作り手の敵 | weblog -α-

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なんとな~く  思いつきで  好き勝手に  (=゚ρ゚=) ボヘー  っとやってます。


「立ち位置による違いを考慮せずに判断すべきではない」

という様な主張を俺はあらゆる事柄に関して何度も言って来てるけど、またそれを言うべき出来事がありました。
例の、ゴーストライター問題ですよ。

まず、事のあらましから。
被爆二世にして聴覚障害者の作曲家として注目を浴びていた佐村河内 守氏。
主にクラシック音楽の作り手として各メディアで取り上げられていた氏だが、去る2月6日、桐朋学園大学非常勤講師である新垣 隆氏の記者会見により、これまで佐村河内氏の作品として発表されたものは、18年前から新垣氏がゴーストライターとして作曲していたものだと明かされた。
又、新垣氏の見解によれば、佐村河内氏の 「全く耳が聴こえない」 という事に関しても、「そう感じさせる事は一度も無かった」 との事。
この記者会見での告白により、佐村河内氏の 『作曲家』 という点については勿論、『全聾の聴覚障害者』 という点についても疑念が抱かれる事となり、今後の成り行きに注目が集まっている。

・・・という訳で、この問題はあらゆる方面に波紋を広げてますな。
新垣氏のコメントが全て事実なのであれば、各メディアが大々的に取り上げていた人物の事だけに、間違い無くかなりの大問題になるでしょう。

まず確認しておかなければならないのは、現時点で事実であろうと言い切れる事は、佐村河内氏は作曲をしていなかったという点のみ。
聴力障害に関しては、あくまで新垣氏の主観で語られたものであり、その真偽についてはゴーストライターの件と別に考えなければいけない事柄。
無論、新垣氏の言い分に信憑性が高いのは踏まえた上でだが。


さて、ここから俺の主観も織り込みつつ語ります。
まず、今回の騒動が持ち上がった時点での俺の見解としては、「明らかに胡散臭い奴が実際に胡散臭い事やってたって話なんだから、大騒ぎしすぎだよ。」 でした。
うん、(さほど興味無い人に関して)下手に誤解招く発言する必要もないんで特にコメントはしてなかったけど、佐村河内という人については当初から 「胡散臭いやっちゃな~」 と俺は思ってました。(ビジュアル的な部分だけの事じゃなくね)
わりとそういう勘は鋭いってか、恐らく無意識に洞察力が働いてニオイを感じ取ってるんだと思うんだけどもね、なんか上手く言い表せない違和感みたいなのを感じるんですよ、その手の人達には。

今回の場合、一応は新垣氏の言い分しか正式に出てないからアレだけど、恐らく新垣氏のコメントのほとんどは事実なんだろうなと踏んでます。
新垣という人だって充分に胡散臭いけど、もし魂胆があるとしたら、単純に金とか作曲家としての社会的認知ぐらいのもんだろうなと。
その点で言えば、金だけじゃなく名声や地位を欲したんであろう佐村河内氏の方が悪党ですよ。
まぁ、名声とか地位の問題じゃない部分で気に食わないんだけどね、俺なんかは。


話は少し逸れるけども、ゴーストライターって括りは難しいんですよ、実は。
それこそ大昔から作り手の世界では当たり前にあった事だし、それ自体が絶対的な悪とも言い切れないし。
古くは絵画の世界、ルノワールやらゴッホやらゴーギャンやらと有名な画家が大勢居るけれども、彼らの中には模写によって画力を上げた者が居たり、大物画家の弟子として画風を学んだ者なんかが居ます。
当然、お題よりも模写の方が優れた絵になったり、師匠よりも優れた絵を描く弟子が出たりする事もある訳です。
ともすれば、模写や弟子の絵が 『本当の絵』 として扱われてしまう事もあり、そこに報酬や契約があったとすれば、事実に蓋がされてしまうのも不思議ではなくなります。

物書きである作家はどうでしょうか。
例えば、日常会話でたまたま出たフレーズをそのまま作品に使ったり、友人や知人の話、飲み屋で何の気なしに聞こえて来た話でもいい、そういったものをそのまま作品で使った場合、果たしてそれは罪なのか否か。
「お前ちょっとさ、なんか最近あった面白い話でもない?」 と尋ねて聞かせてもらった話を作品で使うのは、盗作やゴーストライター騒動とどれほどの違いがあるんでしょうか。
それに、原稿は出版社でチェックされ、編集者によって細かな手直しが入ったり、細かなニュアンスの訂正がされたりもします。
そのせいで作品の印象が全く違ってしまったとしても、著者の表記が変わる事は無い訳ですよ。

