ここ最近の発想放電 | weblog -α-

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なんとな~く  思いつきで  好き勝手に  (=゚ρ゚=) ボヘー  っとやってます。



・優秀な心理学者は絶対に劣悪な人間関係の中に居ないという事。

本当に優秀な心理学者であれば、他人を意図的に操作する事なんてさほど難しくはないはず。
となれば、その周囲に都合の悪い存在をいつまでも留めておくはずがなく、操作する事によって排除するであろうという事。
つまり、何らかの突発的な要因などによって不都合が生じない限り、周囲の人間関係においてベストであろうポジションを確保しており、それを失う様な事が無い様に立ち回っているはず。


・「あの人、優秀な心理学者なんだけど、いつも一人で居て気味悪いのよねぇ~」 なんて事はまず無いって事。

小説とかドラマであってもおかしくないシチュエーションだとは思うが、実際に優秀なのであれば、極めて特異な印象を抱かせる様な真似は絶対にしていない。
仮に本質として奇人変人の類であっても、『優秀な心理学者』 という括りであるならば、その本質を晒すリスクは当然理解しており、基本的に凡人を演じるはず。
但し、そこを逆手に取ってあえて変人振りを晒す人も居るとは思うが、その変人振りはあくまで 『変人を演じている』 のであって、その人物の本質的な異質要素とは異なる場合がほとんどだと思われる。
何故なら、本質に近い変人振りを演じてしまう事によって、不意に素が出てしまうリスクが圧倒的に高まるから。


・『天才は天才を自覚しているか否か』 にも通ずるところ。

「天才は自分を天才だなんて言わない」 と昔から言われるが、自称しないからと言って自覚していないという事ではない訳だ。
と言うより、その程度の事を自覚していなければ天才であるはずがない。
天才は己が天才だと知り得ているから天才なのだ・・・とも言える。
自覚はあれども自称しないものかどうかは、個人差でかなりの違いが出るだろう。
メリットやデメリットをその場で判断し、都合の良い選択をするのはまず必然。
日常的に 「我は天才なりー!」 と誇示しているタイプの天才でも、「天才を見かけたら殺してやる!」 なんて事を言っている奴が目の前に居たら、その口を閉ざすに違いない。
結局、自称するかしないかは決定的に言えるものではない訳だが、世間一般としてはその部分に重点を置いた見方をしているから間抜け極まりない。
と、この話は件の心理学者の話にも通じる部分なのである。
本当に優秀かどうかは言動に出てしまうものであり、極めて優秀でなければボロが出て程度が知れてしまう。
本当に天才かどうかも同様で、言うなれば、同じ天才であっても天才の上と天才の下では確実に差があるという事なのだ。
まず、『天才』 や 『優秀』 といったものが絶対的頂点を意味するものではないという事を理解しなければ始まらない。


・邪魔者はとりあえず斬り捨てる件。

しばらく前からフォローされていた見知らぬ奴が居て・・・って、Twitterの話だけどもね。
で、知らん奴だから一応はそいつのプロフ見たりTLのログを読んでみるじゃないですか。
どうもね、そいつはお利口さんタイプというか、いかにも秀才タイプだけど、友達少なくて女にはあまり好かれないタイプの理屈人間というか・・・まぁ、偏屈な感じは露骨に出してましたよ。
んで、俺もちょいちょい時事ネタとかでは社会風刺的なコメントをするし、辛辣な物言いもへっちゃらでするもんで、たま~にそういうちょっとおかしなタイプの奴からフォローされてたりするんです。
一応はどんな感じの奴かチェックぐらいはするものの、基本的にブロックとかってしないんですよ。
言っても俺自身が変わり者だしね、変な奴だから気持ち悪いって言い切れるほどの根拠でも出て来ない限りは好きにさせときます。
大概は一週間とかそこらでフォロー解除して居なくなるし。

