皆さんはパラオと言う国をご存知でしたか?
一般の方は知ってる方は少ないと思います
また、私のようにスキューバダイビングをする人は人気ナンバーワンの国として
知ってる方も居るかもしれません
一般の方は知ってる方は少ないと思います
また、私のようにスキューバダイビングをする人は人気ナンバーワンの国として
知ってる方も居るかもしれません
私はこの話を知って必ずペリリュー島行こうと決意しました
そんなパラオのペリリュー島において第二次大戦では硫黄島の戦い以上の激戦が
繰り広げられた場所と知ってる方は少ないと思います
繰り広げられた場所と知ってる方は少ないと思います
そのパラオは、明治18(1885)年にスペインの植民地となりました。
スペイン人によってもたらされた天然痘や、略奪、殺戮の結果
スペイン人によってもたらされた天然痘や、略奪、殺戮の結果
パラオの人口は当時90%も減少したといわれています。
明治32(1899)年、スペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを
450万ドルでドイツに売却します。
この中に、パラオも含まれた。
この中に、パラオも含まれた。
大正3(1914)年に第一次世界大戦が開始されると、ドイツに対して宣戦を布告した
日本が海軍を派遣しドイツ守備隊を降伏させてこれを占領します。
大正8(1919)年、第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、
パラオは日本の委任統治領になります。
当時のパラオの人口(パラオ先住民の人口)は、約6000人でした。
スペインによって植民地にされる前の人口は、約6万人だったともいいますから
いかに西欧の植民地政策がすさまじいものだったかが、推してわかろうというものです。
当時のパラオの人口(パラオ先住民の人口)は、約6000人でした。
スペインによって植民地にされる前の人口は、約6万人だったともいいますから
いかに西欧の植民地政策がすさまじいものだったかが、推してわかろうというものです。
そんな中パラオの方々は「今度は日本にこき使われ虐げられるのか・・・」と
うんざり絶望したのではないでしょうか・・・
うんざり絶望したのではないでしょうか・・・
そんな中
日本「学校作るよ~」「勉強しようぜw」「病院作るよ~」
「無料で予防接種するぞ~」「食べ物作るぞ~」「インフラ整備して楽しようぜw」
日本「学校作るよ~」「勉強しようぜw」「病院作るよ~」
「無料で予防接種するぞ~」「食べ物作るぞ~」「インフラ整備して楽しようぜw」
パラオ「( ゚д゚)ポカーン」
こんな感じだったんでは(笑)
こんな感じだったんでは(笑)

そんな中米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官
連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官である
チェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画する。
チェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画する。
昭和18(1943)年の時点で、ペリリュー島には、899名のパラオの村人がいました。
刻一刻と迫る米軍。
村人たちは、白人統治の時代を知っています。
そして日本統治の時代も、身をもって経験しています。
日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた村人は
仲間たちと話し合ったそうです。
そして彼らは、大人も子供も、一緒になって日本軍とともに戦おうと決めます。
ちなみにパラオは、こうした議会には、村人が全員参加します。
そして誰かひとりでも反対者がいると、全員が了承するまで何日でも
そして彼らは、大人も子供も、一緒になって日本軍とともに戦おうと決めます。
ちなみにパラオは、こうした議会には、村人が全員参加します。
そして誰かひとりでも反対者がいると、全員が了承するまで何日でも
議場に籠り続けて、みんなの意思を固める。
この習慣は、いまでもなお続くパラオの人々の伝統です。
この習慣は、いまでもなお続くパラオの人々の伝統です。
全員一致で、日本軍とともに戦うと決めた彼らは、代表数人とともに
日本の守備隊長である中川州男(なかがわくにお)大佐のもとを訪れます。
平素、温厚な中川隊長なら、自分たちの頼み・・・
日本の守備隊長である中川州男(なかがわくにお)大佐のもとを訪れます。
平素、温厚な中川隊長なら、自分たちの頼み・・・
一緒に戦う・・・を聞いてくれるに違いない。
そして中川隊長に、「自分たちも一緒に戦わせてほしい」と申し出ます。
彼らの訴えをじっと黙って聞いていた中川隊長は、ひとりひとりの目をじっと見つめると
そして中川隊長に、「自分たちも一緒に戦わせてほしい」と申し出ます。
彼らの訴えをじっと黙って聞いていた中川隊長は、ひとりひとりの目をじっと見つめると
瞬間、驚くような大声をあげた。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
烈迫の気合です。
村人たちは、ただ茫然とするほかなかった。
村人たちは、ただ茫然とするほかなかった。
驚いた。日本人は仲間だと信じていたのに、
・・・みせかけだったのか。。。。
村人たちは、日本人に裏切られた思いで、みんな悔し涙を流します。
いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきます。
港には、日本兵はひとりも、見送りに来ない。
村人たちは悄然として船に乗り込んだそうです。
そして、汽笛が鳴る。
船が岸辺を離れた
。
。
。
。
・・・みせかけだったのか。。。。
