今月は、極楽往生が出来た後のことについて、お話いたします。これは、先日、私が教化高等講習会に出席し、その講義を拝聴し、ぜひ檀信徒の皆様にもこのことをお伝えできたらと思ってのことであります。

法然上人がお生まれになられる前、比叡山に源信僧都(恵心僧都・横川僧都とも呼ばれていた)という大徳がおられました。天台浄土教の基礎を作られた方で、著作は多数見られます。法然上人も、特に『往生要集』という著作を読んだことが浄土門への道となったと語られております。
 その『往生要集』大文第二「欣求浄土門」に説示されるのが、浄土に往生した者が受ける十種の利得についてです。挙げていきますと以下のものとなります。
①聖衆来迎楽。臨終時に苦しみがなく、阿弥陀仏や観音・勢至菩薩が来迎して浄土に引接してくれる。
②蓮華初開楽。蓮華のつぼみの中に寄託して浄土に往生し、その蓮華が初めて開くとき、清浄の眼を得て浄土の荘厳を見ることができる。
③身相神通楽。三二の勝れた特質(三二相)を持つ身と天眼などの五種の神通力を得ることができる。
④五妙境界楽。浄土では、五感の対象となるものすべてが、清らかで勝れたこよなきものとなっている。
⑤快楽無退楽。浄土では、行者がもはや退転することなく楽を受けることができる。
⑥引接結縁楽。縁故のある人びとを浄土に迎えとることができる。
⑦聖衆俱会楽。多くの聖者たちと浄土で会うことができる。
⑧見仏聞法楽。仏を見ることや、仏の法を聞くことが容易にできる。
⑨随心供仏楽。心のままに自由に阿弥陀仏や十方の諸仏を供養することができる。
⑩増進仏道楽。浄土の勝れた環境によって自然に仏道を増進して、ついにはさとりを得ることができる。(Web版 新纂浄土宗大辞典より引用)

特に、私たちが注目すべきは、⑥引接結縁楽についてです。ここは、縁のあるご家族や親戚、友人などが現世での生活において、悪い境遇に陥らないように、日々善い行いに勤め、明るく幸せに過ごせるように助け、見守ってくれると読み取ることが出来ます。
つまり、私たちが大事な故人を供養し、お念仏をお称えすると、故人も極楽浄土から私たちを見守り、悪いことから遠ざけ、善い人生を送れるようにして下さるのです。そして、いまわの時には極楽浄土へ導いてくださるのです。
 極楽浄土へ往生したのちの生活はどうなのだろうなど、様々なことを皆様お考えになられると思います。共に学び、共にお念仏をお称え出来ていければありがたいと思い、今月の言葉といたします。
合掌

 今月は、お念仏、阿弥陀様の教えがどのような人々を対象にしているのか。迷いやすいこの世でも、私たちは救いとっていただけるのか見ていきたいと思います。

 

法然上人の御法語に

念仏の行は、もとより有智無智にかぎらず、弥陀のむかし誓いたまいし本願も、あまねく一切衆生のためなり。無智のためには念仏を願じ、有智のためには余のふかき行を願じたまえる事なし。十方衆生のために、ひろく有智無智、有罪無罪、善人悪人、持戒破戒、貴きも賤も、男も女も、もしは仏在世、もしは、仏滅後の近来の衆生、もしは釈迦の末法万年ののち、三宝みなうせての時の衆生まで、みなこもりたるなり。

【津戸三郎へつかはす御返事(九月十八日付)・昭法全501】

 

訳:そもそもお念仏の行は、智恵のあるなしにかかわるものではありません。阿弥陀さまがその昔、法蔵菩薩でとしてご修行されていた時にすべての人々をもれなく救おうとして誓われた本願の行です。ですから、智恵のない人のためにお念仏を本願の行とされ、智恵のある人のために他の深遠な行を本願とされたわけではありません。すべての人々のためであり、それには幅広く、智恵のある人もない人も、罪のある人もない人も、身分の高い人も低い人も、男性も女性も、お釈迦さまがいらっしゃった時代の人も、入滅された後の人も、さらには末法の時代が過ぎて仏法僧の三宝がみな滅んでしまうであろう時代の人々も、すべてが含まれるのです。

【法然上人のご法語① 消息編 50P 浄土宗出版局】

 

