今書いているのは、単なる「フィクション」だ。
実在の人物や団体、事件等と関連している様に感じられても、それは偶然に過ぎない。
サッスーン家は元々は、代々イラクに住んで来たユダヤ人一族だった。
それが政治的な事情でペルシャに移り、デビッドの時代にアヘン取引で一山当てて、一財産築いた。
その後、ペルシャ駐在のイギリス東インド会社の人間からインドの様子を聞き、1832年に一族を引き連れてインドに移住、ボンベイで「サッスーン商会」を設立し、東インド会社からの認可を受けて、シナとのアヘン貿易を開始した。
上海が開港された際には、デビッドはいの一番に乗り込み、1845年には現地支社として「沙遜洋行」を開設し、シナでのアヘン商売に本腰を入れる準備を整えた。
「沙遜洋行」は順調に業務を拡大して行き、デビッドの死後、1872年にはデビッドの次男が分社として「新沙遜洋行」を設立、2社体制となったサッスーングループは、シナでのアヘン商売に更に邁進して行った。
「沙遜洋行」が設立された頃、シナのアヘン市場に対してサッスーンが持っていたシェアは、2割強程度だった。
まぁ、「2割強」でも大したモノなんだが、それがサッスーングループが2社体制となった後の1880年代に入る頃には、「沙遜洋行」と「新沙遜洋行」の2社で、シナで流通するインド産アヘンの7割以上を扱う様になっていた。
シナでのアヘン商売は、完全にサッスーングループの「一強体制」になってしまっていたのね。
だから、「洋薬公所」を作った際も、当然、サッスーンが中心になっていた。
と言うか・・・恐らく、体裁としては「組合を作った」という形なんだけど、実質的には「シナのアヘン商売がサッスーンの下で一本化された」のだという認識で、ほぼ間違い無いのだろうと思う。
・・・だから、「アメリカのキリスト教会によるアヘン批判」から「洋薬公所設立」までの流れそのものが、「アヘン利権の独占」を目論むサッスーングループが仕込んだマヌーバだったんじゃないかという疑義を、個人的には捨てる事が出来んのだけどね。
まぁ、それはそれとして・・・
前回の記事で、アヘン商人達が自分達の手にしていた利権を手放したとはとても思えないと書いた。
まぁ、実際の所、「手放さなかった」という事を示唆するモノは、色々と残っているんだわ。
で、アヘン商人達が(まぁ、実質は「サッスーンが」だ)それを「手放さなかった」のだとして、その為には何が必要だったかと考えると・・・普通に考えると、「供給元を抑えておく」事なんだよね。
更に言うと、「サッスーン商会」の設立者であるデビッド・サッスーンは、上で書いた様に、上海に来る前から10年以上、インドでアヘン貿易に携わっていたのだが、その頃から「アヘン生産」の方にも関わっていたのよ。
つまり、上海のアヘン商売の胴元だったサッスーンは、インドの「アヘン生産利権」も持っていたのね。
そっちの方面から考えても、サッスーンがアヘン利権を手放さなかったのだとするならば、「インドからのアヘンの輸入」を削減、縮小したとは思えないんだわ。
しかし、これも前回書いた様に、1910年代のシナでは、
「シナで流通しているアヘンの内、8割はシナ産、輸入アヘンは2割程度」
と語られていた、と。
1910年代当時のシナでのアヘン需要の総量に関しては正確な所は分らないけど、少なくとも「6000トン以上」だったという事は、ほぼ間違い無いだろう。
だから、その8割となると、少なくとも「5000トン」規模だったという事になる。
5000トンもの乾燥アヘンを作るのに、具体的にどれだけの広さのケシ畑と人手が必要なのかは知らんけど、まぁ、「誰にも知られずひっそりと」やって行ける様な規模ではないだろう。
1911年までは、色々とガタが来ていたとは言え、清朝の行政システムは活きていた。
だから、その頃に清朝の版図内で5000トンものアヘンが生産されていたのであれば、公文書レベルで何らかの記録が残っている筈なのよ。
1908年には清朝政府として、「アヘンの禁絶を目指す」と公式に宣言しているんだから。
ところが、そういった記録が全く無いのね。
小規模に作っている者がもの凄くたくさん居て、その生産量を全部併せると5000トンくらい有ったという可能性も、「可能性としてはゼロではない」が・・・現実的には無理というか、アヘンを作っている者がそんなにたくさん居たのであれば、尚更、清朝政府の記録に残っていないとおかしいんだわ。
多ければ多い程、人目に触れる機会は増えるんだから。
その様な理由で、ワシ個人としては、1910年代にシナで、流通量の8割を占める程の大量のアヘンが生産されていたとは考えていないのよ。
では、実際には何がどうなっていただろうかと考えると・・・まぁ、具体的な証拠は無いので、あくまで想像でしかないが・・・恐らくは「産地偽装」が行われたという事なのだろうと思う。
つまり、それまでは「インド産アヘン」として堂々と港に荷揚げしていたのを、堂々と揚げる分を減らし、減らした分をこっそりと荷揚げする様にして、その「こっそり揚げた分」を「シナ産アヘン」として流通に乗せた、と。
「シナ産が8割」というのも、恐らくは意図的に流された話なのだろう。
インド産とシナ産の割合なんか「洋薬公所」にしか分らないんだから、情報の出所はそこしかないしな。
そして、「シナ産が8割で輸入アヘンの割合は減っています」というのが、「洋薬公所」というかサッスーンが意図的に流した話だったとするならば・・・実際の所は、
「本当は全然減らしてないんだけどな!HAHAHA!」
という事だったんじゃないか、と。
ってな訳で、ワシ個人は、1920年代以降も、シナで流通していたアヘンは、サッスーンが持ち込む「インド産アヘン」が中心だったのではないかと考えている。
・・・そう考えないと理解出来ない「出来事」が、ずっと後に有るのよ。
次回は、蒋介石の話に戻れると思う。