今月は、極楽往生が必ずなされるということとの五つの証明について見ていきたいと思います。

 

法然上人の御法語に

五つの決定を以て往生すと云う事。

一つには弥陀本願決定なり、二つには釈迦所説決定なり、三つには諸仏証誠決定なり、四つには善導教釈決定なり、五つには我等信心決定なり。此の義を以ての故に往生決定なり。

【三心料簡および御法語・昭法全452】

 

訳:五つのゆるぎない事実によって往生する、ということについて。

 一つには阿弥陀さまが凡夫を救おうと誓われた本願が成就されているという事実、二つにはお釈迦さまが説かれた教えが真実であるという事実、三つには阿弥陀さまの本願をあらゆる仏さまが証明されているという事実、四つには善導大師のご解釈が正しいという事実、五つには私たちの信心が確固たること。これが五つの事実によって往生は定まるのです。

【法然上人のご法語② 法語類編 132P 浄土宗出版局】

 

 法然上人は、五つの事実、証明によって、極楽往生が間違いないと説かれました。一つには、阿弥陀さまが人々を救おうと誓われた本願が成就しているということ。二つには、お釈迦さまが説かれた教えであり、その教えは真実であること。三つには、阿弥陀さまの本願をあらゆる仏が正しいと証明していること。四つには、中国の善導大師の解釈、阿弥陀さまの教えを正しく理解され、後世に残されていること。五つには、私たちの信じる心、お念仏を称え、必ず極楽浄土へ往生するのだという確固たる思いがあること。

 これらの五つの事実、証明をもって、極楽往生というのは間違いがないとされたのです。私たちは、日々の生活の中で確固たる自信、確信をもって、お念仏をお称えしていきたいものです。先に極楽往生されたご先祖様も、皆様がお念仏を称え、日々の生活を明るく、正しく過ごすことを祈り、見守ってくれます。

 

合掌

 今月は、阿弥陀様の救い、極楽往生というのが、身分などによらないのかについて、法然上人のご法語を見ていきたいと思います。

 

法然上人の御法語に

自身の罪悪をうたがいて往生を不定に思わんは、大きなるあやまりなり。さればとて、不思議なる道理を心えんがためなり。されば念仏往生の義を、ふかくもかたくも申さん人は、つやつや本願の義をしらざる人と心うべし。源空が身も検校別当どもが位にてぞ往生はせんずる、もとの法然房にては往生はえせじ。さればとしごろならいあつめたる智慧は往生のためには要にもたつべからず。されどもならいたりしかいには、かくのごとくしりたればはかりなき事なり。

【禅勝房伝説の詞・昭法全462】

 

訳:自分の犯してきた罪悪を懸念して、往生は叶わないだろうと思うのは大きな間違いです。だからといって、投げやりになって悪く振る舞ってよいというわけではありません。(なぜなら、自らを見据えることで)阿弥陀さまの本願という救いの手は誠に広く、そして(こんな私さえも救って下さる)不思議な道理であることに目覚めるからなのです。ですから、念仏往生の教えを奥深くて難解なものであると説く人は、まったく本願の真意を知らない人とお心得なさい。

(そうした人たちに言わせれば)検校や別当という高い位についてこそ往生は叶うのであって、この源空の身も、ただの法然房という一介の僧では往生できないということになります。(本願に救われるの)ですから、長年学び積んできた智慧とて往生のためには何の役にも立ちません。しかし、学んできた結果、このように気付いたならば、並々ならぬことです。

【法然上人のご法語② 法語類編 121P 浄土宗出版局】

 

 この世で生きていくことは大変なことです。時に間違いをしてしまうこともあるでしょう。だからと言って、極楽往生が叶わないと思うのは大きな間違いです。だからといって、投げやりとなり、悪く振る舞い、間違いを重ねるのも良くありませんと、法然上人はお説きになられます。そして、自身を省みてこそ、阿弥陀さまの本願という救いの手が大きく、その不思議な道理に気が付くことができるのですとします。

 当時から、お念仏の教えは簡単で、学や位の低い人のためのものであるという人がいました。しかし、その人たちは、阿弥陀さまの本願の真意、思いを知らない人だとされます。

 もし、身分の高い人しか往生できないのであれば、一介の僧である法然、私も往生できないことになるだろう。長年、仏法を学んできた智慧にしても、極楽往生のためには直接的には何の役にも立たないのです。しかし、仏法を学ぶことにより、お念仏が阿弥陀さまの本願であり、お念仏こそが極楽往生のために一番の大事であると気づいたのであれば、素晴らしいことですとお説きになられました。

