前の記事は予想通り総スルー(笑)
ペリリュー島玉砕戦

※カバー写真は昭和47年3月、ペリリュー島で荼毘(だび)に付される日本兵の遺骨
[荼毘(だび)とは火葬の事]
アンガウル島の位置

昨年ペリリュー島の史跡巡りにも行きました
そのペリリュー島より少し南に位置するペリリュー島の戦い同様
激戦地となったアンガウル島での戦いの生き残りの舩坂弘さんが書かれた
ノンフィクション作品
もう一冊欲しい本が、同じく舩坂弘さんの著書
英霊の絶叫 -玉砕島アンガウル-

もう絶版で密林ではプレミアが付き約¥35000・・・
図書館にないかと調べたら県立図書館に1冊あったので近いうちに借りに行こうと思います
■パラオ・アンガウル島の戦い
昭和19年3月、23歳で除隊を目前にした舩坂氏は、宇都宮歩兵第59連隊軍曹として
パラオ・ペリュリュー島南西のアンガウル島に着任しました。
アンガウル島は、東西2.5km、南北3kmほどの小さな島です。米軍はここを占領し
飛行場を作ろうとした。同年9月11日、米軍が来襲します。
開戦から5日間にわたり米軍は、まず空母ワスプから発進した爆撃機で島の絨毯爆撃を行った。
次いで戦艦テネシーから、島の形が変わるくらいの激しい艦砲射撃をした。そして9月17日
米陸軍第81歩兵師団2万1千名が島の北東と南西の二面から海岸に上陸します。

