ここ最近の発想放電2 | weblog -α-

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なんとな~く  思いつきで  好き勝手に  (=゚ρ゚=) ボヘー  っとやってます。


・まだ原発がローコストだと公共の場で平然と言う政治家が存在する件。

TVの報道系番組で、「結局のところは原発ってローコストなんです」 と、とある政治家が平然と言っていたのには呆れた。
原発がローコストというのはもはや幻想に過ぎず、311以降のこの現実世界では、原子力発電そのものに掲げられていた看板が全てデタラメだったと国民の大半が思っている。
故に、控え目にしか報道されない反原発デモの参加者が増加傾向にある。

火力や水力、風力といった従来型の発電に比べ、原発は燃料のリサイクルによってローコストで環境にも優しく安全な発電が行える・・・という事になっていた。
上記した政治家も恐らくはその事を言ってたんだろうが、その理屈はもはや微塵も説得力を失くしているという事実が何よりも重要だ。
青写真どおりならば実際にローコストで環境にも安全性にも長けた発電方法なのかも知れないが、福島原発の事故によってそれが机上の空論でしかない事を世界中の人々が認知してしまった。
何が最も問題だったのかと言えば、原発の謳い文句が危機想定を全く無視したものでしかなかった事。
言わば、リスクコストを含めずに算出した見積もりでしかなかった訳だ。

原発による発電は確かにローコストかも知れない。
ところが、現実にこうして事故が起きてしまえば、見通しが立たないほどの復興費用が掛かり、許し難い規模の損害と損失、多くの人命と肉体的・精神的負担が国民に圧し掛かっている。
原発は 「事故起こしました。すいません、すぐ潰します。」 って話じゃない。
問題の福島原発なら、廃炉に約40年は掛かると見込まれていて、その間にまた自然災害による被害が出ないとも、何かしらのトラブルによる被害が出ないとも限らない訳だ。
つまり、今すぐ全ての原発を廃炉にしたとしても、廃炉の手続きが完了するまでの数十年間は現状と大して変わらないリスクだという事。
現実に原発が各地に存在している以上、このリスクというのは既にどうしようもない。
どうしようもない・・・が、せめて先の世代に同じ経験をさせまいと思う人達が、脱原発を訴えてる大半の人々だと思う。

現実的な話、日本において脱原発というのはまずあり得ない。
これは全国民が納得しないまでも理解すべき事。
核兵器の保有が許されていない日本において、原発を無くすというのは国防的な面から見ても絶対に無い話だ。
正直なところ、下手な原発を動かし続けて東電の様な役人体質上等なクソ企業に手綱を任せるより、核兵器を兵器として慎重に管理してくれてる方がよっぽど安全性は高いと思う。
まぁ、それこそあり得ない話になってしまうんだが、それほどまでに原発に対する危機意識は高まってるのは事実。
というか、そもそも東電がしっかりとしていたら、原発事故なんて事態には恐らくなっていなかったという事が肝心なのだ。
要は、人災という要因があまりにも大きすぎる事が国民の不安に直結していて、その部分の改善や見直しが不十分に感じられる事が、不安や憤りを更に増幅させているって事なんだと思う。

事故を起こした東電の体質が、この期に及んでも著しく酷い事はそこらのバカでも見りゃ解るレベルだが、他の地域の電力会社だって中身は全て同じである。
つまり、電力会社という組織自体が大問題であり、そんな組織が命取りになる様な原発という施設を管理している事も大問題であり、これほどの大事故を起こしてもそんな組織を潰せないという事実も大問題な訳だ。
そして、それなら政府がなんとかするのかと見てみると、奴らは奴らで相変わらず椅子取りゲームに興じていて、原発はローコストだとまだ抜かしているアホも居る。
世が世なら日常的にテロが起きていても不思議じゃない事態だが、平和主義なのか平和ボケなのか、日本人はようやくデモが本格化してきた頃合という程度に止めている。
決してテロ等を支持するとかじゃないが、どうにも俺には違和感を覚えずにいられない。

