Respect:岡村靖幸・その4 | weblog -α-

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15. どぉなっちゃってんだよ
 1990年 Album 『家庭教師』
近年の岡村サウンドに通ずるサンプリング多用な楽曲。
メロディーに対しての歌詞の文字数の多さ早口言葉じみてるが、その辺りが後の川本真琴辺りにも通ずる部分で面白い。

歌詞は総体的に言って、当時の社会を皮肉ったもの。
ちょうどバブル崩壊の前兆が見え始めた頃だった為、それまでの金銭的価値観が極端に変わり出した頃でもある。
そういった背景と共に、岡村靖幸の中にある苦言やメッセージが比較的ストレートに吐き出されてもいる。
まさに、「この世の中、どうなっちゃってんだよ?」 という疑問形のテーマだ。

ところで、歌詞に触れる前にまず触れておきたいのは、この曲における岡村靖幸の声質である。
普段の岡村靖幸の歌声は、高音よりも低音寄りにある声質で、故に唸り系のシャウトなんかでは、低音からの入り迫力を演出出来るのである。
独特なファルセットにおいても、基本の声質に低音が利いている為、中音域として反映し、薄っぺらに聴こえないという特性がある。
所謂、エフェクト的に言うと、オクターバーが常に掛かっている様な声質という事だ。
(※オクターバー : 原音に対し、オクターブ上下の音を足す事が出来るエフェクト)
しかし、そんな声質なのにも関わらず、この曲での岡村靖幸の声質は序盤から妙に高い
あえてそういった声質に変化させる歌い方も無くはないが、だとすると全体的に自然な歌い方になり過ぎている
要するに何が言いたいのかというと、この曲のボーカルトラック意図的にピッチ(音程)を少し上げてミックスしているという事。
試しに愛用のプレーヤーで再生速度を 0.95 に下げてみると、見事に本来の岡村靖幸の歌声になった。
0.90 だと再び違和感のある声になったので、恐らくはピッチの上げ率は 0.05 ほどで間違いないだろう。

では何故そんな事をしたのかだが、単純に考えれば全体のテンポを上げる為
音いじりをした事がないと少々解り辛いかも知れないが、録音された音源の再生速度を上げると、テンポが上がると同時にピッチも上がるのである。
それを効果的に利用している代表はクラブDJで、意図的に速度変化させる事で全く別のレコード同士の音程を合わせ、まるでメドレー曲として編集されたかの様に曲同士を繋げたりしている。
同様に、DJの代表的なテクニックであるスクラッチなども、極端にレコードの回転を変化させる事で効果音的に出している音。
デジタル録音時代になった今では比較的珍しくなったが、アナログ時代は曲の全体テンポを変える為に再生速度を操作する事はわりと多かった。
特に海外のロック系音源では、そういった大雑把なテンポ変更がよくある。
今すぐ思いつくのはセックス・ピストルズぐらいだが。
とにかく、この曲の声質はそんな風に意図的に変化させたものであり、他の楽曲と比べて声質に違和感があるのはその為である。
恐らく、文字数が多く早口っぽい歌なので、元々のテンポに乗せて歌うよりもテンポを下げて歌録りした方が効率的だったのか、あるいは単純に楽曲としてのノリを出す為に後から全体ピッチを上げて対処したかだろう。

さて、歌詞だが、この曲の歌詞は本当にストレートな皮肉だろう。
岡村靖幸の価値観は色々な楽曲を聴いているとそれなりに解るが、この歌詞はそういった価値観から来る皮肉を一気に吐き出したかの様なものになっている。

