旅日記その5「おばあさん決死のハワイ旅行に行く」2010.5.25~ | ZORROのブログ

ZORROのブログ

旅や本の記録

 

 

 2010(平成22)年5月25日(火)の16時15分に、家を出た。いよいよ待ちにまった岡晴夫の「憧れのハワイ航路」ならぬ家のわが家の「夢のハワイ旅行」のときが来た。

 

退職記念旅行であると同時に、母の一生一度の決死の海外旅行の出発だ。足・ひざ痛による歩行困難な母をなんとか説得し、冗談ながら冥土の土産話しにと引っ張り出した。

世話になったJTBの伊藤さんを通して、両空港内およびホテルと現地において都合5日間すべて車椅子の手配をたのんだ。どこまで手配が現地まで届いているか少々の不安もあったが、滞在ホテルにJTBが付設されていたことも強い味方であった。


 さて、生桑車庫を17時10分発の中部セントレア空港行きのバスに乗り18時30分に渋滞もなく到着した。さあ空港だ。

JTBのカウンターで必要書類を受け取り、JALのカウンターに向かった。そして予定通りJALの車椅子に母を乗せたのはいいが、そこで心臓がひっくりかえるようなアクシデントが待っていようとは誰が予測したであろうか。

 

それは、アメリカ・カナダへ向けての、出国に際しては、あのアメリカテロ事件いらい「ESTA」と呼ばれる手続きを事前にしておかなければならない。

JTBのIさんの連絡通り、ネットで私が手続きを完了しておいた。ところが、このカウンターで「奥様のESTAが申請されていませんので、搭乗券を出せません。」と言われてしまった。

 

なんとなんとそんなバカな!。とは口に出さなかったが、「私がネットで3人分確かに申請し3人の受理を確認しています。念のためと思いそのコピーを持ってきました。」と言って渡した。

そこで、空港内の一般使用用のパソコンで係員の方に再度申請の打ちこみをしてもらったが、「申請済み」と表示されるばかりであった

係員がホノルル空港に連絡してもやっぱり登録されていない、とのこと。「ESTA」のほうにも確認連絡して登録状況を確認してもらうようにしたがこれも圧倒的な数にチェックされずに時間だけがむなしく息苦しく経過していった。

 

これがクリアーできなければ、3人で出発できない状況に、せっかく早く来てはじめてのビジネスクラスラウンジでゆっくりしようと思ったがとんでもないことになってしまった。
しかし、20時半ごろつまり空港に到着してから2時間経ったとき、電話のやり取りをしてくれていた係りの女性のにっこりと私たちに微笑んだ天使のような顔が見えた。

 

アッ!ひょっとしたら・・・と思ったら、その女性が小走りに来てくれて「向こうに強制的に許可を申請しました。O.Kです。」。

 

私がばたばたしては母が動揺してもとは思いじっと待っていたが、本当にアーッ 神様ありがとう。と叫びたかった。

しかし、それができるんならもっと早くしてくれてもよかったのに。と少々うらめしくも思った。やっと妻にも搭乗券が渡され3人続きの席も確保された

 

やっぱり飛行機の搭乗には、2時間前のチェックとはいえそれ以上の余裕を持ってちょうどだな、と実感したものだ。JALの空港勤務の人がやってきて、母の車椅子を押してビジネスクラスラウンジから機内の搭乗まで世話をしてくれるというのだ。ESTAのアクシデントがあったから特別のサービスかな、と思い世話になった。

 

ラウンジでやれやれの思いで無料のビールをのどに流し込んだときの嬉しかったことといったらこれ以上の喜びは今後きっと味わえないだろうと思うほどであった。


 ところが、ここにくるまでに今度は母が受難にあった。

出国所持検査の折、われわれは所持品を出しゲートのようなところをくぐり、「ビーッ」という音が出なければO.Kなのだが、母はと見れば、なんと車椅子のままで上着・靴は脱がされ、ボディーマッサージのごとくボディーチェックを受けていた。これには母もまいった、という表情であった。