俺という人間は、ともすれば危険思想で差別的な非善人だから、どちらの側に対しても支持出来ずに苛立ってさえいる。
例えば、国が滅びかねないほどの事故を起こした組織は、末端まで含めてあらゆる形での責任を取るべきだと思うし、その事故の原因となったものは、事故を起こした時点で頓挫したプロジェクトとして一旦白紙に戻すべきだと思う。
国民の声を反映させる気の無い政治家は死刑に値すると思うし、そもそも政治家という存在自体の必然性を疑わせる様な政治家なんて、もはやテロリストと何も違わないとしか思えない。
要するに、神の力さえあれば消し去ってしまう奴らが五万と居るって事だ。
実に危険思想ではあるだろうが、そんな結論にさせてしまう側に問題があるのは誰の目から見ても明らかだと思う。
まぁ、幸か不幸か俺は何の力も持ち合わせてないもんで、実際には何も出来やしないけどね。
ただ、誰を捻じ伏せる事が出来なくても、どこに答えがあるのかは知っている。
知っているからこそ、下手に動けないのも事実だが。


・人である根拠が重要。

原発ローコスト発言をする政治家の事をツイートしたら、見ず知らずの人からリアクションが付いていた。
プロフを読んだ限りではそれなりにマトモな人らしかったが、タイムラインを流し読みすると政治的な意見が多く、原発関連の事や政治家の動向について興味を持っているのは明らかな様子。
俺のツイートに対する文面も至ってマトモな意見で、極端に偏りのある人でもなさそうだった。
という訳で、ここからは決してその方に対してどうこうって話じゃない事は予め言っておく。

前々から真面目な意見なんかも俺はツイートしているから、たまにはそれにリアクションがあったりはする。
けど、基本的に見ず知らずの人とああいった場で接点を持つ気はないし、そもそもTwitterという媒体の基本は読み物だと認識しているので、誰かの意見に対して何か思ったとしても、それをそのまま相手に振ってみたりはほとんどしない。
感じたものは自分の中の意見にも感情にもなるだろうけど、それをそのまま出す事を好しとするのは危険だと俺は思ってる。
勿論、他者から刺激を受けて自分の意見が生じる事は目的とする部分だし、その相手に対して言いたい事みたいなのが出る事も多々ある。
けどね、やっぱり自分のフィルターを通したものは自分の意見として完成させないと意味がない。
それこそ、原発反対って言ってる人の意見に乗って 「俺も反対!」 って言うのは簡単。
反対だという意見が自分のもので、同じ様に反対だとする人を支持するのが悪いとは言わないけど、賛成と反対というごく表面的な部分だけで群れようとするのは安直過ぎやしないかと。
実際、俺も原発に反対のスタンスではあるけど、そんな単純に 「反対だ!」 と声を荒げたりは出来ない。
なんでって、そんな簡単な話じゃないと知っているから。
知ってしまう事でおいそれとは言えなくなる事もある。
それに、浅はかな連中と一緒にされるのは御免被るしね。

結局、誰の言葉や意見に刺激を受けたとしても、それをどう処理してどこに着地させるかは自分次第な訳だ。
もしも刺激を受ける事になったツイートに返信して、「俺はこう思います」 ってな意見を述べたとしても、そのどこに意味があるのかと言えば、自分がどう思ったのかをリアクションした事じゃなく、自分が刺激を受けたという一点のみなのである。
リアクションなんかしなくてもとっくに自己完結している事で、それでもリアクションしてしまうのは、自分という存在の主張に尽きてしまうのだと思う。
まぁ、それが悪いって事ではないけどもね。

それを踏まえて言うと、何かしら偏った意見ばかり言う人や、何かしら決まったテーマにばかり反応を示す人ってのが俺は苦手だ。
その意見やリアクションが非常に正論で理解出来るものばかりだとしても、例えば政治なら政治にばかり固執して意見を述べる人なんかは、意見ではなくそのスタンスに 「何か違くね?」 と感じてしまう訳だ。
まぁ、そこに興味があるんだから仕方無いと言えばそれまでなんだけど、なんと言うか・・・遊びとか余裕が感じられないほどテーマに固執するのも違う気がしてならないのだ。

俺なんかはこういう奴だから、基本的にはくだらないツイートばっかりしてる。
極めて解り辛いネタであるとか、バカネタであるとか、下ネタとか・・・まぁ、そんなのがほとんどなんだけど、気になるネタがあればシリアスにもなるし、そこらの大学出でも難解であろう事とかだってツイートしてたりする。
それがありのままの自分に近いからそうなってるだけだけど、それって決して俺だけが特殊って事ではないはずなんだよね。
要は、人間ってそういう生き物でしょ?って事なんだけど・・・解り辛いかな、これは。

