さて鹿児島2日目、本日は今回の旅の目的地に向かいます
でも時間があるので他の観光にも行ってきました
まず途中偶然見つけた
薩摩が生んだ幕末の才女 天璋院篤姫の誕生の地指宿今和泉

大河ドラマにもなりましたね
今和泉島津家の領地である今和泉郷の郷社の豊玉姫神社


豊玉姫神社は全国に4社しかないそうです
そのうちの1箇所が千葉にあったとは知りませんでした(^_^;
他の場所も散策することにしたのですが

どこをどう間違えたのか・・・
道に迷った・・・orz
もらったパンフレットを見ながら道を探してると農作業をされていた地元の方が
声を掛けてくださり帰り道を丁寧に教えて頂きました、本当に助かりました♪
なんとか駐車場まで戻ってきて次に目指したのは指宿

駅前には足湯まであります、流石温泉の町ですね

足湯に浸かりしばらくまったりしてました
タマタマ隣りに座られたかたと談笑し
千葉から来たと言うと驚いてました(笑)
あと指宿と言えば

砂むし温泉
入る予定はしてませんが一度見てみたかったので行ってみました

なんか思っていたのとはちょっと違ってましたが海岸から湯気が出てる光景が
凄いですね
さて指宿を後にし向かったのは今回の旅の目的地

一部のファン様にはバレてたようですがw
記念館の周りには
知覧平和観音が祀られてる神社

神風特攻隊員の方が特攻されるまで過ごした
三角兵舎

一式戦闘機「隼」

記念館内は撮影禁止なので写真は有りません
記念館には1,036柱の隊員の遺影が出撃戦死した月日順に掲示されています
その下には家族・知人に残した遺書・手紙・辞世・絶筆等を展示してました
記念館の中でも特に心に残ったエピソードを紹介したいと思います
まずこちらの写真をご覧ください
子犬を抱いた特攻兵たち

当時、彼らは第七十二振武隊員として出撃を控える若者たちだった。
この写真は、昭和20年5月26日、鹿児島県万世特攻基地(旧加世田市、現南さつま市)にて、
朝日新聞の稲村豊氏によって撮影された。
出撃予定2時間前に撮影されたが、結局その日の出撃は中止となり
翌27日早朝出撃し全員が戦死した。
この写真は、昭和20年5月26日、鹿児島県万世特攻基地(旧加世田市、現南さつま市)にて、
朝日新聞の稲村豊氏によって撮影された。
出撃予定2時間前に撮影されたが、結局その日の出撃は中止となり
翌27日早朝出撃し全員が戦死した。
【写真に写る隊員】
第七十二振武隊 (愛称:ほがらか隊)
昭和二〇年五月二七日出撃戦死
第七十二振武隊 (愛称:ほがらか隊)
昭和二〇年五月二七日出撃戦死
前列左から、早川勉 伍長(18歳)、荒木幸雄 伍長(17歳)、千田孝正 伍長(18歳)。
後列左から、高橋要 伍長(18歳)、高橋峰好 伍長(17歳)。(散華後の階級は全員、少尉)
後列左から、高橋要 伍長(18歳)、高橋峰好 伍長(17歳)。(散華後の階級は全員、少尉)
これが翌日、特攻死を迎える方々の表情と言うことに驚きました
17、18歳と言えば今の高校生ですよね・・・
藤井一中尉(29歳) (散華後の階級は少佐)

「一足お先に逝って待っています」
特攻作戦が開始され、自分の教え子たちが教えのとおり特攻出撃していく事となってしまった。
あの純粋な教え子たちが次から次へと特攻出撃していく中、責任感が強く熱血漢であった
藤井中尉は自分だけが安全な任務をしていることに堪えられなかったのだろうか。
なんと藤井中尉は教え子たちとの約束を果たすべく自らも特攻に志願したのである。
しかし、妻と幼子二人をかかえ、学校でも重要な職務を担当しており
パイロットでもなかった藤井中尉には、当然、志願が受け入れられるはずもなかった。
しかし、藤井中尉は生徒達との約束を守るため、断られても、断られても2度も特攻に志願していた。
あの純粋な教え子たちが次から次へと特攻出撃していく中、責任感が強く熱血漢であった
藤井中尉は自分だけが安全な任務をしていることに堪えられなかったのだろうか。
なんと藤井中尉は教え子たちとの約束を果たすべく自らも特攻に志願したのである。
しかし、妻と幼子二人をかかえ、学校でも重要な職務を担当しており
パイロットでもなかった藤井中尉には、当然、志願が受け入れられるはずもなかった。
しかし、藤井中尉は生徒達との約束を守るため、断られても、断られても2度も特攻に志願していた。
夫の決意を知った福子さんは、二人の幼子を連れて飛行学校の近くにある荒川に入水自殺した。
翌日の昭和19年12月15日朝、晴れ着を着せた次女千恵子ちゃん(1歳)をおんぶし
長女一子ちゃん(3歳)の手と自分の手をひもで結んだ3人の痛ましい遺体が発見された。
その遺書には
翌日の昭和19年12月15日朝、晴れ着を着せた次女千恵子ちゃん(1歳)をおんぶし
長女一子ちゃん(3歳)の手と自分の手をひもで結んだ3人の痛ましい遺体が発見された。
その遺書には
「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから
一足お先に逝って待っています」
一足お先に逝って待っています」
という意味のことが書かれていた。

藤井中尉は葬式が終わった後、長女の一子ちゃんあてに手紙を書いた。

藤井中尉はこの事件の直後、3度目の特攻志願を行った。
今度は自らの小指を切り、血書嘆願であった。
今度ばかりは軍も諸般の事情から志願を受理した。
今度は自らの小指を切り、血書嘆願であった。
今度ばかりは軍も諸般の事情から志願を受理した。
藤井中尉は陸軍特別攻撃隊第四十五振武隊快心隊の隊長として
昭和二十年五月二十八日、隊員十名と共に沖縄に向けて出撃した。
藤井中尉はもちろんパイロットではないので
小川彰少尉の操縦する機に通信員として搭乗した。
教え子達、そして家族との約束をやっと果たすことが出来たのである。
昭和二十年五月二十八日、隊員十名と共に沖縄に向けて出撃した。
藤井中尉はもちろんパイロットではないので
小川彰少尉の操縦する機に通信員として搭乗した。
教え子達、そして家族との約束をやっと果たすことが出来たのである。
もう記念館閲覧中も30分ほどの上映中も
いい、おっさんが泣きそうでした実際泣いてられる方も多くおられました
私ごときが何も言えることはなく
特攻隊員の方々には只々頭がさがる思いでした
あと凄いと思ったのが多くの遺書に
「笑って往きます」との言葉が多く見られたことです
みなさんも機会があれば是非一度行ってみて下さい
知覧特攻平和会館
住所:鹿児島県南九州市知覧町郡17881番地 →地図