1コーラス目のBメロ、〔読んだ本は全部マンガばかりで〕 というフレーズがある。
他の歌詞でも見受けられるが、当時の岡村靖幸にとって、マンガは 『お子ちゃまの読むくだらないもの』 という認識だった様だ。
確かに、少年誌などの漫画雑誌を電車の中でサラリーマンが平然と読んでいる姿・・・というのは、「海外の人達から見ると異様な光景だ」 という話がよくあった。
「小学生の読み物をいい大人が?」 という見方になるのは理解出来るのだが、今の時代になると、そんな漫画文化が ''世界に誇れるサブカルチャーの代表'' になっているから皮肉なものだ。
つまり、実際に日本の漫画文化に触れてみると、海外の人々もそれが ''必ずしもおかしな事'' などではなく、実に魅力的で楽しいものだと認識した訳だ。
確かに1シーンとして切り取ってしまえば、''いい大人が漫画雑誌を公共の場で堂々と読んでいる姿'' はどこか異様かも知れないが、それを頭ごなしに 「くだらない」 と言い切ってしまうのも、価値観として視野が狭すぎるというもの。
今現在の岡村靖幸が漫画についてどう考えているのかは解らないが、海外のコミックとはまるで別モノだという事ぐらいはさすがに理解しているだろう。

同じくBメロ、〔重要なことなら誰かれ問わずに ファッション〕 というフレーズは、平成の今現在においても全く同じ事が言える皮肉だ。
中身より外見重視の世の中なのは、今現在も変わらない。
人であっても、文化であっても、学歴であっても、本来重視すべきはその中身だと簡単に解る事なのに、それでも人々は表面的な部分にばかり固執している
「東大出のエリート」 と聞けば相変わらず 「へぇ~、頭良いんだね」 と言ってしまう人々だらけの世の中において、最重要なのは何よりもイメージなのである。

2コーラス目のAメロ、〔好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる〕 も実に皮肉。
それこそ子供が駄々をこねるみたいに他人からの愛情や評価を求めながら、それでいて自分から明確に他人を愛したり評価したりしない人々
「恋人に ''愛してる'' の一言すらまともに言えないクセに、どうして自分は ''愛してる'' って言って貰えると思ってんの?」 的な岡村靖幸の声が聞こえてきそうだ。
「欲しいならちゃんと欲しがれよ! そう示せよ!」 と岡村靖幸は明確に訴えている。
この点については全く岡村靖幸に同感なので、個人的にはニヤリとしてしまうフレーズである。

引き続いてのBメロは、〔俺なんかもっと頑張ればきっと女なんかジャンジャンもてまくり〕 と歌っている。
これは自信過剰な人々を皮肉ったフレーズで、ここもまた今現在の世でも通じる
『俺はまだ本気出してないだけ』 という漫画原作の映画も公開する様だが、まさしくそんな 『負け組の逃げ口上』 と同様の意味合いがあるフレーズだ。
続く 〔マニュアル通りに見つめてそんでもって マンション〕 というのも、「筋書き通りに事を進めてマンション買うぜ」 という世間知らずな頭の悪い発想を皮肉っている。
そして、その皮肉はサビへと続く。

〔どぉなっちゃってんだよ 人生がんばってんだよ 一生懸命って素敵そうじゃん〕 とあるが、最初の 〔どうなっちゃってんだよ〕 はまさに岡村靖幸の叫び
次の 〔人生がんばってんだよ〕 も同様だが、これは岡村靖幸のみならず、''ちゃんと生きてる人達を代表した叫び'' の様でもある。
そこに 〔一生懸命って素敵そうじゃん〕 という、若者達のあっけらかんとした呟きの様なフレーズが来る。
「素敵だよね」 ではなく、「素敵そう」 という濁し方がポイントだろう。
「○○そう」 「○○っぽい」 という様な濁し方が多用されていたあの当時、''曖昧'' を意味する 『ファジー』 という言葉も流行った。
とにかく ''曖昧に濁して核心を逸らす'' というのは言葉遊び的なものであったのだが、それが一般に浸透すると、''大事な事ですら濁して明言しない'' という逃げ口上的な若者言葉にもなってしまった。
「良い」 と感じたものを 「なんか良さげじゃない?」 と濁して表現するのは、もしそれが否定された場合に、自分自身の価値観を批判されたと受け取らずに済む 『逃げ』 である。
とにかく否定されたり拒絶される事を恐れる若者達の背景には、『自分の無さ』 という裏付けがあるのだ。
表面的な部分に固執するあまり ''中身の無い人間'' になって行き、自分という存在に自信も確信も無いのである。
故に傷つくのを極端に恐れ、逃げのスタンスで生きる事が当たり前になっている訳だ。
これもまた、今現在にも通じる事じゃないだろうか。