例えば、政治に関する事ばっかりツイートしてても興味があるならそれで良いとは思うんだけど、ログを掘り返しても政治関連の発言しか見当たらない人って客観的に見てどう思いますか?って話なんだよね。
果たしてそれが真面目なのか?真剣な証なのか?っていうね。

それぞれにそれぞれの人生があって、その人生に巻き起こる大小様々な出来事や事柄を綴るのがブログだったり日記だったりしてたけど、今はそれらを比較的リアルタイムで発信出来るツールとしてTwitterがあったりする訳よね。
じゃあ、政治に興味ある人だからその人の人生には政治絡みの出来事しかないのかと言えば、決してそんな事は無い訳で、だったらどうして政治にしか反応を示さないの?って感じるのは極めて当然だと思う。
そこしか発言したくないってスタンスの人も居るとは思うけど、そうじゃなく、気付くとそればっかりになっちゃってる人の割合の方が多い様に見える訳ですよ、俺には。

これはもうネット社会って枠の話になっちゃう事なんだけど、どれだけ便利なツールが普及して標準化されてっても、その向こう側には人が居て、キーを叩いてる自分と似た様な環境が無数に存在してるって事実が基礎。
って事は、顔が見えない、素性が知れないからって人間性まで隠すのは過剰なんだよ。
ちょっと解り辛いかも知れないけど、人間なんだから人間らしい振る舞いを表現する事も必要だって話で、意見を述べて主張するだけじゃ、他人はあなたを人として信用なんてしませんよ?って事。
それこそ、いくら正論を言う人であってもね。
『ちゃんとした意見を持つ人』 を主張する前に、『ちゃんと人間』 である事の主張の方が大事。
人ってのはそこにハートを求めるもんだから、多少歪んでたって血の通った人である事を認識させないと話にならなかったりする。
それは相談事なんかでも根っこに置くべき事だったりするんだけどもね。
『人』 ありきでの主義主張。
己の正当性を示したいなら、まず人である根拠を示さないといけなくて、ネットみたいな特殊環境では特にその根っこの部分が重要になる・・・という事。


・ズルいのも苦手。

上記した様に、テーマに固執してそればっかりの人はどうかと思うけど、中にはその逆みたいな人達も居る。
つまり、日常的な出来事や感情みたいなのはツイートしてるけど、ことシリアスな話や意見に対しては無視を決め込むというのかな・・・それが全て故意だとか悪意だとは言わないけど。
俺はそういう人なんかも苦手。

いやね、自分には理解出来ないテーマだからとか、難しすぎて下手な意見言えないってのは解る。
それはある意味で己を知ってるというか、自分の未熟さを認識した上での配慮として考えれば、賢明な選択とも言えるかも知れない。
けど、得てしてそれを逃げ口上に使ってる輩も多い訳だよね。
例えば、未熟なら未熟なりに思う事はあるはずで、意見としてまとめるには上手く整理がつかない事だってあるとは思う。
それでも、現状で自分が思う事とか感じた事を発言しないのはズルいよ。
だって、それ以外の事だと冗舌なまでに語ってたりするんだから。

自分が見たくないものを見ない様にする人ってのは居るし、それは若い層に限った事じゃない。
怖いから見ない、嫌いだから見ない、気が滅入るから見ない・・・とまぁ、理由はそれなりにあるだろうけどもね、社会生活を受け入れといてそのスタンスは甘ったれすぎじゃねぇの?と。
現実はいつだって皮肉で残酷だから、目を背けたくなる瞬間は多々ある。
けど、背けたところで現実は何一つ変わったりしないのも事実でしょ?と。

例えば、目の前で人が殺されるとして、目を背けてその瞬間を見ない様にする事は出来る。
だけど、それで何が解決するのかって事なんだよね。
それが通り魔みたいなもんだとするならば、自分が次のターゲットにされるかも知れないし、それは見てなければ避け様もない。
自分が被害に遭わずとも、その犯人の顔や特徴を知っていれば早期解決に結びつくかも知れないのに、目を背けた事によって何の情報も得られないかも知れない。
そのせいで被害者が次々と増える可能性だってある。
勿論、これはあくまで仮定の話だから、いざそんな場面に出くわしたら反射的に目を背けるかも知れないし、それが悪だとか愚かだとは言わない。
ただ、意図的に見ないという行為は、あくまで保身でしかないって事が重要。
君子危うきに近寄らずだからって、保身を第一に考えるなら君子どころか卑怯者にしかなれないでしょ。