ひとつひとつが母には初体験である。しかし、母の車椅子のおかげで全然並ばずに別ゲートからの手続きであっという間に出国検査・手続きは終わった。


 なにはともあれ、22時05分発JALウェイズ084便は、予定通りターミナルを離れ20時20分無事にセントレアの滑走路にさようならをした。

離陸するまでに初のビジネスシートにわいわいしていたら、すぐに清楚な顔立ちのアテンダントがあいさつにきてくれた。

「私は、このたびお世話をさせていただきますオーといいます。どうかよろしくお願いします。」

「オーさんは、どこの国の出身ですか」と聞いたら、そっと恥ずかしげに「タイです。」といってくれたので、タイには2度行きましたよ。って返事をしておいた。

 

オーさんには、何の意味もないんだろうが。まっ、いいか。

でもJALウェイズは、日航の子会社で勤務地の拠点は成田空港内にあるが、乗務員の訓練地はタイなんだそうだ。タイの人は、人当たりがやさしく乗務員として接客態度が非常にいいということで、タイのアテンダントを多く採用しタイで訓練しているということだそうだ。と帰ってからインターネットで見てみたら書いてあった。


 水平飛行に移ったら早速シャンパンが出た妻・母はジュースをもらったが。このシャンパンがうまかったこと。

やっぱり違うわ! さあ機内食だ23時30分ごろに準備が始まった。

 

何といってもビジネスクラスだまずびっくりしたことに、座席の横からテーブルがセットされ、しかも真っ白のテーブルクロスが敷かれた。

そして先程のオーさんが、「お飲み物は何にされますか?」ま、これはエコノミーでもあるわね。そこで、前もって配られていたメニューの飲み物をみてみると、あるワあるワ。

 

この際ビールなんてけちなものはパスだ。ワインはフランスって書いてあったので、フランスのどこの?って聞いたら、ブルゴーニュです。って言ってくれたから、じゃ赤をください。ってたのんだ。

どこのでもよかったんですよ。ただ聞いただけ。

前菜がこれまたおいしかったがワインがほどよく減ったころに、選んだ洋食が出てきた。母は、和食だ。

 

 

 

 

 

 

ま、洋食はだいたい決まった内容ですよね。和食を見てみるといろいろと工夫された品がぎっしりと詰められていた。

こりゃ、帰りは和食にしようっと思った。

 

次々にオーさんがやってきて、お飲み物のおかわりはいかがですか? とにっこりと言われ、焼酎はありますか? って言ったら、はいございます。何にされますか? と言われたので「芋はありますか?」と言ったら、はい「芋」ですね。ございます。

これが鹿児島産で「うまい」。思わず2杯目もたのんでしまった。


 もう、夜中の1時だ。早く寝ないと徹夜になってしまう。

リクライニングが十分にきくシートでうとうとと1時間ほどしただろうか。暗い機内に機長のアナウンスが流れた。「ただ今より気流が悪い状況が30分ほど続きます。少々揺れが続きますがご了承ください。なおシートベルトはしっかりとしてください。」 

意識が遠い中で、機体が縦にガタガタと揺れ続いた。大きな急降下はなかったが、なんとも気持ちのいいものではない。なま寝の状態が2時間ほどあったろうか、機内に明かりが灯された。幸いに先程までの揺れはおさまっていた。

 

3時半ごろ、朝食代わりの軽食が運ばれてきた。頭はぼーっとしていたがホットサンドイッチがオレンジジュースとともにおいしくお腹におさまった。

でも、ハワイの現地時間では朝の9時ごろだ。しかも昨日の。

 

ハワイの手前の太平洋のど真ん中を縦に日付変更線が通っている。日本からみて、左側の国ほどマイナスの時差が生じる。タイは確か2時間遅れだったと思う。

それがヨーロッパは8時間ほどとなり、大西洋をそしてアメリカ大陸を越えてハワイはなんと19時間遅れになるのだ。ほとんど1日遅れているようなものだ。25日という日を2度過ごすようなものだ。