さて、その偏屈小僧・・・仮にKとでもしときますか、そのKに対してもこれまで同様、フォローに対して何のリアクションもせず、単にチェックだけしてほっといたんです。
先日、たまたまなんだけどそいつの最近のTLを眺めてみたんですね、どんな発言をしたいのか、してるのか・・・みたいなもんがよく解らんままだったんで。
と、そんなTLに埋もれてた1ツイートがですね、どうやら俺のとある発言に対してのKの意見みたいだったんですね、これが。
ホントはコピペして載せた方が解り易いんだけど、それはちょっとやめときます。

で、俺の発言というのは、例のオウム事件の高橋が逮捕された件についてのもので、内容としては世間一般の見方とはかなり違う感じで書いてたんです。
それを受けて書いたと思われるKのコメントというのが、どうにも俺は解せなかったというか、それって違うだろというか、焦点ズレ過ぎちゃっててただの野次みたいにしか見えなかったんですな。
要は、そもそもとっくに終わった事件だろと。
だから俺の言わんとしてた事がどうであろうと、Kにとっては全く以ってどうでもいい事だと、そういうコメントでした。
まぁ、そりゃKの個人的意見ですから、そう思うのは勝手だし、知ったこっちゃねぇって思ってる人は少なくないでしょうよ、確かに。
ただね、だったらなんでツイートする必要があるのか・・・って部分なんですよ。
勿論、俺に対しての返信で正式によこしたコメントではないし、そういう意味で言えばケンカを売りたい訳じゃないのも解る。
でも、どうでもいいって自分で言ってる訳だからね、そのどうでもいい事をわざわざ公表する必要はないし、少なくとも俺の目に触れる可能性が高い場所に平然と残すべきもんじゃないでしょーよと。
Kの歳が幾つかは知らないし、どんな奴かも詳細には解りませんがね、こいつは大人じゃないな~ってのはそこで判断つきました。
いや、実年齢どうのじゃなく、人としての未熟度という意味でね。

オウム事件と一言で言っても色々とあったけども、やっぱり代表的なのは地下鉄サリン事件ですよね。
かなりの死傷者を出した戦後最大の無差別テロ事件ですよ。
確かにもう古い事件なんだけどもさ、我々世代にしてみれば鮮明に記憶に焼き付いてる大事件なんですよ、あれは。
家族が、友人が、親戚が、知り合いの誰かがもし被害に遭ってたら・・・とあの時考えたんですよ、我々。
それに、俺はその暫く前まで通学で千代田線を使ってて、時間帯も全くズレてたりはしなかったって理由もありました。
勿論、俺はあの場に居なかったし千代田線にも乗ってなかったけど、もしほんの少し人生の方向性を変えていたら、あの場で死んでたかも知れない。
そうなんですよ、他人事なんかじゃなかったんです。
現にあの時、報道を見ながら同じクラスだった奴らが被害者になった可能性もあると考えました。
そういった思いありきであの報道をリアルタイムで眺め、その後のオウムの顛末を見て来た者としてはですね、「あんなのとっくに終わった事件だ」 なんて簡単に言えないんです。
同じ様な思いの人々が沢山居るからこそ、高橋逮捕の事だって大袈裟なまでに報道されるって一面があるんですよ。

他人事じゃないと感じたのは俺自身の問題で、オウムは過去の事件でしかないと感じる人も大勢居るでしょうよ。
それを否定はしないし、冷血だとも思わない。
事実として過去の事件だから。
ただね、俺が発言する以上、そこには上記した様な経緯や理由ってもんが土台にある訳ですよ。
そういった背景ありきで発言するから個としての意見も違いがある訳でね、他人のコメントを拾って来て発言する以上は、下手に適当なコメントなんかするもんじゃないんですよ。
それに、オウム事件は過去のものであっても、高橋らが捕まったのは今の話。
「過去の事件だから奴らが逮捕されても今更だ」 なんて理屈は無いよ、常識を持ち合わせた社会人なのであれば。
それを平然と言ってしまう辺りが無責任さを含めて稚拙さを感じさせる部分だし、時事ネタやらであれこれ理屈をごねて批判的なスタンスを気取りたいだけにしか見えない。
お前はテレ朝の報道局かとw
いわゆるバカではないし、あらゆる事柄に精通して賢さアピールしたいんであろう心理は解るけど、ツバ吐くなら時事ネタぐらいに止めとくべきだと思いますね、Kの様なタイプは。
恐らく本人が思ってるほど賢い訳ではないんですよ、要は。
なんというかな・・・一般のレベルが3とか4ぐらい平均の中、10に到達した自分は大天才ぐらいに思い込んで調子乗っちゃってるんだな、きっと。
ところが、レベルの最大値は10どころか100も1000もあるんだよ、バーカ・・・っていうね。