実体験として、昔常連だったチャット部屋でもシリアスネタになると黙るタイプの奴は居た。
内容は政治でも知り合いの相談事でも何でもいいんだけど、とにかく真面目に語る様な流れになると、途端に喋らなくなってテーマが変わるまで一言も発しないとかね。
そりゃあそういう気分の日じゃない事だってあるけど、毎度毎度そんな感じなのは気分の問題じゃない訳でね、結局 「こいつは信用ならんな」 となってしまう。
もっとも、余計な事ばっかり言ったが為に信用を失くした奴だって居たけどもさ。
言ってみれば、そうやって余計な一言の恐怖が発言をしない理由だったりもするんだろうけど、基本的に真面目な話ってのはそのリスクを承知の上でするから意義がある訳でね、上っ面の意見だけぶつけ合うつもりなら最初からしない訳だよね。
やっぱり、シリアスになるからにはシリアスにならなければよりリスキーだって理由もあったりする訳だから、その土俵に上らないで尻込みしてく様な奴とは、人としての深い付き合いなんてしようと思えないやね。
でも、そこでいつも尻込みしてる様な奴が、別のタイミングではやたらと自分を主張してきたりする事が多いんだ、これが。
それはさ、やっぱりズルいでしょ。

決して一緒に群れてどうのって話ではない訳で、各々が各々の人間の部分を再確認する事が実は目的だったりするのに、それを拒否しといて 「俺は人間です」 って言われてもね、そんなの単なる自称に過ぎない訳ですよ。
俺なんかは差別も区別も極端な方だから、こいつダメと思ったらずっとダメ。
そこには感情論も含まれるけど、判断はあくまで根拠ありきだからね、俺がダメって言うんだからダメなんですよ、大抵。
ってか、実際に一時期は 「あんびが嫌うんだから何かあるんでしょ、そりゃw」 みたいな会話がされてたりもしたみたいだし、少なくとも俺を知る人は俺の判断に相応の根拠がある事を知ってた訳よね。

ネットを始めてからは顕著に他人との接点が増えて、顔や声も知らない人から何度も顔を合わせてる連中まで、今まで相当の人達を俺なりに見てきた。
昔なら毛嫌いしてたタイプが今では比較的許せる様になったり、警戒アンテナが反応する奴は高確率で警戒すべき奴だと根拠を持ったり、単純に歳を食っただけじゃない経験はそれなりに増えたけど、やっぱりズルい奴は嫌い。
いや、接点持った以上は絶対に素を見せろとは言わないけど・・・ってか、そんなん勝手に見えちゃうのが俺なんだけど、やっぱり人間関係を構築する上で最低限見せ合うべき素顔ってのはあると思う。
つまり、ずっとベールで顔を覆ったままじゃ腹割って話せませんよと。
極端に解り易く言うなら、マスクマンのプロレスラーと知り合いになって、何度も食事したり遊ぶ様になったのに、いっつもマスク被ったまま来られたらどう思いますか?と。
いくら良い奴だったとしても、そんな奴との付き合いはキッチリ一線引くのが当然でしょ。
いや、普段はそれでもまだ良いとして、今日はちょっと腹割って話しましょうよって日ぐらいはマスク脱げって話じゃん。
それでも頑なにマスクを脱がない理由が 「ポリシーだ」 って言われてもさ、そんなんテメェだけの問題だろうがって事なんだよね。
要は、そこに 『他人』 という要素が無いんだな。
自分のみで世界を成立させようとしてるそのスタンスで、他人様に何を主張する気なんですか?とね。

序盤に言ったとおり、未熟なら未熟で良いし、怖いなら怖いで良い。
肝心なのはコメントの内容云々じゃなくて、どのスタンスで社会や他人と向き合っているのかが見えるかどうか。
そこに本質が見えるからこそ、リスキーでありながらも意義や意味がある。