 

予定通り、ハワイ時間のつまり5月25日の午前10時15分に、オアフ島ホノルル国際空港に無事着陸した。
 「最後にお出になってください。」とのアテンダントの言葉に、ま、そうやわね。と思いながら、3人がハッチへ出ると、そこにJALの職員が車椅子を持って待機しているではないか。

なんともありがたいことやら、JALの連絡徹底のすばらしさに感動した。それに職員の方が車椅子を押しながら一般とは別ゲートを入国審査等どんどん通って行くので、ここでもどこをどうして通ったことやらわけもわからず外に出た。

 

またなんとそこには、JTBの職員の方が「アロハ! はいNさんね。と言いながら、車椅子専用のバスに母を車椅子ごと運び込んでくれた。

同じような方が、他に4人見えた。だから、一般の人たちは入国手続きを終えてからどこへ行ったのやら。

しかしここは単に、JALの到着ゲートおよび入国審査の場所だけであり、ホノルル空港自体の出口ではまだなかったのだ。空港の全体像がわからないほど、4~5の航空会社単位での出入国ゲートがあるのだ。

 

本当の出口に出てやっとこのバスを降りて、ホテルまでのタクシーに乗せてもらった。こりゃ母がこの状態でなくて自分たちだけだと、一体全体どうやったらよかったのか逆に不安になった。

着いたホテルは「シェラトン ワイキキ リゾートホテル」だ。ワイキキのど真ん中にあり、すぐ前がもうホテルのプライベートビーチであった。

Yの字のように3方向に建物が広がり31階建てだ。周囲の建物に比べ大きさ・高さで一番目立っているのでどこからでも目に入る。

 

1階に付設されたJTBの案内所に行き、到着の連絡と母の車椅子の連絡を確認をした。

すると、こちらに滞在中はずっと車椅子を使ってください。とのことで、こちらでもJTBの連絡の確かさと組織力に感謝の気持ちでいっぱいになった。

また、その職員の方が自らホテルのチェックインをしてくれ、さらに部屋がもう使えるかを確認してくれてコネクティングルームまで案内してくれた。本当に、様々な方のお世話になってハワイまでこれたんだな、とあらためて思った。


 部屋は、「眺望指定なし」でたのんであったので海側ではなかったが、またハワイワイキキの象徴であるダイヤモンドヘッドもみえなかったが、左にビーチが正面から右側にかけて街の中心が見渡せたので、この方が地理的な把握もできてよかった。

 

 

予定では、昼食をとりに街へ出る予定だったが、3人ともとても食べる気にならず2時間ほど寝ようということになった。あっという間に寝込んだ。3時ごろから街を探索しようと出かけ、ガイドブックの地図を見ながら歩いた。

 

・÷・

 

一旦ホテルへ戻ると、ホテルのすぐ前にあるロイヤルハワイアンショッピンセンターの庭でハワイアン生演奏とともにフラダンスが見れ、いよいよハワイのムードが高まってきた。

今夜のオプションとしてたのんであった18時45分集合のディナーショーに再度街に出た。オハナ ワイキキビーチ コマーというホテルの2階にある会場で「マジック オブ ポリネシア」というショーだ。

 

なかなかの舞台と客席を持つ会場だった。前のほうに案内され、舞台がかえって見上げるような感じだった。このマジックは、マジック界のオスカーとも言われる「マーリン賞」を受賞したジョン・ヒロカワという日系3世が繰り広げる本格的なマジックショーだ。

そこにポリネシアンショーが組み込まれており、あっという間の素晴らしく楽しい1時間半だった。

 

ただ、食事は、がすがすのステーキとやや小ぶりのロブスターにハワイの芋を練ったものが出されたが、きめ細かい味覚を持つわれわれにはただ食べるというような作業であった。

 

