今や人類史は2,000年前の振り出しに戻っている。律法を廃棄したパウロ神学がもたらした目下の世界の深刻な現実。そしてブーバーのメッセージ。
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パウロにとってユダヤ教の規定、割礼やコーシャと呼ばれる禁止食物の規定は、異邦人伝道にとって大きな障害であった。それで彼は、この問題を一気に解決する理屈を考え出す…発明する…必要があった。
それが「キリストを信じる信仰によってのみ義とされ、救われる」というドグマであった。だが、イエス自身は「私に従って来なさい」とは言ったが、決して「私を信じなさい」とは言わなかったのだ。
これは全く逆なのである。マルコによれば、彼は「なぜ我を良き者と言うか。神一人の他に良きものはいない。」と述べ、ここで明らかに自分を崇拝することを拒否しているのである。
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ここでイエスは明らかにモーゼの十戒を念頭に置いて語っている。第二戒「あなたは私のほかに何ものをも神としてはならない。」、第三戒律は偶像禁止規定であって、偶像を造り出して、それにひれ伏し、それに仕えてはならないという戒律である。
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しかるにパウロは、イエスが復活したことを理由に、イエス自身が自分を拝むことを拒否したこの言葉をブッ飛ばして、イエスを「神の子」と同定し、かてて加えて「律法はキリスト以前のもので、キリストの復活によって廃棄された」という虚構の論理を組み立てたのである。
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この理屈は麻生君の大好きなマンガ(ゴルゴ13? )である。そうすると、イエスが生前しゃべっていたことは全てが無駄になるのだ。彼は何のために「なぜ我を良き者と言うか。」と自分を崇拝することを拒否したのか、また山上の垂訓でなぜ律法のただ一つでも破ってはならないと言ったのか(マタイ5・18~20)、全く判らなくなる。それどころか、パウロは…そして恐らく多くの弟子たちも…この山上の垂訓でのイエスの多くの言葉は無駄なものだったと言っていることになるのだ。
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かくて神の戒めを守らなくて良い救いがこの世に出現したというのがパウロの主張となった。そして、戒律なき社会が彼らの軍団とともに世界に広められた。剣と槍と鉄砲と砲弾と共に。
それを広められた社会はどうしたか。彼らは彼らの伝統に従った「法律」を定めたのである。ここには一切、モーゼの戒律がないのだが、それはパウロが教えた通りのもの以外の何ものでもない。
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パウロにせよ、他の弟子達にせよ、キリストの十字架と復活によって、人類に対する神の救済のわざは“成就した”はずであった。彼らが単純にそう「信じた」のには理由がある。それは「おわりの時」が少なくとも100年以内には来ると思っていたからだ。(彼らがそう思っていたことについては現在の殆どの神学者が同意している。)しかし、100年たっても「世の終わり」は来なかった。そこで彼らはどうしたか。教会や教団を立てることに専念したのである。
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キリストの信徒たちは、「キリストを信じる信仰によってのみ義とされる」ドグマの下に、イエスが山上の垂訓で教えた律法を守るべきことをブッ飛ばして、“救いが成就した”世界に生きることになった。
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しかし、今や我々は“救いが成就した世界”の正体を、ありありと知っている。第一次大戦、経済恐慌、第二次大戦、原爆、枯葉剤、劣化ウラン弾、ステルス戦闘機、毒ガス等の化学兵器、生物兵器の数々の世界である。
これらは全て、律法(神の掟)を守らない者の仕業以外の何ものでもない。パウロよ、君はこのことを神の前で、どう申し開きするつもりか。
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そんなわけで我々は、パウロが広めた害毒以前の世界に戻らなければいけない。イエスはもともと、どのようなことを言おうとしていたのか、その原点をしっかり探らなければならないのである。これは2000年前に戻ること、言い換えれば2000年に一度のことであって、グリーンスパンが言った「100年の一度」の話どころではない。
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これらのことについて、マルティン・ブーバーは、どのように言っているかを見てみよう。
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救われていない世界の事実が、あらゆる神学にまさって強力に我々をとりまいているにもかかわらず、もしもそれを完成された事実として取り扱うならば、ひとは文字どおり零点、すなわち無に立つのである。
(M・ブーバー著「ハシディズム」平石善司訳・みすず書房1997年、p39)
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Comment:いやはや、全くもってズバリ言ってますね。「無に立つ」というのは、どこかで聞いた言葉です。そう、マルクスが言った言葉です。
「世界は、私を抱きながら無言で過ぎ去り、次にまったくの無へと沈んで行くであろう、ぼろぼろになって。」
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今、世界はこの危機の中にいます。この危機はただ“パウロ以前に戻る”ことによって初めて「救済される」のです。
それをなし得る最も大きな勢力はキリスト教徒の20億人でしょうか。彼らがパウロの空想の救済観を捨てて、山上の垂訓のイエスの戒めに戻り、イエスの教えを固く守るなら、世界は一気に好転に向かうのです。
最後にもう一度マルティン・ブーバーのお話を聞きましょう。
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メシアの時における命令と禁止の壁の除去は指定さるべきではない。したがって律法は廃棄さるべきではない。むしろメシアの時は、全ての事物と全ての生活の徹底的な聖別の成就を表示するであろう。そしてこのようにして完成された律法は、全生活を包括するであろう。いな、律法がそのなかに浸透し、そのなかで生命となった現存在以外もはやなにものも存在しないであろう。
(M・ブーバー著「ハシディズム」p60)
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Comment:そうなのです。律法とは、かくの如きものなんですよ。律法とは生命に真の活力を与えるものなのです。そうでなければ、どうして神がイスラエルの民に律法を与えたのか判りません。
神はイスラエルの民に「永遠の命」を与えるために、彼らに律法を授けたのです。ナザレのイエスは、このことを知っていたからこそ、律法の「最も小さいものの一つ」でも破ってはならないと言明したのです。
このことを多くの人が知るようになる時、反キリストの時代は終わるのです。「ヨハネ黙示録」を見ると、この記者はこのことを判ってなかったようですね。