Respect:岡村靖幸・その1 | weblog -α-

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岡村靖幸は、80年代後半にブレイクしたシンガーソングライターである。
ただのシンガーソングライターではない。
いわゆる 『誰しもが認める天才アーチスト』 である。



◆成功と堕落◆

80年代はアイドルを中心として歌謡曲が台頭した時期。
そんな中からPOP色Rock色をそれまでよりも強く打ち出したアーチストが輩出され、後にJ-ROCKJ-POPと呼ばれる流れが生み出された。
そんな流れの中、一際異彩を放っていたのが岡村靖幸である。

デモテープ持参で自らレコード会社にプロモーションを掛け、19歳でコンポーザー(作曲家)として裏方デビューを果たした岡村は、当時 EPICソニー(現 エピックレコードジャパン)の若手としてスポットが当てられていた渡辺美里や、新鋭マルチタレントとして既に人気を博していた吉川晃司等への楽曲提供で才能を発揮していた。
その後、自身もソロアーチストとしてデビューすると、楽曲面だけではなく、ダンス等の派手なパフォーマンスにも注目が集まり、マルチな才能個性派アーチストとしての独自性が認知され始める。

90年代に入り、一流アーチストとしての地位を確立した岡村靖幸は、その派手で濃いパフォーマンス故、広く ''キワモノ的な扱い'' をされていたものの、また別の一部ではアイドル的な支持も得ていた。
しかし、そんな上々に見えた活動にも陰りが生じ、90年代後半以降、楽曲提供プロデュース業等の表舞台に立たない活動が主流となる。

2003年、覚醒剤取締法違反により懲役二年、執行猶予三年の判決を下されるが、初犯という事もあり、その事実は公表されずに表舞台へと復帰を果たすも、デビューから所属していたEPICソニーからは追放

二年後の2005年、再び覚醒剤使用により逮捕
所属事務所からは身を引き、ファンクラブやオフィシャルサイトは閉鎖。
執行猶予期間中の再犯によって実刑となり、アーチスト活動は完全停止
岡村は収監される。

2006年に出所後、アーチスト活動を再開するも、二年後の2008年、再び覚醒剤取締法違反で逮捕
薬物による三度目の逮捕となり、懲役二年の実刑で服役。

2010年に服役を終えて出所。
翌年からアーチスト活動を本格再開し、現在に至る。

経歴だけを見ると、岡村靖幸は ''ドラッグ依存の救い難い人'' に見えてしまう。
度重なる薬物使用の逮捕歴は、ファンであろうとも庇い様の無い最低な事実であり、岡村靖幸を一社会人として見た場合、どうしたってマイナス要素になってしまう。
しかし、『アーチスト・岡村靖幸』 を語る上で決して欠かせないのは、''彼は天才的な才能の持ち主だ'' という事である。
その才能を確信している人が多いからこそ、岡村靖幸は ''見捨てられても仕方無い様な状況下でも、再び這い上がるチャンスを与えられた'' と言って良いだろう。
まるで 「罪の償いなら活動で示せ」 と言わんばかりに。



◆天然と計算によるキャラクター◆

岡村靖幸は、いわゆる ''貧乏人の出'' ではない。
『坊ちゃん育ち』 と一概に言って良いものかどうかは難しいが、下町辺りの貧乏長屋の子とは全く違う環境で幼少期を過ごしたのは間違いない。
そんな育ちの良さが、ここまで色濃く出ているアーチストも珍しいだろう。
顕著なのは、世間一般とは明らかにズレた価値観ナルシスト振りだと思う。

「岡村靖幸と言えば?」 と訊けば、当たり前に 「あぁ、ナルシストだよね」 と返ってくるイメージが強い。
率直に 「なんか気持ち悪い」 なんて言われ方もしたが、決して悪意が無かったとしても、あのなんとも言えないクセの強さ万人ウケするタイプのキャラクターではなかっただろう。
実際、当時の俺も受け入れ難かったし、周囲の友人達も同様だった。
しかし、言うなればその ''気持ち悪さ'' こそ、岡村靖幸というアーチストのカラーであり、最大の魅力でもあった。
何と言うか・・・『クセになるクドさ』 とでも言うのだろうか。
珍味やブルーチーズの様にハッキリと好みが分かれる魅力、それこそが岡村靖幸の持ち味だと例えれば、多少解り易いかも知れない。