村人たちは、日本人に裏切られた思いで、みんな悔し涙を流します。
いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきます。
港には、日本兵はひとりも、見送りに来ない。
村人たちは悄然として船に乗り込んだそうです。
そして、汽笛が鳴る。
船が岸辺を離れた
。
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次の瞬間
ペリリュー島に残る日本兵全員が、浜に走り出てきました。
ペリリュー島に残る日本兵全員が、浜に走り出てきました。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送った。そのとき、船上にあった村人たちは、わかったのです。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
涙が出た。岸辺に見える日本兵に向かって、村人たちは、号泣しながら、手を振った。
誰もが泣いた。ちぎれるほどに手を振った。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
涙が出た。岸辺に見える日本兵に向かって、村人たちは、号泣しながら、手を振った。
誰もが泣いた。ちぎれるほどに手を振った。
そして日本軍はパラオを死守するために文字通り死を覚悟して戦った。
最期に『サクラ・サクラ』という電文だけを残して。
そして航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃を行う米軍は
最期に『サクラ・サクラ』という電文だけを残して。
そして航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃を行う米軍は
すでに補給を断たれた日本軍の数百倍の火力を投下します。
最初に米軍は、は艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ
最初に米軍は、は艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ
周囲のジャングルを完全に焼き払った。
海上に築いた日本軍の防衛施設も、完全に破壊した。
日本は圧倒的に不利だった。アメリカに制海権・制空権を掌握されている上に、
兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍という
歴然たる戦力差。しかしそれでもアメリカの上陸作戦史上最高の損害比率を
出させるほどに抵抗し、全く補給もなく73日間も守り通し
日本軍はパラオを死守するために文字通り死を覚悟して戦って玉砕したのだ。
海上に築いた日本軍の防衛施設も、完全に破壊した。
日本は圧倒的に不利だった。アメリカに制海権・制空権を掌握されている上に、
兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍という

歴然たる戦力差。しかしそれでもアメリカの上陸作戦史上最高の損害比率を
出させるほどに抵抗し、全く補給もなく73日間も守り通し
日本軍はパラオを死守するために文字通り死を覚悟して戦って玉砕したのだ。
そして69年前の9月15日まさに今日「2、3日で陥落させられる」との宣言の下
海兵隊を主力とする第一陣、約28000名が島に上陸します。
対する日本軍は地中深くに穴を掘り、米軍の上陸を待ち構えていた。
米軍の上陸用舟艇が、続々とやってきます。
島はじっと沈黙している。
米軍は、海岸に上陸し、そこに陣地を巡らし始めます。
そのときです。
海兵隊を主力とする第一陣、約28000名が島に上陸します。
対する日本軍は地中深くに穴を掘り、米軍の上陸を待ち構えていた。
米軍の上陸用舟艇が、続々とやってきます。
島はじっと沈黙している。
米軍は、海岸に上陸し、そこに陣地を巡らし始めます。
そのときです。
突然の集中砲火が、米軍を襲います。
満を持した日本軍の反撃です。
水際での戦闘は凄惨を極めます。
米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて一時退却するという場面もあった。
米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて一時退却するという場面もあった。
この戦闘によって米軍の血で海岸が赤く染まったのです。
いまでもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。
いまでもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。

※オレンジビーチ
10月30日には米軍第1海兵師団が全滅します。
海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病して後方に送られています。
海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病して後方に送られています。
この時点で3日で終わるとされた戦いは、なんと1ヶ月半も継続されていたのです。
しかし、日本軍には、補給が一切ありません。
日本軍の抵抗は次第に衰えを見せ、米軍の火炎放射器と手榴弾によって
しかし、日本軍には、補給が一切ありません。
日本軍の抵抗は次第に衰えを見せ、米軍の火炎放射器と手榴弾によって
日本軍の洞窟陣地は次々と陥落していきます。
さらに食料や水もない。
夜陰に紛れて、仲間のために水を汲みに行って米軍の猛火に遭う。
このため、水場の近くには、日本兵の死体がかさなりあっていたといいます。
11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定します。
