Merhabaキラキラ

 

 

 

 

私の住まいの近くに、ソコルル・メフメット・パシャ・ジャーミィがありますキラキラ

yuruyerek 10 dakika あしあと

 

 

 

 

 

 

 

ソコルル・メフメット・パシャは、16世紀オスマン帝国の大宰相でした。彼は実はボスニア人だったんですね。

 

 

 

彼に限らず、トルコ、とりわけイスタンブールンにはボスニア系の人がたくさん住んでいます。

たとえば、、、空港から2駅目にイェニボスナというメトロの駅があって、これは「新ボスニア」という意味です。ボスニアから来た人たちがコミュニティを作って定住していたと思われます。

 

 

 

ボスニアは、オスマン帝国の領域の一部でした。19世紀になってオスマン帝国が勢力を弱めて領土が縮小されるなか、ボスニアはオーストリア・ハンガリー帝国とロシアの闘争の場となり、イスラム教徒のボスニア人たちはイスタンブールやアナトリアの方へ流れ込んできました。ボスニア系の人々は、トルコではイスタンブールに最も多いようです。

 

 

 

 

 

ソコルル・メフメット・パシャの話に戻りますが、、、。

 

 

 

 

 

 

「ソコルル」とは、ボスニアの「ソコロヴィッチ出身の」という意味です。

1506年にドリナ川沿いのソコロヴィッチ村で生まれたメフメットは、10歳の時にデヴシルメによって、オスマン帝国に連行されます。

 

デヴシルメ・・・オスマン支配下にある土地で、異教徒の少年たちを徴収する制度。オスマン軍の精鋭をいくせいするためとされた。連行の時は、子供たちは赤いマントと赤い頭巾を着用させられた。イスタンブールで少年たちはイスラムに改宗させられ、英才教育を受ける。エリート少年たちの中から、イエニチェリや宮廷の小姓になる者が選ばれたりした。ボスタンジュという首都圏の警備隊もこの中から選ばれたそう。

 

 

かわいそうに、まだ10歳の時に遠いところへ連行されるなんて、お母さんも送りだすのは本当に悲しかったでしょうね~ショボーン

 

 

メフメットは35歳の時に皇室式武官になり、スルタンの身辺に侍るようになりました。このときに、スレイマン大帝の目にとまったことが、あとの出世につながります。49歳の時、第三宰相となり、スルタンから宮殿を賜ります。(←すごくない?!宮殿を賜るって・・・ガーン) さらに6年後には第二宰相になり、その翌年、スレイマン大帝の孫娘でセリム2世の娘であるイスミハン・スルタンと結婚します。(56歳で結婚?!人生何があるのかわかりません)59歳の時には、ついに大宰相に就任、つまり政府の頂点、最高位の官職に就いたのです。彼は多くのモスクやテュルベ(霊廟)を残しましたが、おそらくもっとも人々の心に残っているのは祖国ボスニアのドリナ川に架けさせた橋だと思われます。彼の死から10年後に完成した橋は、2007年に世界遺産に登録されました。彼のお墓はイスタンブールのエユップにあります。

 

 

 

 

 

そんなこんなで、イスタンブールにはボスニア系の人たちもたくさんいます。たくさんの民族が自然に共存しているんですが、先祖も私もお隣さんも生粋の日本人、な環境で育ってきた私は、やっぱりこういうのは体感して、疑問を持って、勉強して、という感じですラブラブ

 

 

 

チューリップ大宰相の墓もある、ムスリムの聖地エユップ

https://tripnote.jp/turkey/istanbul-eyup

 

 

 

 

 

↑エユップで食べたトルコアイス、おいしかったです照れソフトクリームドキドキ

 

 

 

 

 

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