ホテルに帰って9時半ごろになっていたでしょうか、長~いほぼ2日分の1日を終えて、慣れない風呂やシャワーを使って明日に備えた。しかし、ハワイに着いて思ったことの一つに、もう少し空気がさらっとしているかなとおもったが、さほどでもなく私の脂性の顔はいつも以上にねっちゃりとしていた。

そして、2日分近いせいでひげがざりざりによく伸びていた。母はとなりのといっても、まん中でドアーでつながっているのだが、大きなキングサイズのベッドの端っこにひとり寝ていた。こちらはツインベッドになっていた。

 

・・・・・

 

 ここで、ハワイについて少し述べておこう。

太平洋のほぼ真ん中に位置し、1959年にアメリカ50番目の州になり大小132の島から成っている。この諸島の中でも旅行者が訪れるいわゆる「ハワイ」は、次の6島からなる。

大きさの順に書くと、ハワイ島・マウイ島・オアフ島・カウアイ島・モロカイ島・ラナイ島である。中心はもちろんオアフ島であり、全体人口130万人中90万人が住む。ハワイ島は、4000m級の山々を持ち活発な火山活動は今も続いている。

 

・・・・・


 さてやっと2日目の朝だ。ベランダから見渡すと、街の背中には数百mぐらいの山が連なっており、その中腹にもたくさんの家々が密集しているのがよく見える。

昨日もそうだったが、いつもと思うがその山には雲が全体に覆っておりビーチに届くあたりから海にかけて真っ青な空になっている。

このことは、このあとに書くタクシーガイドの話から見えてくるのであとで。

 

朝食はホテル内の「吉家」という和食レストランに入った。あとで店の入り口にあるパンフレットによると、歌手の吉幾三がプロデュースしたと書いてあった。

値段も日本での予約で2800円だから当然といえば当然だが、一品づつがていねいに味付け調理されており、品数も夕食以上のものでまた焼き魚が油が乗っていておいしかった。もちろん米も日本のものだった。


 さあ観光めぐりだ。予約してあった観光タクシーが9時にホテルに迎えに来てくれていた。リンカーンのタウンカーだ。

やっぱり広いナ! 車椅子もトランクにすっぽりと入れてもらい出発だ。

ドライバーは、パトリックといい横浜出身だそうだ。くせのないきれいな日本語をはなしてくれた。今日は、ホテルからみて右側を巡る半日観光の「東海岸とラニカイ・ビーチコースだ。住宅地をぬけるとすぐダイヤモンドヘッドが視界いっぱいに広がってきた。

山肌には樹木も草もほとんど生えておらず、火山の噴火によってつくられた岩だらけの山だ。

 

山の裏側は、雲が山にあたって雨をふらすので木や草もよく生えるそうだ。上らずに中腹からの眺望だけで下った。カハラの住宅街に入ると、見事な邸宅が連なるエリアになる。

とにかく世界中の金持ちが、別荘をいくつも所有しているそうだ。

 しかも住んでいなくって、貸し別荘にしているそうだ。

それにしても、一軒6千万から何億円という価格らしい。

最近は、欧米人よりも日本人もいるが中国の富裕層が破格の値段で次々と購入していき、値段がますます高騰してきたという。

 

次に珊瑚礁の美しいビーチがあるハナウマ湾を上から展望し、そしてハロナの潮吹き岩穴をこれも上から見下ろした。

途中、相撲の曙や武蔵丸がこのオアフ島出身だということで、曙の銅像があるところも寄ってくれた。

 

最後に、「天国の海」という名の美しいラニカイ・ビーチに寄った。

なんと海の色のきれいなグラデーションだったことか。遠くの群青の濃い色からコバルトブルーそして浜辺のエメラルドグリーンまで、吸い込まれそうな海の広がりだ。

 

 

 

しかし、どこに行っても風が強く、やはり太平洋に囲まれているんだなと実感できた。もうひとつなるほどと思ったことは、道路にそって家々の前に、大きなごみ入れボックスが設置されていたことだ。

たぶん定期的に、市のごみ収集車が回収に巡回するのだろう。

世界のリゾート地であるが故の美観保存の方策なのだろう。

 

