『服』を語る その① | くじら、丸呑み。

くじら、丸呑み。

なんかいろいろ



我々は、全身羽毛で覆われているわけでもなく、ぬいぐるみのようにふわふわした生き物でもない。残念ながら。印象で言えば、どっちかと言うと毛の生えない猫、スフィンクスなんかの方が近いんじゃなかろうか。


そんなわけで、毎日我々はあちぃー、さみぃーと文句垂れながら着たり脱いだりを一生繰り返すわけである。(なんか、無駄な動きだなと書いてて思った。そういう意味ではヌーディストって一理あるとも言える)


現代社会の衛生概念においては、毎日同じものを着るわけにもいかず、更に時代によって『流行る』服が違い、ともすると『ださい』ということになるし、『性別らしさ』、『年相応』なる概念も存在し、『着る』というだけの行為を非常にややこしくしている。


それでも、みんななんとかやっていて、なんでもいい人はなんでもいい(着心地にこだわっているとも言えないか?と思った)、こだわる人はこだわる、お金をかける人はかける、『私には結局何が似合うの?!!』って迷子になる人は迷子になる、そんな有様で毎日『着る』をやってる人類なのである。


『良い服』という表現があるが、その『良い服』が万人にとっての『良い服』であるとは限らない。なにが『良い』のかによるわけで。着心地なのか、動きやすさなのか、生地の質なのか、通気性なのか、デザインなのか。


『高い服』も『安い服』もそれぞれ理由があって、(つまり、品質の追求とか、広告費の回収とか、ブランドバリューつまりステイタスってやつとか、低賃金、環境汚染、等々、大人の事情である。)そして選ぶ側の人もそれそれ事情があって(給料日前にいかに安く一式揃えるかの追求とか、ブランドバリューつまりステイタスってやつとか、ストレス発散とか、ここの服のしか体格に合わないんじゃワシは、等々)そのニーズによってその人にとっての『良い服』は違うということになる。


とりあえずなんでもいいからパッと必要なものを買おうというつもりで店に入ったはいいが、既製品というのは少々厄介で、いろんな人の体型の平均値に合わせて作っているわけで、全身タイツみたいな伸縮性のある生地でない限り、全ての部位がぴったり身体に合うっていうのはなかなか難しかったりする。身体に沿うように、スーツなんかはオーダーするよね。そもそも着物なんかは、ある程度丈とか調整して着ていたわけだしね。で、『あー、これかっこいいけどなんか自分が着ると不恰好だなーなんでかなー。』となる。そして、ここに『流行』という要素も入ってくる。お店は利益を取りたいので流行っているもの(みんなが買うもの)を沢山置く。そうなると、『おわー、こういうの、あんま好きじゃないんだよな〜。けどさっきの店も向こうの店も、どっちもこっちも似たようなのしかないやー。』ってなる。


だいたい、『流行ってる』ってなんだ?

『似合う』とか『おしゃれ』って、正解は誰が決めるんだ?


なんかその人のための服みたいなものが本来ありそうなんだけどなーとも思う。


でもそんなこと言い出すと洋服の森で迷子になって洋服の妖精がやってきて、『ほう、したらあんた、もう制服でええやん?なんたらジョブズっておったやん。毎朝服を選ぶ時間もったいない言うてな、おーんなじ服何枚か買ってな、まーいにち同じ格好しとったゆーとったで?あんたもそれにしたらええんちゃうの?』


いわゆるミニマリストというやつで、同じ服を複数枚、または、合わせやすい色合いの服を最小限の枚数だけ揃えて、それをひたすら着るという人もいる。

ちょっといいなーと思ってやってみようとおもった時もあったが、なんていうか好きな服の雰囲気が複数ある人にとっては、うーん。退屈になる場合がありますとだけ言っておこう。



(続)