Twitterってのは当初から意図がよく解らないツールで、使い方もスタンスも明確なもんじゃないなと感じた訳なんだけど、こうして浸透してから眺めてみると、いわゆる今時の人達が好むであろうツールなのは解りました。
無責任に発言しようが、他人の意見や思想にケチつけようが、自分のフィールドが確立されてるからそこで自由を主張出来るって保険があって、「あくまで個人の主観です」 ってテロップを常に出しながら好き勝手言える様な場所ですよね。
まず逃げ道を確保する事から段取りをつける今時の人達にはうってつけというか、いい加減さやデタラメ振りを見逃して貰えると勝手に思い込んでる輩がほとんどなんじゃないかとすら思えます。
でも、誰にクレームつけられなくとも、ダメなもんがダメなのは変わんないんです、社会に準じたものである以上。

Kが悪人なのかと言えば、そうではないんでしょう、きっと。
単純に自信過剰で柔軟性を欠いた、よく居る 『お利口さん』 なだけだと思う。
別に批判したくて俺のコメントへのリアクションをツイートしたんじゃないだろうし、本人は極めて個人的意見を述べたつもりなんでしょう。
事実、Kはそこらの人達より賢くて視野も広く、それなりの知識を持ち合わせている様子でもあったから、全く的外れな事ばっかりコメントしてる訳じゃないのかも知れない。
ただ、他人を他人として意識するという部分が欠落してるのは事実で、その事を自覚していないというか、恐らくちゃんと出来ているつもりでいるんですよ、彼は。
本来なら、他人を意識出来ないのに他人と関わるべきじゃないんだけども、自覚してなければ自制もしませんわな、当然ながら。
という事は、結果的に彼は他人から排除されるべく他人と接点を持ってる様なもんなんですね。
いかに正論を述べようが、面白い見解を示そうが、自分ばかり意識した社会性の持ち主は、嫌われないまでも他人から好かれやしません。
実際、俺もKを嫌ってフォローを切ったというより、こいつはどうも好きじゃないし、今後もそうだろうなって部分で判断しましたから。


・無知は罪である事実。

何事においても、恐るべきは 『自覚が無い』 って事ですよね。
殺人衝動に駆られた人間が殺人を犯すってのは確かに怖いけど、本人が無自覚のままで殺人を犯す事の方がもっと怖い。
いや、それは極端にしても、嘘だと知らずに嘘を広めてしまう事だとか、悪意無く評価したもので恨みを買ってしまうなんて事は誰にでも起こり得る訳ですよ。
後々になって事情や経緯や原因が解ったところで、それが解決に結びつくとは限らない訳だし。
つまり、『知らないもんは知らないんだから仕方無い』 というのは、あくまで言い訳にしかならなかったりする訳です。
だからこそ下手に口を開かないってスタンスの 『賢明』 な人々が居たりもするんでしょうが、それはそれでどうなの?っていうか、少なくともそういうスタンスの輩が俺は一番嫌いだったりします。
姑息でいやらしいんですよ、そういった輩は大概。

世の人達は基本的に無知です。
それは頭が悪いとかって事じゃなく・・・いや、それも含めてだけども、見るべきものの事や知るべき情報を得ずとも不都合なく暮らせるシステムが構築されてるからなんですね。
例えば、そうだな・・・JFK暗殺のシナリオを知らずとも何の不都合もない様に、世の中には知らずともいいとされてる情報が本当は凄く多いんです。
知らずともいいってぐらいだから、知らなくても生きて行けるんですよ、勿論。
だから知ろうとする人だって当然少ない訳です。
でもね、じゃあ誰が知らなくていいって言ってんの?って話なんです。
むしろ、どうして知らなくていいとか勝手に決めちゃってんの?って思いません?