 法然上人が、津戸三郎為守という熱心な念仏者へ宛てた文章の一節です。南無阿弥陀仏とお称えし、極楽往生を願うお念仏は、智恵の有る無しは関係ありませんと説いています。

 そして、阿弥陀様が、如来になられる前、法蔵菩薩として修行されてきたときのことをお話になられました。法蔵菩薩は、四十八の誓願を建てられるわけですが、お念仏を本願(一番の願い)として、智恵のあるなし、罪のあるなし、位の上下、男性か女性か、その時代にお釈迦様がいらっしゃったときかいらっしゃらないときか、こういった区別を一切せず、すべての人々、極楽往生を願い、お念仏を称える人を救おうとされました。

 もちろん、これは阿弥陀様の大慈悲、長いご修行の末、如来となられたことによります。私たちは、極楽往生させていただける、阿弥陀様に救っていただけるということに感謝し、その本願であるお念仏をお称えしているのです。どうぞ、心穏やかに、お念仏をお称えいただけますようお願いいたします。

合掌

 新年おめでとうございます。

昨今は、タイムパフォーマンス、コストパフォーマンスという言葉を略して、タイパやコスパという言葉が若者を中心に流行っているようです。できる限り時間を節約して、またお金を節約したいというのは悪いことではないと思います。しかし、総てをそれらの基準で考えてしまうのは良くないのかもしれません。

 

法然上人のご法語に

問う、本願の一念は、尋常の機、臨終の機に通ずべく候か・

答う、一念の願は、二念におよばざらん機のためなり。尋常の機に通ずべくは、上一形を尽くし、の釈あるべからず。この釈をもてこころうべし。かならず一念を仏の本願というべからず。一念十念の本願なれば、強ちにはげまずとも有りならんと云う人のあるは大いなるあやまり也。

【十二問答・昭法全636】

訳:お尋ねします。阿弥陀さまは「わずか一遍の念仏でも往生を叶える」と本願に誓われていますが、これは往生を願って常日頃からお念仏を称えている者(尋常の機)と、臨終を迎えてはじめてお念仏を称える者(臨終の機)とのいずれにも言えることなのでしょうか。

 お答えします。「わずか一遍のお念仏でも」と誓われた本願は、臨終が迫り、お念仏が二遍目に及ばないであろう者のために説かれたものです。常日頃からお念仏を称えている者にもそれがあてはまるというのであれば、「長くは一生涯をかけて」という解釈などあるはずもありません。この解釈のままに理解すべきであって、決して「お念仏をただ一遍称えることこそ阿弥陀さまの本願である」などと言ってはなりません。「わずか一遍や十遍のお念仏で往生を叶える」という阿弥陀さまの本願だからといって、「強いてお念仏を励まなくともかまわない」という人が言っているのははなはだしい誤りです。

【法然上人のご法語・対話篇 256P~】

 

 先日、息子を学童にお迎えにいきました。帰り支度をした息子が出てくるとき、たまたま、友達のお母さんがお迎えに来ました。すると、息子は○○君を待つと言い出しました。

 私は、もう帰り支度が済んでいるんだし、先に帰ろうよと言ったのですが、息子は待つの一点張りでした。そして、10分弱ほど、その友達の帰り支度を待ち、出てきたところで一緒に校門までの数分歩き、そこでバイバイとお別れしました。

 息子に聞くと、○○君と一緒に帰りたかったんだから、これで良いのだそうです。そこで、ハタッと気が付かされました。私も大人になり、時間がもったいない、タイパを知らず知らずの内に考えていたのでしょう。10分待ってもその友達を一緒に帰りたい、数分でもいいから一緒に歩いてお別れしたいという息子の思いこそ、友達を思う大事な心なのではないでしょうか。

 

 今月の法然上人のお言葉は、お念仏の多い少ないについてです。阿弥陀様の本願には、一念でも極楽往生させると記されています。たった一遍で往生できるなら、タイパ・コスパは最高ですね。当時の一部の僧、人々もそこだけを見て、一遍のお念仏だけで十分で、それ以上称えても意味がないという人さえいました。

 しかし、法然上人は、それは臨終の時までお念仏の教えを知らず、一遍しか称えることが出来なかった人さえ、救うという阿弥陀様の慈悲の心を表したのであると諭されました。そして、お念仏を知り、極楽往生を願うのならば、毎日毎日、一生涯に渡りお称えするべきなのだと示されました。

 

 社会の変化は激しく、タイパ・コスパを考えてしまうのも仕方がない部分もあるとか思いまう。しかし、息子の友達を思う心と同様、ご自身の極楽往生とご先祖様へのご供養のためのお念仏は、タイパ・コスパを考えず、自分の心の大切な部分に問い、行うべきではないでしょうか。

合掌