さて、同じくサビのリフレインが続くのだが、〔一生懸命って素敵そうじゃん〕 の部分が、今度は 〔ベランダ立って胸をはれ〕 という締めになっている。
これは岡村靖幸の言葉であり、メッセージだ。
つまり、Bメロの部分で 「筋書き通りに事を進めてマンション買うぜ」 息巻いてた奴に対し、「そんなのホントにマンション買ってから言いやがれ!」 と一喝しているのだ。
言い換えるなら、「そんな自信満々に胸張って言えるのは、実際にマンション買ってからだろ?」 という事だ。

3コーラス目のBメロ、〔俺達きっとなんだかんだ言って宿題なんぞ投げ出したい そんで流行の雑誌で生きかた定めて ファッション〕 とある。
ここでいう ''宿題'' とは、それぞれの役割やノルマの事だろう。
仕事や学校、家事なんかもそうだが、みんな ''すべき事'' を抱え、毎日それをこなしている。
だけど、いくら完璧にそれらをこなしていたところで、それ自体はみんな同じ条件だから別に褒められる訳でもないし、本心はそんなもの全部投げ出して、もっと好き勝手にやりたいのだ。
必死こいてまで ''自分として'' 生きたりなんかせず、雑誌やテレビといったメディアが提案するライフスタイル・・・ ''他人が示す生き方'' に準じて生きた方がよっぽど楽に決まってる。
つまり、表面的な生き方をし、上っ面だけで生きた方が、痛みや苦しみは少ないのである。
でも、そうしない。
生きるってのはそういう事じゃない、楽な道を選んでく事が正解じゃない・・・という事実。
でも、明らかに他人が示す生き方を選び、「よし、こうしよう」 と生きてる奴らが世の中にわんさと居る事に対し、「どぉなっちゃってんだよ」 と、岡村靖幸は苦言を呈した訳である。
実に真面目に・・・真面目すぎるほど真面目に現実を受け入れ続けていた岡村靖幸は、結局その現実に押し潰される様にして、ドラッグへとのめり込んで行ったのだろう。
悲しいかな、ズル賢い人間ほど生きるという事には巧みなのである。

17. チャーム ポイント
 1995年 Album 『禁じられた生きがい』
軽快なリズムのポップナンバー。
バンジョーやらピアニカらしき音のせいもあり、若干カントリーっぽい。
表舞台での活動が止まる前の実質的な最後のシングルであり、歌詞の世界観はやはり難解

この曲も社会風刺的の色合いが強いのだが、一つの事柄と言うよりは総体的な社会風刺といった感じで、様々な事柄に対して物言いをつけてる
個人的に面白いのは、Aメロの 〔熟年ヌードのムードが 僕には Hey!girl! 消化不良すぎる 毛だってもっと隠せよ 今でも初恋憶えてるなら〕 という部分。
実は、米米CLUBのアルバム曲にも 『THE HAIR』 という ''熟年ヌードブームに対して苦言を呈する楽曲'' があって、そのアルバムもやはり1995年発売だったのだ。
米米の方では 「何か言いたいことがあるとするならば! 芸術を利用しないで下さい!」 とハッキリ言い切り、更に 「ここできっぱりと私は言います! あれでは抜けません!」 という追い討ちで笑わせてくれた。
岡村靖幸の場合は、それと少々主旨が違い 「女だったら、歳食ったって最低限の恥じらいぐらい持っとけよ!」 というニュアンスの様だ。
ツッコミとしては、岡村靖幸の方が若干優しい点が、実に ''らしい'' 部分である。

さてBメロだが、この曲では単独だと少し難解さがあるので、1コーラス目と2コーラス目を同時に取り上げてみる。
まずは1コーラス目の最初、〔まだ受験の試験中で テレクラ嬢になってる ベルのコールが 授業終了のチャイムとデュエット〕 と歌われている。
次に2コーラス目の最初、〔今は便利×3 便利そうな 防火レストラン デミグラスのシチューをお湯で戻してる〕 となっている。
どちらについても言えるのは、「これが社会の現実だ」 という事を表しているもの。
1コーラス目では、十代の女子学生がテレクラ嬢として客を取り、それは本業であるはずの学生生活を責っ付くほど、彼女にとって生活の一部である・・・という現実。
2コーラス目は、技術進歩によって防火対策が万全となったレストランなのにも拘らず、火で調理せずに湯煎するタイプのシチューを客に出している・・・という不条理な現実。
どちらの現実も、岡村靖幸にとっては首を捻ってしまう現実なのである。