社会にはルールが必要ですよね。
善悪の区別を明確にするだとか、どこまでが許されてどこからが許されないなんていうものさしを解り易く提示する必要がある。
それと同様にというか、それに準じた感じで決め事も沢山作られてる訳です。
例えば、ヤクザは悪者だらけの組織で、警察なんかは正義の味方ってバッヂが付いてます。
ここで 「ヤクザは人助けしませんか? 警官は犯罪を犯しませんか?」 なんて言うと屁理屈になってしまうんだけども、平たく言うならそういった事ではあるんです。
果たしてヤクザがどれほどの悪なのか、警察がどれほどの善なのか、それを測るものさしは誰が持ってるんでしょうね。
つまり、我々はヤクザが悪で警察が善という固定観念のみによって判断している場合が大半で、その本質について追求なんてしないんです。
それって、本当のところなんて知る必要はないとされてるからなんですよ。
警察が善でヤクザが悪? いやいや、とんでもない。
警察とヤクザは結託してますからね、大昔から。
どちらも悪って見方は出来るとしても、警察が善だなんて事はあり得ないんです。
要は組織としての規模の問題で、国家権力を持つ警察組織は、言うなれば何だって出来てしまうという事。
組織にとって都合の悪い存在を意図的に消したりもしてますよ、当然。
考えて見て下さい、いわゆる犯罪行為を行うとして、最もそれが巧みにこなせるのはどんな存在か。
ヤクザやチンピラじゃなく、法の番人たる警察組織なんですよ。
庶民を守る為の組織とされている警察が、実は法を掻い潜るのに最も好都合なものとして組織されている事を、世の中のどれだけの人が認識していますかね。
つまり、こういった事実が 『知らずともいい事』 とされ、一見しただけでは窺い知れない様、ベールに覆われている事なんです。
勿論、これはほんの一例で、社会というのはそういった事だらけで構成されているんです。
白が白で、黒が黒だなんてのは思い込みでしかないんですよ。

知らないというのは簡単で、実際に知らなかったのであれば 「知らなかった」 なんだけども、知らなかったから潔白だとは言い切れないのが現実なんですね。
知ろうとしない事は見ようとしない事、目を向けようとしない事なんです。
つまり、知ろうとしなければ知り得ない情報だらけの世の中において、知らないという事は罪に等しいんです。
いや、知らないという事実を知らないままでいる事が罪・・・と言うべきですかね。
知ろうとしないのは情報の放棄ですから。
かと言って、なにもかも知ろうとするのは危険なんだけど。
「知らない方が幸せな事もある」 なんて言うけども、まさにそのとおりの現実はゴロゴロと転がってます。

知らない方が幸せならば、何も知らないのが一番妥当に思えてしまうところですが、それは愚かでしかない。
つまり、どこまで知るべきかというのが難しい訳です。
その 『どこまで』 を明確に言う事は残念ながら出来ないけども、世の人達が盲目に等しいほど知るべき事を知らずにいるのは確かです。
一歩二歩踏み込んで判断した結果が善であっても、その裏側を知る事によって善とは言い難いものにしか見えなくなる事がある。
その逆も然り。

天使にしか見えない悪魔や、悪魔の振る舞いをする天使が居て、どちらが善で悪なのか混乱してしまうのは仕方無いけども、根本的な目的を辿ったりすると本質はわりと容易く見えたりもします。
その上で判断した結果こそが 『個人の意見』 ってもんなんです。
好き勝手言うのが個人の意見だと勘違いしてる輩が多い世の中だからこそ、己がしっかりと見据えたものを答えとすべきですよね。
今の世で誰かを叩く行為を見てると、まるで魔女狩りを楽しんでいる様子。
悪意ありきなら悪趣味な愚か者共だと思うだけだけども、完全に正義だと信じてそれをやっている人達も大勢居るのが恐ろしいところです。
まさしくそれは、『自覚無き悪意』 そのもの。
極端な言い方をするなら、しっかり考えずに物を言う人間は、悪人にこそなれども善人になんて絶対になれっこないって事です。