今回の騒動が起きた音楽業界。
個人差もあるし今は多くないだろうけど、曲のイントロや間奏、エンディングなんかのフレーズを具体的に作ってたのって、実は作曲者として書かれてる人物じゃなく、編曲者(アレンジャー)だったりする場合が多かったんです。
つまり、『頭から最後まで完全に作り上げる事=作曲』 ではなく、単純に曲の本編部分さえ作れば充分に 『作曲』 なんです。
それを例えるなら漫画の世界が一番似てて、作者である漫画家がネームから下書きからペン入れから背景からトーン貼りから・・・と全部の工程を描いてる例は極端に少ないですよね。
連載を何本も持ってる有名漫画家なんかは特に、忙しくて細かく描いてる暇なんか無かったりする訳で、ほぼ大半をアシスタントが仕上げまでこなしてるってのは珍しくない話。
つまり、作画監督をする事が漫画家の主な仕事になってるという訳。
実際に我々が目にする仕上がった絵を描いてるのが本人じゃないとなれば、アシスタントはゴーストライターと言えなくもない。
けど、それを悪だと責めるバカは居ませんよね。

とまぁ、こんな風に物作りの世界においては、どこまでがセーフでどこからがアウトだっていう線引きが非常に難しいもんなんです。
今回のゴーストライター問題について、「法的には鼻歌の1フレーズでも作っていれば共同作曲者にはなり得る」 みたいな話も出てたけど、ハッキリ言ってそういう問題でもない。
何故なら、芸術の分野に限って言えばだけど、実際に本人が作品を作っていない場合であっても、作品制作のアイデアを出してさえいれば、それはアイデア自体が作品と見なされて然るべきだから。
これは解り辛いから例を挙げましょうね。
特に現代アートなんかは、アイデア自体を作品と見なすアプローチが多い訳ですよ。
例えば、大きなキャンバスを用意して床に置く。
その上に絵の具を踏ませた猫や犬といった動物を歩かせて、全く意図的ではない構図の模様が描かれる。
それを一つの絵画として見なした場合、実際に模様を描いたのは動物達であってアーチストじゃない訳だ。
だから、厳密に言えば絵の作者は動物達って事になる。
でも、そのアイデアはアーチストによるもので、作品を手掛けたのは紛れもなくアーチスト自身。
さて、それでは完成したその作品は、一体誰のものですか?・・・という話。


新垣氏の会見後、恐らくは新垣氏からの提出であろう楽曲の指示書が公表された。
それは佐村河内氏の手書きによるもので、確かに細かく楽曲イメージの指示が書かれてはいたが、具体的なフレーズの一つも無ければ、音符一つすら書かれていないもの。
無論、それを以って 『楽譜』 だとは言えるはずもないし、具体的な音階の指示も無しに 『作曲』 だとも言い難い。
つまり、幾らそれを基に楽曲が完成したからと言っても、佐村河内氏が 『作曲者』 を名乗るのは明らかに筋違いな話。
楽曲アイデアとしての 『作者』 を名乗る資格はあっても、『作曲者』 を名乗る資格は微塵も無い。
設計図しか描いてない人間が、完成した家を指して 「これは僕が建てました!」 なんて言ってたら、そりゃ実際に建てた大工やら内装業者から吊るし上げ食らって当然ってもんです。

新垣氏は、守秘契約を交わした上で佐村河内氏から報酬を受け取ってた事も明かしてる為、今回の暴露は契約に反する汚い行為だという見方もある様子。
契約書があるのかどうかは知らないけれども、確かに約束を破って秘密を暴露した訳だから、単純に言えばそれはそれで裏切りですわな。
けど、秘密の暴露ってのも絶対的な悪じゃない訳で、その内容とタイミングが重要なんだと思うんですよ。
例えば、もし暴露したのが無差別大量殺人計画だったりすれば、みんな声を揃えて 「よくぞ言った!」 って称賛するでしょう。
今回の件は人の生き死にに直結した事柄ではないけども、長期に渡って大勢の人達を欺いてたのは事実だし、取材やら公演やらで相当の報酬を貰ってたのも事実なんだから、魂胆はどうあれ、歯止めを掛けたという点において評価すべき事だと思いますよ。
まぁ、暴露するなら佐村河内から貰った700万、会見の場で積み上げて、「これは返します」 って堂々とアピールする必要があったとは思うけど。