 

 現代を生きる私たちも間違いをしてしまうことがあるでしょう。しかし、そのことを省みて、少罪でもしないようにしようと努めれば、極楽往生に障りはありません。

 また、身分や学についても、極楽往生においては関係ありません。ただ、お念仏をお称えし、阿弥陀さまを頼り、極楽往生を願うことが大事なのです。しかし、だからといって、仏法を学ぶことがまったく意味がないというわけではありません。学んだからこそ、阿弥陀さまの教え、お誓いが素晴らしいものだと気づき、よりお念仏に励むことが出来るのであれば、それもすばらしいことなのです。

 このブログもそうですが、各寺の門前の掲示板、本堂などにおかれている冊子など、阿弥陀さまの教えを記したものがございます。また、各和尚さんの法話などもあると思います。ぜひ、ご自身のお念仏の励みとなるものと捉え、ご活用いただければと思います。

 

合掌

 今月は、私たちを極楽往生に導いて下さる阿弥陀仏の思い、ご決意について見ていきたいと思います。

 

法然上人の御法語に

いかなる弥陀か十念の悲願をおこして十方の衆生を摂取し給う、いかなるわれらか六字の名号をとなえて、三輩の往生をとげざらん。永劫の修行はこれたれがためぞ、功を未来の衆生にゆずりたもう。超世の悲願は又なんの料ぞ、心ざしを末法のわれらに送り給う。われらもし往生をとぐべからずば、ほとけ、あに正覚をなり給うべしや。仏若し正覚を成り給わずば、われら又往生をとげまじや。われらが往生はほとけの正覚により、ほとけの正覚はわれらが往生による、若不生者のちかいこれをもってしり、不取正覚のことばかぎりあるをや。

【登山状・昭法全432】

 

訳:わずか十遍であってもお念仏を称えたならばあらゆる世界の衆生を極楽に往生させようと、慈悲深い願を誓われた阿弥陀さまとは、どのようなお方なのでしょうか。南無阿弥陀仏という六字のお名号を称え、三輩往生を遂げる私たちとは、いったいどういう者なのでしょうか。阿弥陀さまのはかり知れないほどの永い修行は誰のためかといえば、その功徳を遠い未来の衆生に譲り与えて下さっているのです。あらゆる仏さまにもまして慈悲深い誓願はなぜかといえば、その志を末法に生きる私たちに向けて下さっているのです。

 私たちの往生が叶わないというのであれば、阿弥陀さまは覚りを開かれたというのでしょうか。もし阿弥陀さまが覚りを開かれていないというのであれば、どうして私たちの往生が叶うというのでしょうか。私たちの往生が叶うのは阿弥陀さまが覚られたからであり、阿弥陀さまが覚られたのは、私たちの往生を叶えて下さるからなのです。「もし往生できなければ」という一節はこのように理解せねばならず、「決して仏とはならない」と誓われたお言葉に、いかなる限定があるというのでしょうか。(いや、あろうはずもありません)。

【法然上人のご法語② 法語類編 115P 浄土宗出版局】

 

 阿弥陀さまがお覚りを開かれた時、四十八の誓願をお建てになられました。その中に、南無阿弥陀仏とお称えし、私たち衆生が極楽往生できなければ、お覚りを開かないというものがあります。今回は、その誓願を受けてのお話となります。

 法然上人は、阿弥陀さまが遠い末法という時代(平安末期から現在、未来までの世界のこと)の人々のために、この誓願をお建てになられたことを説かれています。そして、阿弥陀さまがお覚りを開かれているからこそ、私たちの極楽往生が叶うのであり、誓願にある「覚りを開かない」というのは、誓いを絶対に守り、行うという阿弥陀さまの思い、ご決意であると受け取らなければならないとされました。

 阿弥陀さまもご修行時代には、人々を救うために修行をし、覚りを開かれることを目指しております。自分の建てる誓願に、お念仏による極楽往生が出来なければ、覚りを開かないというのはとても強い思い、ご決意であったと思います。そして、阿弥陀さまが覚りをお開きになっているということは、お念仏と称えれば、私たちが必ず極楽往生が出来ることの確証となるのです。

 皆様も、なにか目標を立てるとき、これが出来なければ○○しないなどという約束をすることがあるでしょうか。これは生半可な覚悟ではできないことと思います。

 阿弥陀さまの誓願、その思いとご決意に思いをはせながら、お念仏とお称えしていきましょう。

 

合掌