さて、1コーラス目にも2コーラス目にも共通したBメロの続き。
〔だけど電気館の向こうで定期のドロボウに会った日 僕がバス賃代渡したら 「ありがとう」 って受け取ったよ〕 となっている。
どちらも前半とはあまり繋がりが無い様なフレーズになっていて、状況の把握が難しい。
そもそも、この ''定期のドロボウ'' が謎だ。
しかも、「定期ドロボウに遭った日」 ではなく、「会った日」 である。
この定期ドロボウは知り合いなのか? それとも単なる誤植で、 「遭った」 が正確な表記なのか?・・・実に判断が難しい。
ただ、続くフレーズに 〔バス賃代渡したら〕 とあるので、ここは単純に誤植として捉えた方が良さそうではある。
つまり、定期泥棒に遭って困っていた時、バス代をあげたらお礼を言って素直に受け取った・・・と解釈するのが妥当だろう。
で、問題は・・・誰が?という部分だ。
なんせ、この曲には主人公とヒロインという様な固定の登場人物は居ない。
なのに、唐突にバス代を受け取る人物が登場し、それについての説明は無い。
当然、「誰!?」 という疑問は出る訳だが、ここで踏まえるべきはBメロの構造である。

最初のブロックで 『社会の現実』 を示し、次のブロックでは明確に繋がりの無い 『バス賃代』 の事を歌っている。
これは恐らく、''関連性など最初から無い'' と考えるのが自然だろう。
つまり、最初に 『社会の現実』 を示した上で、「でも、困ってる時に助けてあげたら、素直に感謝してたんだよ」 という別の現実を比喩として出しているんじゃないだろうか。
「こんな世の中に価値は無い」 という諦めではなく、「だからって、素直さが世界から失われた訳じゃないよ」 という事を表したかったのかも知れない。
仮に、定期泥棒に遭ったのが十代の学生テレクラ嬢で、これからまさに客と会う為に移動しようとしてたんだとしても、困った時に助けて貰えば素直さを見せる事だってあるんだ・・・と。
それを 「根っこから腐ってる奴ばかりじゃない」 と取るべきか、「まだまだ救う余地も希望もある」 と取るべきかは解らないが、とにかく岡村靖幸は、人々や社会の中に希望を見出したかった様に思える。
それを 『希望』 という言葉ではなく、『人それぞれの魅力』 として取り上げた結果が 『チャームポイント』 というタイトルの理由に思えて仕方無い。

サビにおいて、〔今は気付けない君の見所〕 〔まるで秘密の素敵な小島〕 という表現がある。
どちらも ''今現在は見えない''''辿り着けていない'' にせよ、確実に希望を感じさせるものだ。
それらを得る為に魅力を全て知り尽くしたいと歌っているところに、岡村靖幸のポジティブな姿勢が窺える。
ただ、それは、自分に言い聞かせる為のポジティブシンキングである様にも思えるし、絶望しない為の強引な思い込みの様でもある。



さて、以上で楽曲毎の解説やポイントは終了。
少々無理な解釈もあったかも知れないが、面白ければそれで良い。
検索で色々と調べてみても、岡村靖幸の世界観を深く掘り下げている人ほとんど居ない様なので、こういった取り上げ方はレアで面白いんじゃないだろうか。

という訳で、思いつきで ''Respect'' という企画を始めてみました。
今後も気が向いたら誰かしらをピックアップして、無駄に語ろうかなと。
「誰かについて語る」 という以外は何も決めてないという ''無鉄砲な企画'' なので、これは何一つ期待とかしちゃダメなやつです、えぇ。
次がいつで、誰を取り上げるのかも決めてません。
ってか、お約束的に下書きでボツになるパターンが多そうな企画だな~と我ながら・・・w



※ 2017年11月 加筆・修正 及び、再編集の都合による記事分割