岡村靖幸のナルシスト振りは、初期の楽曲を聴くのが一番解り易い。
歌詞に 「靖幸ちゃん」 と自分の名を入れてみたり、「俺ってイケてるでしょ?」 と言わんばかりのフレーズが満載だったり・・・とにかく絶対的な自信を持ってる人なのがありありと解る作品だらけ。
その自信がどこから来るのかよく解らない点もポイントで、「一体この人は何なんだろう?」 と思ってる内に ''岡村ワールド'' へと引き込まれてしまうのだ。

80年代当時、岡村靖幸は比較的 ''好青年な印象を受けるビジュアル'' で、わざとらしいアイドルスマイル等の濃厚パフォーマンスさえしなければ、普通に一般ウケするアーチストになっていただろう。
しかし、その一見して余計な演出こそが 『岡村靖幸の岡村靖幸たる部分』 であり、セルフプロデュースという意味では、どこまで確信犯だったのか解らないにせよ大成功だったと言える。
気持ち悪がられようと、キワモノ扱いされようと、岡村靖幸は ''唯一無二の存在'' として認知された。
才能がズバ抜けているだけに、拒絶はされても否定はされない事が強みだった。
「なんか変だけど、歌は好き」 という評価が増えた為、その濃いキャラクターはさて置いて、アーチストとしての評価でファンが増えた部分もかなりあるだろう。


◆アーチストとしての在り方◆

岡村靖幸の歌は、いわゆる ''ヘタウマ'' の部類だ。
決して音痴ではないし、リズム感なんかはむしろ素晴らしいのだが、歌自体の上手さを聴いている側にあまり感じさせない。
あくまで ''感じさせない'' のであって、下手な訳ではない。
「そういう歌い方なんでしょ?」 と言ってしまえばそれまでだが、きっと意図的に変化させていった結果 ''岡村節'' になったのであって、下手さが一周して上手く聴こえるってのとは訳が違う。
恐らく、「絶妙に下手っぽく歌ってる」 というニュアンスが的確なんじゃないだろうか。

そして楽曲だが、これがまた天才的な音の詰め方をしていたり、いちいち細かい部分に拘って作り込んでいるのがよく解る・・・少なくとも俺はだが。
自分で曲のミックス等をやってみないと解り辛い事だろうが、岡村靖幸の楽曲はとにかく緻密なのだ。
無駄な音が多い楽曲というのも世の中には多いが、岡村靖幸の作品には無駄が無い
いや、正確に言えば特段必要の無い音だらけなのだが、空いているスペース全てに音を配置する事で、一つのモザイクアートを完成させている様な感じなのだ。
ここ数年、''デコなんちゃら'' という、ケータイやら小物やらにオリジナルのデコレーションを施す若者文化が広まったが、岡村靖幸の楽曲というのもそういった表現に近いのかも知れない。
そしてそこに、''岡村靖幸の神経質さ'' が表れている。

岡村靖幸の印象として、''完璧主義者'' というのも挙げられがちだろう。
しかし、彼がガチガチでギチギチな完璧主義とは思えない。
もしそうなら、遊びの無い定型的な表現しか出来なかっただろうし、キワモノと呼ばれるほどの個性も表せなかっただろう。
確かに、彼の描く青写真神経質過ぎるほど計算し尽されているのかも知れないが、いざ実際の作業となると、岡村靖幸というアーチストは ''用意した青写真をどう壊すか'' という事しか考えない人の様な気がする。
勿論、表現方法が出尽くした感のあるアートの世界では、全くゼロから新しい何かを創り上げるより、既存のものを壊す事が主流になっているのだが、岡村靖幸は ''その壊し方から遊んでしまおうとする人'' なのだと思う。
今ではそれすら珍しい事でも無くなったが、80年代当時の日本では充分に画期的な事だった。