中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が割腹自決を遂げる。
さらに食料や水もない。
夜陰に紛れて、仲間のために水を汲みに行って米軍の猛火に遭う。
このため、水場の近くには、日本兵の死体がかさなりあっていたといいます。
11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定します。
中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が割腹自決を遂げる。
その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られます。
そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵力による
そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵力による
最後の突撃攻撃が行われた。
こうして11月27日、ついに米軍はペリリュー島の占領を果たします。
こうして11月27日、ついに米軍はペリリュー島の占領を果たします。
ペリリュー島の戦いが終って島に戻った住民は、多くの日本兵の遺体を見て泣きました。
「アメリカ人は日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。
「アメリカ人は日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。
ここに征服民族の本性を見る」と。
住民はこぞって日本兵の遺体を葬りました。
そして、日本の人達がいつ来てもよいようにと、その後も墓地の清掃に心掛けました。
住民はこぞって日本兵の遺体を葬りました。
そして、日本の人達がいつ来てもよいようにと、その後も墓地の清掃に心掛けました。
米軍の上陸開始から2ヵ月半が経過してのことです。
中川隊長の異例の奮闘に対しては、昭和天皇より嘉賞11度、感状3度が与えられています。
また中川隊長は死後に2階級特進し陸軍中将となった。
なお、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延びており
終戦の2年後まで戦い続け、昭和22(1947)年に投降しています。
【ペリリュー島の戦い】
日本軍
戦死者 10,695名
捕虜 202名
日本軍
戦死者 10,695名
捕虜 202名
米 軍
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
村人
死者 0名
負傷者 0名
死者 0名
負傷者 0名
大東亜戦争終結により日本が立ち去った後、パラオの公用語は英語に変わり
アメリカによる目に余る反日教育が行われました。
歴史の授業では、米国で作られた教科書が使われ、日本人による「パラオ人虐殺事件」
などの掲載された、反日的歴史教科書もありました。
ところが、パラオの年長者が
アメリカによる目に余る反日教育が行われました。
歴史の授業では、米国で作られた教科書が使われ、日本人による「パラオ人虐殺事件」
などの掲載された、反日的歴史教科書もありました。
ところが、パラオの年長者が
そんな話しはないっ!
と否定したため
この疑わしい史実はパラオには浸透しませんでした。
どこかの2カ国とは、えらい違いです
この疑わしい史実はパラオには浸透しませんでした。
どこかの2カ国とは、えらい違いです
平成6(1994)年、パラオはアメリカから独立をはたしました。
独立にあたり国旗を制定することになり、国民の間からデザインを一般公募した結果
日の丸をもじった今のデザインが採用となりました。
独立にあたり国旗を制定することになり、国民の間からデザインを一般公募した結果
日の丸をもじった今のデザインが採用となりました。

周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月をあらわします。
月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。
月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。
そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。
日本に失礼だからと,わざと中心をはずしたのだそうです。(諸説あります)
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。
日本に失礼だからと,わざと中心をはずしたのだそうです。(諸説あります)
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。
米国より独立後の1997年、パラオで初の「パラオ史」の国定教科書が作られました。
国定教科書では、全462ページのうち26ページもが日本統治時代にあてられて
章には「日の丸の旗のもとに」というタイトルがつけられています。
日本がパラオを統治するようになった経緯だけでなくて
日本の行った学校教育・産業・経済活動などについても詳しく述べられています。
学校教育については、「当時の日本式の教育方針がそのまま持ち込まれて
日本人は体罰で非常に厳格なしつけを行った。」と。
国定教科書では、全462ページのうち26ページもが日本統治時代にあてられて
章には「日の丸の旗のもとに」というタイトルがつけられています。
日本がパラオを統治するようになった経緯だけでなくて
日本の行った学校教育・産業・経済活動などについても詳しく述べられています。
学校教育については、「当時の日本式の教育方針がそのまま持ち込まれて
日本人は体罰で非常に厳格なしつけを行った。」と。
パラオ共和国、マーシャル諸島共和国の切手

