ブログネタ:体罰撮影はあり?なし? | weblog -α-

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体罰撮影はあり?なし? ブログネタ:体罰撮影はあり?なし? 参加中

私はあり派!


結論から言えばアリ。
っていうか、別に面白がって見ないでしょ、そんな映像は誰も。
仮に体罰なりイジメなりの動画を撮った側が面白がってたり、ある意図を持って撮影したとしても、肝心なのはそれを見る側がどう思ってどう判断するか
つまり、『動画を撮る』 って行為自体にどんな意図があったとしても、映像そのものに記録されるのは善悪を別にした 『事実』 でしかないって事。
データ社会とも呼べる今の世では、昔なら 『その場限り』 だった事もデータとして簡単に記録が可能になってる。
良い事も悪い事もデータとして 『事実』 を残せる。
出すべき事実も出すべきではない事実も沢山ある中、ああいった体罰の様子だとか、イジメの実態であるとか、その手のものは映像としてショッキングであるとしても、やっぱり現実を現実として多くの人々に認識させる為の手段として必要だよね。
「それが事実であるならどうすればいいのか」 っていう動きが生まれる事によって、少なくとも 「それって正しい事?」 みたいに改めて考えるきっかけにはなる。
勿論、それは必ずしも正解に辿り着くとは限らないけども、良いも悪いも慢性化して疑念を抱かなくなる事こそ、人として最も恐ろしい事だったりするんで、改めるきっかけになる事ならばそれは必要な事だよね。

今でもそうだと思うけど、金融関係の役職は転勤が頻繁だったり、一般企業でも経理担当は異動やら転勤がお約束だったりするんだけど、それって結局、大金を動かす仕事を毎日こなしてると、感覚的に少しずつ麻痺してきて、横領やら着服やらって犯罪行為に対する抵抗感が稀薄になるかららしいのね。
要は、それも慢性化する事による感覚の麻痺を懸念しての事ですよ。
つまり、人ってのはそういう生き物で、種としての適応能力の高さが悪い方に働く場合もある訳ですな。
だからこそ、どんな小さな社会であっても時折は外の風を入れてやる必要があるし、客観視点でどう見えるのかっていう確認もコンスタントに必要なんでしょう。

まぁ、体罰問題に関しては、伝統みたいな感覚がやってる側にもやられてる側にもあったりするから、そもそもの意識改革が必要なんじゃないのかなと思うね。
警察の取り調べも録画するのが当たり前になった時代だし、体育館にもあくまで防犯名目の監視カメラが当たり前に設置される時代も来る様になるのかもね。
でも、わざわざ現場の動画を公開しないとアクションを起こさない様じゃダメで、道理として現場に居る人間が当たり前に制止させるとか注意しないのはおかしな話。
お前らは何の為に言葉覚えたんだ?って問い詰めたくなる。

これだけ体罰が問題視されて注目されてる最中、平然と公の場で体罰レベルの暴力を振るうとかさ、それはもう、無理矢理に庇ったところで完全に頭おかしい行為でしかないよね。
騒動が起きる前とか、ギャラリーの目が無い場所だったってんならいざ知らず(それだったらOKって事ではないけど)、今このタイミングでそれをするか?っていうね、そういう常識の無さ自体が一番の問題点だと思うわ、体罰そのものよりも。
要は、人として余りにも未熟であったり不向きである者が、どうして指導者になんかなれるのかっていうところ。

でもね、スポーツみたいに白黒が明確に出る世界では特にそうなんだろうけど、結局は世の中全般における 『結果主義』 みたいなもんが根本原因になってるんですよ。
体罰問題のコメントでも必ず出て来る、「成果は上げていた」 という点。
コーチであるとか監督といった指導者の場合、そこに求められるのは結果であり成果。
つまりは試合に勝つ事であるとか、実力の向上が見受けられるのであれば、それを正しいと見なす総体的な価値観がある訳だよね。
プロセスは大して気にもせず、とにかく結果を出せ、成果を見せろという部分に固執する。

確かに結果は大事。
勝負の世界なら勝つ事が本意な訳だしね。
でも、勝つ事にのみ結果や成果を求めるのは愚か者でしかなくて、勝ちにも負けにも学べる者こそが優秀なはず。
そういった優秀な人々を育てる事こそ、優れた指導者たるものだろうと。
つまり、結果主義の指導者なんて、幾ら成果を上げたところで優秀であるはずがないし、そもそも結果主義を持ち出す時点でダメなんですよ、最初から。

体罰動画は今後も増える様な気がするけど、それで騒ぐだけじゃなく、そこをきっかけにして総体的な価値観を少しずつでも改善して行かないとね。




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