緻密に積み上げた積み木の城は、どんなに苦労して作っても壊す前提のものであって、どんな風に壊すかを楽しむ為には、手抜きせず、ちゃんと積み上げないとダメ・・・という事なんだと思う。
それを 『無駄』 と捉えるのは極めて普通で常識的だが、その無駄な手続きにこそ必然性を感じるのがアーチストという生き物なのかも知れない。



◆純然たるエロスと幸福観◆

岡村靖幸を語る上で欠かせないエッセンスと言えば、なによりも 『エロ』 であり、『SEX』 だろう。
岡村作品は、やたらとエロい
歌詞だけではなく、歌い方や語り、楽曲中の音にすらエロ要素が散りばめられている。
しかも、当時の他のアーチスト全体と比較したとしても、極めて露骨である。
ただ、そのエロ要素は、いわゆる世間一般で言う 『大人の世界』 のエロではない。
確かにエロ要素は ''大人のもの'' と認識されているが、岡村ワールドのエロとは、大人エロと言うより、10代後半から20代半ばぐらいまでの ''青年誌的なエロ'' なのだ。
つまり、''どこか幼稚さを残したエロ'' なのである。
だからこそ露骨にもなるのだろう。

例えば、昔からおっさん連中は、本屋やコンビニで堂々とエロ雑誌やグラビアを眺めていたが、10代~20代半ばぐらいまでの若い頃というのは、そういった行動に少々抵抗がある
何も悪い事をする訳じゃなくても、エロに過剰反応する余り、妙に意識して恥ずかしく感じてしまったりするものだ。
でも、興味はおっさん連中なんかよりもずっとあって心身共にエロを欲していたりする
それはある種の情熱であり、活発な本能的衝動である。
さて、そんな性欲旺盛な青年がSEXを覚え、リアルな性的快楽を知ったとする。
すると、大抵はバカなほどSEXに開放的なスタンスとなり、仲間内の童貞君に ''SEXの素晴らしさ'' を語って聞かせたがったりするのである。
「お前、あの子と付き合ってんだろ? 早くヤッちゃえよ」 なんて性欲主義的アドバイスを耳にする機会が増えるのも、大体その頃ぐらいからだろう。

そんな童貞卒業の勢いが落ち着きを取り戻した頃のエロというのが、岡村ワールドのエロ基準だと言って良いだろう。
つまり、童貞を捨てて大人振ってるけど、実は大して大人になれていない価値観のエロなのだ。
「経験あるの?」 なんて訊かれれば、ヘラヘラ笑って認めるだけじゃなく、「つい昨日だって、週末にクラブでナンパした子とさぁ・・・」 なんて自慢げに付け足してしまう幼稚さである。
ところが、岡村靖幸という人のエロの価値観は、単純にそれだけではない。

岡村靖幸は、良くも悪くも根が素直で正直だ。
恐らく、そのせいで苦悩が絶えない人生だっただろう・・・今はどうか知らないが。
その素直さや正直さは、直結でエロに結び付いたはず
岡村靖幸は ''エロでSEX大好き人間'' だが、それと同じぐらい純愛を求めているのが解る。
いや、岡村靖幸的には、エロやSEXは ''純愛に含まれる必然要素'' なのだ。
世間的な価値基準から言うと、''純愛は潔癖'' で、エロやSEXは ''不純の代表'' みたいなもの。
それに対し、岡村靖幸は 「そんな訳ないじゃん?」 という姿勢を貫いている。
そして、そのスタンスは実に正しい

最近になってようやく少しずつ認識も変わりつつあるが、やはり日本人にとってのSEXは、過度にタブー視されてきたものだ。
しかし、SEX無しで子孫は残せず、あくまで種の存続の為にSEXしたとしても、そこに快楽はある。
望もうと望むまいと、好きだろうと嫌いだろうと、生物である以上は性から逃れられず、本能的に備わっている欲望や衝動からも逃れようがない。
要するに必然であり、否定のしようがない。
ならば、それを極端にタブー視する事の方が異常なのであり、人に感情がある以上、好意の延長線上にはSEXという要素があって当たり前である。
恐らく、岡村靖幸もそういった概念を前提にしていたからこそ、エロやSEXという要素がラブソングには必要だと感じたんじゃないだろうか。
そう考えると、岡村靖幸が純愛を求めていたという点についても理解が出来るだろう。