最後に、12時過ぎに昼食のためホテル近くの日本食レストランを紹介してもらい、「踊子」という店でパトリックとは別れた。ハワイに来て日本食ばかりのようだが、雑い現地の味わいよりやはりきめ細かい日本の味がおいしい。母はざるうどん、妻はざるそば、私は踊子定食にした。ほっと一息つけた。


 とりあえず近くのホテルに戻った。 今日は午後から夜まで自由時間にしてある。つまり、ここで土産を購入しようというわけだ。

部屋で一旦仮眠した。あっという間に1、2時間が過ぎており、母の「行こに」の声にびっくりしながら部屋を出た。

 

カラカウア大通りに面したワイキキショッピングセンター・ABCストアー・DFSギャラリアを巡り定番のチョコレートやキルトの小間物等を買い込んだ。

私は、アロハシャツを買った。しかし、店の人もなぜ男性用のアロハシャツは裏地を使うのか知らないそうだ。ホテルに戻り、夕食はまた「吉家」に行き、にぎりの寿司を注文した。

出るのに少し時間がかかったが、ねたはよくやっぱり寿司はうまいナ! 

長い昨日の一日と今日で結構疲れもあって、今夜は早めに寝ることにした。それでも10時ごろになったかな。さいわい母も無事元気にしていてくれる。

 

・・・

 

 


 3日目の朝がきた。昨日と同じ「吉家」に行き朝食をとった。昨日書き忘れたが、この「吉家」の朝は、レジカウンターで見た瞬間「アッ 浅田舞ちゃんヤ」と声が出そうになるくらいそっくりの美人女性がいる。

 

そんな話をしたら「ええ 言われます。」とのこと。そして、昨日と同じ9時から2回目の観光タクシーによる名所巡りに出発だ。今日のドライバーは、「アンソニーです。舌をかみそうになるのでトニーと呼んでください。出身は沖縄です。」と自己紹介してくれた。

 

今日のコースは、ホテルから左側へ向かうコースだ。まず、タンタラスの丘に上がった。ワイキキの街を背中から海にかけて一望する展望台だ。左にダイヤモンドヘッド、右にホノルル空港、泊まっているホテルもちょうどワイキキの真ん中に翼を広げたような建物がよく見えた。

 

次に国立記念墓地を車窓で見、「日立 世界不思議発見」でおなじみの大きな木を見にモアナルア・ガーデンに行った。まあ、テレビのまんまの大きな木です。

しかし、これ一本ではなくってあちこちにこの木があるんですヨ。それに手を入れなくてもだいたいこんな姿になるそうだ。

それにしても、広がった枝がよくぞ折れないものかと感心した。「アメリカもみの木」とトニーは教えてくれた。

 

あと太平洋戦争の火ぶたをきった真珠湾・パールハーバーの見学とハワイ王朝の面影を残すイオラニ宮殿、そしてその向かい側の市庁舎に立つ、1810年にハワイを統一したカメハメハ大王の像と回って昼食にした。トニーの案内や冗談にあきない3時間半だった。

 

「えぞ菊」というラーメン屋さんの前でおろしてもらい入った。U字型のカウンターも8席ほどのテーブルもほぼいっぱいに客が入っていた。やっぱり、昨日の「踊子」もこの「えぞ菊」もガイドブックに掲載されているだけのことはある。

そこで、母は中華丼、妻は、海鮮ラーメンとミニぎょうざ、私は味噌ラーメンとミニちゃーはん・ミニぎょうざをたのんだ。

 

しかし、おったまげたナ。

まず中華丼が出てきたが日本の倍はかるくある量だ。皿に山々と盛られていた。ラーメンは、まあ普通に近かったが、ミニちゃーはんはなにもミニではなく、これも日本の普通の量だった。

向こうの席に座っていた日本のおばちゃんのたのんだ焼きそばは、大きな横長の皿に盛りもりにあった。あのおばちゃんはその後大丈夫だったろうか。でも、本当においしい中華料理だった。客が入るのも当然だワ。

