皆様は、奈良の東大寺、大仏をご覧になられたことはあるでしょうか。

今月は、法然上人と東大寺大仏の再建に尽力した俊乗房重源についてお話します。

 

本文:

 治承四年(一一八〇)十二月二十八日、本三位中将の平重衡卿が、父である太政大臣平清盛の言いつけによって、奈良の都を攻めた時、東大寺に火を放ったので、大伽藍がまたたく間に焼け失せてしまった。(中略)

 消失した東大寺を再建するための大勧進職を選ぶ評議があり、法然上人が選ばれることになった。そこで後白河法皇のご意向で、右大弁藤原行隆朝臣が上人に大勧進職につくようにというお使いにたった。

 上人が申されたことには、「私が比叡山の僧衆との付き合いから遠ざかって、吉水の木立や泉水の中でひっそりと暮らしておりますことは、静かに仏の道を修行し、ひたすら念仏を勤めるためです。大勧進職についたならば、忙しいさまざまな事務が多くなり、かねてからの志に全くそわないことになります」と述べて、堅くお断りになった。(中略)

 そこで上人は醍醐寺の俊乗房重源を推挙なさった。結局、重源が大勧進職に任命された。

 俊乗房は伊勢大神宮にお参りして、「この願いが、もし成就するのであれば、その瑞相をお示し下さい」と祈願したところ、二十一日目の明け方、うとうと眠っている時の夢に、中国風の衣装をまとった貴婦人が、一寸(約三センチ)四方ほどの玉をお授けになったという夢が覚めると、その玉が現実に袖の上にあった。重源はこの球を手に入れて、ダイヘン喜んで珍しい宝として秘蔵した。

 その後、東大寺造営に関することが日本中に反響し、それに応じてその費用となる金や物が思い通りに集まったので、それほど日を経ずして、金銅の本尊(毘盧遮那仏)を、もとのように美しく装い造り上げ奉った。このとき、平重衡卿が法然上人に差し上げた鏡を、大仏との結縁のために送ってお与えになったので、それを大仏を鋳造する炉の中に入れたところ、鏡が中から飛び出してとうとう溶け合わなかった。だれもが不思議なことだと話し合った。大仏殿の正面の柱に打ち付けてあるのは、その鏡なのである。

【現代語訳 法然上人行状絵図 332】

 

 さて、現在の東大寺大仏殿は、三代目です。初代のものは、平重衡により焼失しました。二代目のものも、戦国時代に三好と松永らの軍勢により半壊し、その後倒壊しました。重源が再建したのは、二代目の大仏殿です。そのため、重衡の鏡も現在の大仏殿にはありません。

 当初、大仏殿の再建の総責任者に任じられようとしていたのは、法然上人であったということは初耳の方が多いと思います。しかし、法然上人は比叡山から降り、静かに暮らしているのは、念仏を称えるためであり、その意にそぐわないと固辞します。そして、重源を推挙するのです。

 重源は見事に大仏殿の再建を成し遂げ、平安鎌倉へと続いた戦乱の世を鎮め、人びとの求める仏教の教えを示しました。さて、この後、法然上人と重源のお話はまだ少しありますが、それは次月にお話いたします。

合掌

 今月は、熊谷直実の「ご往生」についてお話ししていきます。

 

本文:

 建永二年(一二〇六年)八月に、「蓮生は、明年二月八日に極楽往生いたします。私の申すことに万一疑いのある人はやって来て見るがよい」ということを記して、郷里の武蔵国の村岡の市中に高札を建てさせた。(中略)多くに人々が目を見張っていると、少しして念仏をやめ、目を開けて、「今日の往生は、日を延ばすことにしました。この次の九月四日には間違いなく往生の本望を遂げましょう。みな様またその日においでになるがよろしいでしょう」と申したので、群がり集まった人々は嘲笑して帰った。(中略)