クラシック音楽って、聴く人は聴くけど、聴かない人は全く聴かないジャンルだよね。
難しいとか格式高いって印象を持ってる人も多いだろうし、感覚的に 「良いな~」 と思っても、「ここが良い!そこが良い!」 って明確に言い切れる自信無いから、「クラシック好き」 だとも 「クラシック聴きますよ」 とも言い辛かったりね。
そもそも、作曲家も曲数も多すぎて何が良いのかも解んないし、やたら長くて眠くなっちゃうし・・・ってな人も少なくはないでしょう、きっと。
俺は中学の頃に少しだけクラシックにハマってた時期があって、わりと節操無く色々と聴いてましたよ・・・主にレコード盤で。
まぁ、そもそもはモーツァルトのある交響曲が好きで、そのタイトルが解らなくて探す為に聴き始めたんだけどね。

今回の件で音楽評論家みたいなどっかのおっさんも言ってたけど、クラシックってのはポップスとかロックなんかのポピュラーミュージックと作り方が違うんですよ、基本的に。
勿論、そういった一般的な曲と同じ様に作る人も居るんだけど、大抵は音楽理論に基づいた作曲法で作り上げてくもんなんです。
つまり、ロックとかポップスみたいな鼻歌一つから幾らでも作れちゃう感覚的な音楽ってのと違って、クラシックはもっと方程式みたいなもんに則って、理論尽くしで構成してくものだって事。
その辺りの違いがあるから、ポピュラーミュージックを 『軽音楽』 って見下した様な言い方する訳ですよ、日本では。

まぁ、そんな訳で、クラシックを作曲するってのは言うほど簡単じゃない訳です。
単に思いついたメロに伴奏を付ければOKってもんじゃない。
だからこそ試行錯誤をしながら時間を掛けて一曲を書き上げる訳で、そんな面倒で大変な作業を思いつきみたいにサクサクこなせたからこそ、モーツァルトは神童と呼ばれて、モテモテの大天才として伝説の男になってる訳ですね。

さて、そんな理論尽くしで繊細なクラシックの曲を、全く耳の聴こえない人が作れたらどう思うか。
そりゃ当然、「すげぇ!」 って事になる訳です。
そもそも佐村河内氏にスポットが当たったのもそういった理由があるからで、今回の暴露によって作曲してない事実が明らかになったのは、もはや詰みと言っても過言じゃない事。
曲作りをしてないなら、耳が良かろうと悪かろうと全く無意味なんですよ、つまり。
それはただ単に 『耳の不自由な人』 に過ぎなくなってしまうから。
この上、実は聴こえてたなんて事になれば、それこそ自殺でもしなきゃ逃げ様もないでしょうな。
今頃、海外逃亡の準備でもしてるんでしょうかね。


新垣氏について、結局は売名行為だって言ってる人も居るみたいだけど、俺はそれならそれで悪い事じゃないと思う。
だって、実際に今まで曲を作ってたのは彼な訳だし、前述した様にクラシックはおいそれと作れるもんではない訳だからね。
会見で、今までゴーストライターした楽曲の著作権は放棄するとも語ってる訳だし、今後を見据えて出て来たんであれば、それは作り手として過去にケジメをつけた訳でしょ。
これから実名で楽曲を発表出来るからって、ああいった登場の仕方をした以上は風当たりが強いのは充分に理解してるだろうし、その上で作り手として曲を作り続けるって意思があるんであれば、その事自体を責める事なんて誰も出来ませんよ。
言っても、彼の罪は佐村河内氏のインチキの片棒を担いだという事だけで、作品そのものに対して嘘はついてない。
作り上げた作品を売り渡した後の事は興味無かったなんて言ってた様だけど、ホントにそうならその曲が評価されようが嬉しく思ったりはしない訳で、やっぱり愛着なり思い入れがあるからこそ、他人名義でも評価が嬉しかったりする訳ですよ。
作り手は請け負った仕事をこなしたに過ぎなくても、やっぱり自分の作品を一番大事に思ってるもんだからね。
作り手には作り手にしか解らない、作品に対する姿勢ってのがあるんです。

