かならず一念を仏の本願というべからず。一念十念の本願なれば、強ちにはげまずとも有りならんと云う人のあるは大いなるあやまり也。

【十二問答・昭法全636】

訳:お尋ねします。阿弥陀さまは「わずか一遍の念仏でも往生を叶える」と本願に誓われていますが、これは往生を願って常日頃からお念仏を称えている者(尋常の機)と、臨終を迎えてはじめてお念仏を称える者(臨終の機)とのいずれにも言えることなのでしょうか。

 お答えします。「わずか一遍のお念仏でも」と誓われた本願は、臨終が迫り、お念仏が二遍目に及ばないであろう者のために説かれたものです。常日頃からお念仏を称えている者にもそれがあてはまるというのであれば、「長くは一生涯をかけて」という解釈などあるはずもありません。この解釈のままに理解すべきであって、決して「お念仏をただ一遍称えることこそ阿弥陀さまの本願である」などと言ってはなりません。「わずか一遍や十遍のお念仏で往生を叶える」という阿弥陀さまの本願だからといって、「強いてお念仏を励まなくともかまわない」という人が言っているのははなはだしい誤りです。

【法然上人のご法語・対話篇 256P~】

 

 先日、息子を学童にお迎えにいきました。帰り支度をした息子が出てくるとき、たまたま、友達のお母さんがお迎えに来ました。すると、息子は○○君を待つと言い出しました。

 私は、もう帰り支度が済んでいるんだし、先に帰ろうよと言ったのですが、息子は待つの一点張りでした。そして、10分弱ほど、その友達の帰り支度を待ち、出てきたところで一緒に校門までの数分歩き、そこでバイバイとお別れしました。

 息子に聞くと、○○君と一緒に帰りたかったんだから、これで良いのだそうです。そこで、ハタッと気が付かされました。私も大人になり、時間がもったいない、タイパを知らず知らずの内に考えていたのでしょう。10分待ってもその友達を一緒に帰りたい、数分でもいいから一緒に歩いてお別れしたいという息子の思いこそ、友達を思う大事な心なのではないでしょうか。

 

 今月の法然上人のお言葉は、お念仏の多い少ないについてです。阿弥陀様の本願には、一念でも極楽往生させると記されています。たった一遍で往生できるなら、タイパ・コスパは最高ですね。当時の一部の僧、人々もそこだけを見て、一遍のお念仏だけで十分で、それ以上称えても意味がないという人さえいました。

 しかし、法然上人は、それは臨終の時までお念仏の教えを知らず、一遍しか称えることが出来なかった人さえ、救うという阿弥陀様の慈悲の心を表したのであると諭されました。そして、お念仏を知り、極楽往生を願うのならば、毎日毎日、一生涯に渡りお称えするべきなのだと示されました。

 

 社会の変化は激しく、タイパ・コスパを考えてしまうのも仕方がない部分もあるとか思いまう。しかし、息子の友達を思う心と同様、ご自身の極楽往生とご先祖様へのご供養のためのお念仏は、タイパ・コスパを考えず、自分の心の大切な部分に問い、行うべきではないでしょうか。

合掌

 

 法然上人の御生涯⑨です。上人のご生涯を追ってまいりました。今月が最後となり、上人のご往生のお話でございます。

 

本文:

法然上人は病気で食欲がなかったが、建暦二年(一二一二)正月二日より、それがさらに進んできた。大体、この三、四年以来、耳目が衰えて、物を見られ、音を聞かれることがともに明瞭でなかった。ところが今、重篤の時が近づき、かえって聴覚と視覚が昔と変わらないほど鋭くなった。それを見る人は心から喜び不思議に思った。二日以後は、上人はまったく余言を交えず、ひとえに往生に関することばかりをお話になり、大きな声で念仏を絶やさず、睡眠の時にも口はたえず動いていた。

中略 また法蓮房信空が「古来の高徳の僧にはみな遺跡が残されております。それなのに上人は寺院を一つもお建てになっておりません。ご入滅の後はどこをもってご遺跡とすべきでありましょうか」と申し上げた。上人は「遺跡を一ヵ所の堂塔に定めてしまえば、私がこの世に残す教法は広まらない。私の遺跡は諸国に満ちあふれているはずだ。だから念仏を修する所は、身分の上下を問わず、漁師の粗末な小屋までもが私の遺跡となるのだ」とおっしゃった。

中略 二十五日の午前十一時頃からは、上人の念仏の声は次第にかすかになり、大きな声の念仏が時々交るという程度であった。今まさに臨終となられた時、慈覚大師円仁から相伝の九条の袈裟をかけて、頭を北に顔を西に向け、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨(阿弥陀仏の光明は遍くすべての世界を照らし、念仏の人びとを救いとって捨てることはない)」という経文を唱えて、眠るように息絶えられた。声がしなくなった後も、なお唇や舌を動かされること十余回ほどであった。顔の色はことに鮮やかで、容貌は笑っておられるように見えた。時に建暦二年(一二一二)正月二十五日の正午であった。