島を守っていた守備隊の日本軍は、わずか1400名の中隊です。
小さな平たい島です。内陸部に誘い込んでの戦いはできません。日本軍は
はじめ上陸しようとする米軍を水際作戦で迎え撃ちます。
このとき舩坂軍曹は、擲弾筒および臼砲で米兵を200人以上殺傷します。
しかし兵力差は15倍、装備も劣る日本側に勝ち目はありません。
水際作戦で中隊が壊滅するなか、舩坂軍曹は、筒身が真赤になるまで擲弾筒を撃ち続けた。
そうすることで米軍の足を止め、退却する中隊の隊員たちを守ります。
米軍は陸続と上陸してきます。日本軍は、大隊残存兵力を島の北西の洞窟に集結させる。
ここから先はゲリラ戦です。
戦い3日目、舩坂軍曹はひん死の重傷を負ってしまいます。米軍の砲撃で左大腿部を割かれたのです。
場所は敵陣のど真ん中、味方が助けようにもすぐには助けれられない。
押しつ戻しつの戦いの中、米軍の銃火の中に数時間放置された舩坂のもとに
ようやく軍医がやって来ます。
傷をみた軍医は、あまりの傷口の深さと大きさに、もはやこれまでと
舩坂軍曹に自決用の手榴弾を手渡して去ってしまう。
おまえはもう死んでいる、と宣告されたようなものです。「負けるもんかっ!」
舩坂は近くにあった日章旗で足を包帯代わりに縛り、夜通し這って洞窟の陣地に帰り着きます。
着いた時には、死体が這ってきたような姿だったのですが、この舩坂軍曹、並みの体力気力ではありません。
翌日には、左足を引き摺りながらでも歩けるまで回復してしまった。
舩坂軍曹はその後も何度となく瀕死の重傷を負い、動くこともままならないような傷を負っても
不思議と翌日には回復しています。ご本人は「生まれつき傷が治りやすい体質なのだ」と
笑っておいでだったそうですが、ほとんど人造人間もどきの体力です。
舩坂軍曹は、栃木県西方町の農家の三男坊で、子供のころからきかん気でガキ大将だったそうです。
長じては剣道と銃剣道の有段者。また中隊随一の名射手でもあった。
気迫と集中力の素晴らしい人だったようです。
■不死身の分隊長
舩坂軍曹は、絶望的な戦況にあってもなお、自身の重傷をものともせず戦い続けます。
ある日は、拳銃の3連射で3人の米兵を倒した。
ある日は、米兵から奪い取ったサブマシンガンで3人の米兵を一度に倒し
左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、サブマシンガンを手にしていたもう1人に
その銃剣を投げて顎部に命中させ、突き殺した。まさに鬼神の如き奮戦です。
舩坂軍曹を見た部隊員は、舩坂を「不死身の分隊長」、「鬼の分隊長」と形容したといいます。
しかし、食料も水もない状況での戦いです。
洞窟の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生き地獄の様相となっていた。
舩坂自身も、敵の銃弾が腹部を貫通する重傷を負い、もはや這うことしか出来なくなってしまった。
さらに腹部の傷が化膿し、ハエがたかって蛆(ウジ)が湧いた。舩坂軍曹は
蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を決意します。
このときの舩坂の体調は、死の瀬戸際です。立って歩けない状態になっていることはもとより
極度の栄養失調と失血で、両目もほとんど見えなくなっていた。彼は遺書を書きます。
■遺書を書く
「若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。靖国に行ってご両親の大恩に報います。
国家危急存亡のときに、皇天皇土に敵を近ずけまいと奮戦したのですが、すでに満身創痍となりました。
天命を待たず、敵を目前にして戦士するのはくやしいけれど、すでに数百の敵を倒したので
自分は満足しています。
七たび生まれ変わって、国難を救わんと念願し、いま、従容として自決します。
思い残すことはありません。
陸軍軍曹 舩坂弘」
【原文】若年ニテ死スハ、考ノ道立タズ遺憾ナリ。幸イ靖国ノ御社ニ参リ、御両親ノ大恩ニ報ユ
今ヤ国家危急存亡ノ秋ニ、皇天皇土ニ敵ヲ近ズケマイト奮戦セルモ、既ニ満身創痍ナリ、天命ヲ待タズ
敵ヲ目前ニ置キ戦死スルハ、切歯扼腕ノ境地ナレド、スデニ必殺数百ノ敵ヲ斃ス、我満足ナリ。
七度生レ国難ヲ救ハント念願ス。今従容ト自決ス、思ヒ残スコトナシ
自決を決意した舩坂は、手にした手榴弾を引き抜きます。自爆しようとした。
ところが手榴弾が爆発しない。思いに反して手榴弾が不発だったのです。
なぜ死ねないのか、なぜ死なせて貰えないのか。
舩坂はこのとき、深い絶望感を味わったといいます。
このときも洞窟には、絶えず米軍の爆撃・砲弾の音と振動がこだましています。
周囲は、傷の痛みに呻く声が満ちている。
数時間、茫然自失の状態に陥った舩坂は、絶望から気を取りなおします。
そして、どうせ死ぬならその前に、せめて敵将に一矢報いんと
米軍司令部への単身での斬り込みを決意します。
そして拳銃弾から中の火薬を取り出すと、その火薬を腹部の患部に流し込み、火をつけた。
貫通創です。腹部の前からうしろ(背中)に向けて穴が空いている。
その両側から炎が噴き出します。
このとき激痛のあまり意識を失い、半日ほど死線を彷徨したそうです。
意識を取り戻した舩坂軍曹は、まだ傷口が痛むなか、体に手榴弾6発をくくりつけ
拳銃1丁を持って、洞窟を這い出ます。
■決死の斬り込み
当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊
高射機関砲大隊など、総勢1万人が駐屯していた。
そのまっただ中を、舩坂は数夜這い続け、米軍前哨陣地を突破し
指揮所周辺さえも突破してしまう。
そして4日目には、米軍指揮所テントにあと20Mの地点にまで到達します。
舩坂は、米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めます。
しばらくすると、テントにジープが続々と乗り付けてきた。指揮官たちが集まったのです。
舩坂は、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握りしめ、左手に拳銃を持ち
全力を絞り出し立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に
発見した米兵もしばし呆然として声もでなかった。まるで血まみれでボロボロの幽鬼にしか見えなかった。
それもそのはずです。このときの舩坂軍曹は、すでに左大腿部裂傷
左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、右肩捻挫、右足首脱臼
左腹部盲貫銃創など大小合わせて24箇所の重傷を負い
更に連日の戦闘による火傷、全身20箇所に砲弾の破片が食い込んでいた。
全身血まみれ、服はボロボロ。人間に見えたら不思議なくらいです。
米軍の動揺を尻目に、舩坂は司令部目掛け渾身の力で20Mを突進します。
そして指揮所テントに到達し、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、首を撃たれて昏倒してしまう。
倒れた舩坂のまわりに集まった米兵たちは、あきらかに戦死と判断します。
全身血まみれで首を撃たれているのです。生きていると思うほうがどうかしている。
駆けつけた米軍軍医も、死亡と判断し、舩坂を野戦病院に運んだ。
このとき軍医は、手榴弾と拳銃を握りしめたまま離さない舩坂の指を一本一本解きほぐしながら
米兵の観衆に向かって、 「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」
と語ったそうです。
死体置き場に3日間転がされていた舩坂は、そこで息を吹き返します。
死体の山の中からむっくりと起き上った日本兵の姿を見た米兵は、あまりの恐怖に血が凍った。
そして舩坂に銃口を向けます。
銃口にゆっくりと向かってきた舩坂は、銃口に自分の身体を押し付けた。
そして「撃て! 殺せ! 早く殺せ!」とうなり声をあげた。
不死身の日本兵の話は、アンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となり、伝説と化します。
米軍は、舩坂の無謀さに恐れをなしながらも、その勇気を称え、舩坂に「勇敢なる兵士」の名を贈った。

舩坂 弘(ふなさか ひろし、1920年10月30日 - 2006年2月11日)
日本陸軍の軍人。最終階級は軍曹。アンガウルの戦いで活躍した。
戦後は大盛堂書店を開き、代表取締役会長を務めた。全日本銃剣道連盟参与
南太平洋慰霊協会理事、大盛堂道場館主。テキサス州名誉市民章授与。
その白兵戦におけるあまりの戦果から、個人名としては唯一「戦史叢書」に名前が載っている。
特別銃剣術徽章、特別射撃徽章、剣道教士六段、居合道錬士、銃剣道錬士など
武道・射撃の技能に習熟していた。
PS:色々感じたので当面忘却録意外更新しません