新垣氏が暴露するきっかけとして挙げたのは、フィギュアスケートの高橋大輔が、ソチ五輪用に自分の曲を選んだ事だと言ってたけど、世論的には 「タイミング悪すぎ」 って意見が大多数だと思う。
確かにタイミングが良いとは言い難いし、理由としても弱く聞こえるけど、そこに関しては、作り手だからこその思いってのが多分に含まれてるから、普通の受け手でしかない一般の人達には余りにも解り辛い事なんだろうなと思った。
冒頭で触れた 「立ち位置による違いを考慮せずに判断すべきではない」 というのはここに掛かっていて、つまりは、作り手と受け手では立ち位置が全く違っていて、作り手でなければ考えない様な事、解らない部分ってのが絶対的にあるんですよ・・・って事。
大多数が受け手であるという現実からすれば、これは理解して貰えなくて当然と言える事なんだけど、率直に語ったからこそ、そういった都合悪いはずの事まで語ったんじゃなかろうかなと、俺はそう感じ取りました。
決して彼のした事を擁護するつもりはないけど、一作り手として姿勢を正したという点に関しては、同じ作り手として理解はします。


かつて、まだMTRでデモ音源を作ってた頃、俺は小学校時代からのツレに自分の作品を利用された事があります。
簡単に言うと、俺が作った曲をさも自分が作ったものの様に偽って、どこぞの女を口説く材料に使いやがったんです、そのツレは。
勿論、それは俺に無断での事で、女を抱けて調子に乗った奴が、事後報告として俺に白状したんですね、数日後に。
奴の事は元々それほど信用出来ると思ってなかったけども、夜な夜な一緒になって遊び歩く程度には信用してました。
けど、その件があって以来、俺は奴に対する態度というか、スタンスを変えた訳です。
俺を利用する目的で近くに居るんであれば、俺も利用するだけの事。
少なくとも、「こいつは味方じゃないな」 って認識になるのは当然ですよね。
で、その後も奴とは遊び歩いたりしてたけども、俺は自分が損する事を一切しないという態度で接してましたよ。
普通に話すし、普通に遊ぶけど、もう根本の部分で全く信用してませんから、打算的にしか関わる気が無い訳です。

その後、奴はまた俺の作品を利用しようと曲作りの話を持ち掛けて来て、今度は奴の魂胆が解ってた上で俺はそれを引き受けました。
奴が持ってたシンセを俺の家まで持って来させて、そのまま数日貸しとけって言ったり、奴の持ってたリズムマシンを半永久的に貸しとけって注文をつけましたよ。
言うなれば、それが俺の報酬みたいなもの。
奴は作曲の事なんてちっとも理解してないし、シンセを持ってたってカッコつけだけで全然弾けもしない。
音符どころか音楽記号の意味だって解っちゃいなかったでしょうな。
でも、俺が作ったデモ音源を使って、自分が手掛けたぐらいの大嘘を並べて、そんな嘘を見抜けない女を抱いて喜んでた訳です。

俺個人としては、奴を哀れなバカだとしか思わなかった。
嘘をエサにしなきゃ女も口説けないのかと。
利用してるつもりが、お前の方がよっぽど俺に利用されてんだぞとね。
ただ、それはそれでバカ男のバカな話で済んでても、作品というものに対しての俺の思いは複雑でもあったんです。
つまり、どんな経緯があっても作品は俺のもので、紛れもなく俺が一から作り上げたもの。
出来の良し悪しはあっても、自分が作った作品には愛着がある。
そんな愛着のある作品を、奴なんかの為に使うのはやっぱり忍びない部分がありました。
それは、俺が作り手だから思う事なんです。
作り手じゃない人達には絶対に解らないであろう、作品への思いがあるんです。

作り手にとって作品は我が子同然なんて事を言いますが、実際に子を持つ親として想像してみて下さい。
我が子が他人の嘘に利用されたらどう思うのかを。
そりゃ、子供に怪我も何も無くたって腹が立つってもんでしょう。
それと同じ様な思いが、作り手にはあるって事なんですよ。
作品を金や物と引き換えに売り渡したって、その瞬間に作品に対する思いが断ち切れる訳じゃない。
誰の物になったって、どんな使われ方をしたって、作品は作品、自分の作り上げたものなんです。

そういった感覚を解らずして、踏まえずして、作り手の事を解った風に言うもんじゃない。
受け手でしかない人達には、絶対に作り手の感覚や思いなんて解りっこないんです。

今回のゴーストライター問題、じきに真相が見えて来るでしょうが、俺は受け手でしかない佐村河内氏が、作り手である新垣氏を長年に渡り利用した・・・という構図にしか見えません。
どちらにも罪はあるにしても、そもそも作り手の事なんて解りっこない佐村河内氏が、作り手を利用したという点において許し難いと思ってます。
その感覚や価値観という部分で、佐村河内氏は社会的に淘汰すべき人物だと認識するし、それはもし実際に障害者だったとしても何も変わらない。
障害者である事にも疑惑が強まってるんだから、とっとと警察が動いて犯罪者なのかどうかを明らかにして貰いたいところですな。