 年齢はちょうど八十歳になっておられた。釈尊のご入滅の年齢と同じである。

【現代語訳 法然上人行状絵図 399~】

 

 法然上人のご生涯、その最後の時について見てまいります。西暦1212年正月、その数年前から老衰により、目が見にくく、耳も聞きにくくなっており、食事ものどを通らないことが多くなってきておりました。しかし、この正月から、若い時にようになられ、お念仏に一層励まれるようになりました。

 そして、弟子の信空が、上人のご遺跡をどちらに定めたらよいかと尋ねます。上人は、遺跡を一ヵ所に定めては、お念仏の教えが広まらない。お念仏をお称えする人々がいるところ、すべてが私の遺跡であるとの言葉を残されます。

 正月25日には、そのお念仏の声も次第に小さくなり、光明摂取の経文を称え、正午にご往生されました。年齢はちょうど80歳で、お釈迦様と同じ年齢でありました。

 

 先月の立教開宗から、法然上人はその生涯を念仏弘通のために捧げられました。身分の上下や学のあるなし、そういったもの区別ではなく、お念仏とお称えするという一点だけで極楽往生できるという教えを、多くの民衆に広めたい。多くの人々の救いの道となってもらいたいという願いを持ってのご生涯でした。

 これはもちろん、初めの回でお話した、お父様の討ち死にとご遺言、お母様の仏の道に救いを求めよという教示があったことは言うまでもありません。しかし、日本最大の総合大学であった比叡山での修行、一切経を何遍も繰り返し読み、だれでもが救われる道を探し求められた上人の強い意志のなせることであったとも思います。

 現在、私たちがお念仏の教えに触れ、だれでも極楽往生を目指せるのは法然上人がおられたからこそなのです。南無阿弥陀仏というお念仏を大事にし、毎日の日課になるようぜひお励みください。

合掌

 法然上人の御生涯⑧です。いよいよ、法然上人が浄土宗を開く時のお話です。

 

本文:

中略 上人はなお迷いの世界から離れる方法に思い悩み、身も心も落ち着かず、この次に生まれ変わる時に、迷いの世界から離れるための大切な方法を見出すため、一切経を五回も読まれた。

 上人は、釈尊が生涯に説かれた教えについて、よくよく思案されたところ、あれも難しくこれも難しいと思われた。ところが恵心僧都源信の『往生要集』は、もっぱら善導和尚の注釈を指導の書としている。そこで直接それを読まれたところ、その注釈(『観経疏』)には、心が散り乱れる凡夫が称名の行によって、次に生まれ変わる時には浄土に往生できると断定してあり、凡夫が迷いの世界から離れることを、いとも簡単に勧められている。一切経をご覧のたびに、これを見ておられたが、特に注意して読まれること三度、ついに「一心専念 弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故(一心にもっぱら阿弥陀仏の名号を称えて、いついかなることをしていても、時間の長短に関わらず、常に称え続けてやめないこと、これを正定の業というのである。それは、阿弥陀仏の本願の意趣に適っているからである)」という一節に至って、末法の世に生きる凡夫は阿弥陀仏の名号を称えれば、この仏の本願に乗って、間違いなく往生できるはずだという道理を確信された。このようなわけで、承安五年(一一七五)の春、上人四十三歳の時、すぐさま諸行を捨てて、一筋に念仏の教えに帰依されたのであった。

【現代語訳 法然上人行状絵図 77~】

 

 法然上人は、比叡山や京、南都の学僧を訪ねたりもし、当時の仏教の教えを深く学び、理解されました。天台宗の教えでなく、法相宗や三論宗の教えにも通じ、その高徳たちは法然上人の広い知識と深い理解をほめたたえておりました。

 しかし、法然上人はこの迷いの世界から離れるための方法に思い悩んでおられました。末法という正しい覚りを開くことが難しいといわれる時代であり、六道輪廻をしてしまえば、再び仏の教えに出会うことも難しくなってしまいます。また、多くの人びと、民衆でも救われる教えはないのかを考えられ、一切経を五回読み返されました。なお、一切経いうのは、日本に伝わっていた仏教の経典等の全てのことです。

 その中で、お釈迦様の教えを深く読み込まれても、どれも難しい行であると感じました。ある時、恵心僧都の『往生要集』に目が留まりました。そして、それは中国善導大師のお教え『観経疏』を指導書として書かれているものでした。上人は善導大師の『観経疏』を改めて三度読み返されました。

 そしてついに、『一心専念の文』といいますが、凡夫でも阿弥陀仏のお名前を称えれば、阿弥陀仏の本願によって、間違いなく往生できるという教え、道理にたどり着いたのです。

承安五年、法然上人四十三歳、比叡山に登ってから二十八年の年月が過ぎていました。その後、この教えこそが多くに人々が救われる、迷いの世界から抜け出すことが出来る教えであると浄土宗を開宗され、お念仏の布教につとめていかれるのでございます。

合掌