 四日の午前四時ごろ湯浴みして身を清め、だんだんと臨終の支度を整えた。たくさんの人が再び集まることは、にぎやかな市のようであった。はや午前十時ころになると、法然上人が秘蔵していたもので、蓮生が京都から武蔵国へ下向する時にお与えになった、阿弥陀来迎の三尊及び、たくさんの化仏や菩薩の姿を一幅の図絵にしたものをおかけ申し上げて、姿勢を正して座り、合掌して、大きな声で念仏を盛んに称えていたが、その念仏とともに息が絶えた時、口から光明を放った。その長さは五、六寸(訳一五から一八センチ)ほどあった。空には紫雲が盛んにたなびき、音楽がほのかに聞こえ、すばらしい香りが芳しく漂い、大地も震え動いた。不思議な瑞相が続々と連なって、五日の午前六時ころまで続いた。(中略)

 蓮生の往生に現れた霊異が、この上なく実に稀なことであったので、蓮生は、本当に上品上生の往生を遂げたことは間違いないと、人びとは話し合ったことである。

【現代語訳 法然上人行状絵図 299】

 

 蓮生(直実公)のご往生のお話をあげさせていただきました。坂東武者でありましたが、その後、お念仏の教えに出会い、一心にお念仏とお称えし、そのご往生を迎えました。

 高札を建てて、人びとを集めてしまうのは、いささかパフォーマンスが過ぎるようにも感じます。しかし、お念仏により極楽往生できるのだというのを、京都から遠い関東の地で示すためにも、自身の往生を見せることが大事だと考えられたのかもしれません。

 一度は日を改めたものの、九月四日には身を清め、場を整え、お念仏を高らかにお称えしながら、息を引き取り、ご往生をされました。その時には、阿弥陀様たちがお迎えに来られ、様々な瑞相が起こり、人びとは蓮生が本当に往生されたのだというのを深く感じ、お念仏のありがたさを心に刻んだことでしょう。

 法然上人からお念仏の教えをいただき、遠い関東の地へその教えを広め、自らお念仏の実践者として人々にそのお姿を示されたことは大変すばらしいことでした。『坂東一の武者』が、『坂東一の念仏者』となり、極楽往生されました。埼玉に住む私たちも、蓮生(直実公)のお姿を見習い、お念仏に励んでいきましょう。

合掌

 今月は、熊谷直実のエピソード「逆さ馬」をお話ししていきます。

 

本文:

 蓮生(れんせい・熊谷直実が名乗った僧としての名前)は、どのようなことをしていても、西方に背を向けるなという文を、深く信じたのであろうか、ほんのしばらくの間も西に背を向けなかったので、京都から関東へ下った時も、鞍を前後さかさまに置かせて、馬にも後ろ向きに乗って、馬の口を引かせたという。そうであるから蓮生は、

 浄土にも 剛の者とや 沙汰すらん 西に向かいて うしろ見せねば

 (浄土においても信心頑固な者と噂されていることであろう。西に向かって決して後ろを見せないので)

という和歌を作った。法然上人も、信心堅固な念仏行者の例として、いつもお思い出しなされて、坂東の阿弥陀仏だとおっしゃった。

【現代語訳 法然上人行状絵図 294】

 

 坂東武者として、名声を得ていた熊谷直実公でありましたが、世の無常を嘆き、法然上人にであったことで刀を捨て、お念仏に生きることとなります。法然上人のそばに仕えておりましたが、その後坂東・関東へ下向する時を迎えたときのことです。

 西方は、阿弥陀如来の極楽浄土があり、西に背を向けることは阿弥陀さまに不敬であるという文がありました。それを深く信じたのか、一瞬でも西に背を向けるのを避けるようになりました。

 関東へ向かう馬に乗るときも、鞍を前後さかさまに付け、後ろ向きに乗って、つまり自分は西を向きながら、馬を東へ向かわせたのです。そして、信心堅固な自分のようなものは、極楽浄土でも噂になっているだろうというお歌も作りました。

 この辺りは、名声を大事にした武者としての見栄をはっているようにも感じます。しかし、法然上人は、信心堅固な念仏者として、「坂東の阿弥陀仏」とおっしゃっていたように、阿弥陀様を深く信じ、常にお念仏をお称えしておりました。

 私たちが、西に背を向けずに生活することはとても困難ですので、まねをしなくても大丈夫です。しかし、西方・西の極楽浄土から阿弥陀様、ご先祖様が毎日私たちを見守って下さるということは常に心に持ち、感謝してお念仏をお称えすることはとても大事なことです。

合掌