 

 最後のオプションである、サンセット・クルーズに出かける4時半まで2時間ほど部屋で休憩した。ホテル前の集合場所には、たくさんのこのクルーズに参加する客が集まっていた。どのバスに乗るのかJTBの係りの女性がきびきびと指示・応対していた。ところがここでもびっくり。バスは、ここで待っててください。

 

やってきたバスは、大きな扉が開かれたとおもったら内側からリフトがせり出し、降りてきた。なんとこれに母を車椅子ごと乗せ、固定してバス内に持ち上げてしまった。そして、床下に固定された。障害のある人でも、旅行ができるようさまざまな配慮がなされているんだなと、逆に日本の福祉関係の制度・設備等の貧弱さや遅れが気になった。


 さてサンセットクルーズだが、4階建ての「スター オブ ホノルル」号でワイキキに沿ってクルーズアンドディナーだ。しかし、食事はまたもロブスターにステーキそしてねり芋だ。

一日目の夜よりはそれぞれ多少はよかったが、大同小異だ。

 

でもテーブルについてくれたウェイトレスさんや踊り子さんやら、皆サービス精神ばりばりで本当によくやるなって感じだった。雲が多くて、オアフ島に沈む夕日がほんのちょっとしか見えなかったのが残念だったが、周りにいた韓国をはじめとする多くのアジアの新婚さんたちには関係なかったかナ。

 

 

 


 ホテルに着いて9時半~10時だ。急いで風呂に入り、明日の帰国に備えてスーツケースへの土産や衣類等の収容作業にとりかかった

。明日朝の8時半~9時半にスーツケースの回収に(空港まで運んでくれる)くるのだ。だから、朝はやっている時間はないので今夜中が勝負だ。たくさんのチョコレートやクッキーの箱が入るか心配だったが、どうにか2つのスーツケースに押し込むことができた。中で箱が少々形が変わってもいいだろう。

 

最後の夜も遅くなり、あっという間に眠りこけて目覚まし時計の音に起こされなければならなかった。今朝は、「カイ・マーケット」という洋食ビュッフェに朝食に行った。しかし、これは品数も種類も少なく、ちょっと待ってヤ! と言いたいほどだった。やっぱり「吉家」はよかったのだ。


 9時半の空港へのタクシーを予約してあったから、9時には部屋を出て(スーツケースは部屋にまだ回収されずにあったが)JTBの事務所に、車椅子の返却とお世話になったお礼に出かけ、タクシーの来るまで玄関で待っていた。

 

目の前を、次から次へとウェディングドレスの花嫁さんが花婿さんとともに、ど長いリムジンに乗って教会へと向かって行った。ほどなくタクシーがきて空港まですっとばしてくれた。

おかげで、シェラトンワイキキの荷物はまだ着いておらず、入り口で待った。ここでもスーツケースに付けられた車椅子マークのタグを見て、係りの日系のおじさんやおばさんがさっと荷物を持ち搭乗チェックを手伝ってくれ、免税店でちょっと買い物をしたが、あっというまにJALのラウンジでくつろぐことができた。


 定刻通り12時35分発JALウェイズ便は、あっという間の決死のハワイ旅行を終えようと中部国際空港に翼を向けオアフ島の地を蹴った。

帰りのお世話になったフライトアテンダントは、千葉の人だった。笑顔がとっても優しくって物腰の低い感じのする女性だった。

 

勤務のことや、家族のことを話していたからか、中部空港に到着して飛行機を降りようと搭乗ゲートまで出てきたら、この斉藤さんが、母にきれいな字で書かれたJALの絵葉書の手紙を渡してくれたのだ。母はたいへん感激し、帰ったら返事をぜひ書かなければ。と言いながらまだ書いていないようだが。


 3泊5日の最短でのハワイ旅行は、このようにしてときが過ぎていき終わった。よくぞ母ががんばって無事に過ごしてくれたものと感謝をし、この旅日記を閉じたいと思う。