岡村靖幸の歌詞の中には、''結婚'' というキーワードがよく登場する。
それは単純明快に ''岡村靖幸の持つ結婚願望の表れ'' であり、いわゆるベタな ''幸せな家庭像'' に結び付くものだろう。
そう、岡村靖幸という人は、タブーを露骨に表現する変わり者でありながら、物凄くベタに、結婚や子供、家庭というものに憧れている人だった。

ねぇ、僕と結婚しようよ。
結婚してハネムーンに行って、南の島で一日中愛し合って、子供作ろうよ。
ねぇ、僕が一番君を幸せにしてあげられるのに、どうして頷いてくれないの?
こんなキス、僕以外、誰にも出来ないのにさ・・・。


岡村靖幸の主張は、要約するとこんな感じのものが多い。
恐らく、まさにそういう思いが、岡村の中には常にあったんだろう。
自信家のナルシストだけに、その思いは人一倍強かったはずだ。

現実的に言うと、岡村靖幸の主張は自己中で、女性が結婚を意識しようと思える言い分ではない。
恋愛なら刺激的で良いかも知れないが、結婚するには面倒なタイプだとすぐ気付くだろう。
「こんなに愛してるのに!?」 と、岡村靖幸は過去の恋愛で何度思っただろうか。
「それってあなたの幸せでしょ? 私のじゃないよね?」 と言われてしまうのが必至の価値観。
残念ながら、当時の岡村靖幸にとっての ''純粋な愛'' とは、相手にとってみれば ''純粋ではあっても、愛では無かった'' のだ。
「俺は魅力的な男じゃん? ほら!ほら!」 と才能をいくら見せ付けても、女性が岡村靖幸に求めているものは、いつも ''結婚'' ''幸せな家庭'' では無かったんだろう。
そこでの恋愛的挫折が齎した女性不信の様な価値観が、歌詞で主張される 「俺なら幸せに出来るんだぜ!」 というものに反映されている気がしてならない。
少なくとも、''単なるスケベな女好きの主張'' なら、ああはなっていないだろう。


当時の岡村靖幸の恋愛感は、ファンというフィルターを通して見たとしても、やはり幼い
少年であり、青年である。
「好きなあの子と手を繋いで帰りたい」 と小学生の頃に思った様に、岡村靖幸も好きな人と手を繋いで歩きたいと思い、キスしたいと思い、SEXしたいと思う。
きっと、手を繋ぐのも、キスをするのも、SEXするのも、岡村靖幸の中では ''極めて自然体で同レベルの行為'' なのだ。
''好き'' だから、結婚して、子供を作って、幸せな家庭を作りたい・・・それもまた、昔ながらの日本人ベタな価値観であり、子供が思い描く様な幸福像である。
だから、岡村靖幸の恋愛感が反映された歌詞は、大人である主張のエロがありつつも、根本に少年の未熟さや可愛らしさが感じられる。
それでいて自信満々だからこそ、尚更に子供っぽいエッセンスが含まれてしまう訳だ。
なんと言うか・・・''背伸びして大人振ってるハタチの感性'' とでも言うのだろうか。

「人として成長してない」 とか、「未熟だ」 と言ってしまえばそこまでだが、それは一先ず置いておこう。
とにかく、そのバランスや価値観が、岡村靖幸というアーチストの最大の魅力になっている事は間違いない。
そして、そんな彼だからこそ、物凄く純粋で、突き刺さる様なフレーズも多く書けたのだろう。
聴き手のこちらが大人になるほど、岡村靖幸の世界観は、リアルとファンタジーの融合が面白い。
それは「意図的にそうした」 というより、岡村自身の中にある価値観を表現したに過ぎないという事が、興味深く魅力的なのである。


-その2へ続く-



※ 2017年9月~11月 加筆・修正