久し振りに【記憶に残る馬】をやらせて頂きます。
去年の10月くらいから書かなくなっちゃいました

改めて、馬達の当時を書いた本や記事を読み返す事で、ちょっとでも馬や関係者達の気持ちが判るような気がしてきます。
興味のある方は、さかのぼって読んでみてください

それでは…はじめます

正直に言いますと、自分が競馬の予想をやり始めたのは…中学生でした

その年の有馬記念で『アンバーシャダイ』が勝つと豪語していたら親父がまんまと信じ、単勝を買ったらしく
皆さんもご存知の通り的中でした(配当金は知りません)親父にスッゴク誉められ、サッカーシューズを買ってもらったのがきっかけかな


それからクセになり(親父の丸め込みに成功
)スポーツ新聞を見ながらの予想人生が始まりました


自分のちっちゃな名誉の為に言っておきますが、未成年の頃は決して自分が買いにいったりはしていません。バイトの給料で、ついでに頼んだ事は度々ありましたが(笑)…自分のお金を出して、馬券を買うようになってから約28年…予想歴だけを言えば30年以上ですね

…そんな自分が競馬予想を始めて3・4年の頃だった。
その馬は6番人気で皐月賞トライアル【弥生賞】を勝った。特別…強い馬ではなかったが、その時は後方強襲でクビ差勝ちをした。
イメージが強かったのは覚えていたが、この年は《マテイリアル》や《ゴールドシチー》朝日杯を制し、のちに映画【優駿】に出演したオラシオンこと《メリーナイス》がいた。
同じ『サクラ』の冠名が付く《サクラロータリー》の方が期待されていたが故障により出走断念…。この年のクラシックは混沌としていた。
そんな年のクラシック一発目を素晴らしい瞬発力で勝った馬…それが

《サクラスターオー》である。
父・サクラショウリ
母・サクラスマイル
母父(インターメゾ)
血統から言ってダービー馬の父に母の身体にはステイヤーの血が流れていて【エリザベス女王杯】3着馬…。皐月賞を勝った時点でダービーの最有力候補に浮上した

しかし…ダービーを2週間後に控えたある朝…全治4ヶ月の重症を負いダービーどころか菊花賞すら危ぶまれた

関係者は諦めず温泉の源泉を厩舎に運んだり、リハビリ施設に行ったりしていた。
苦労の甲斐があり、9月には美浦に戻れたのである。
脚の状態は一進一退だったが、菊花賞の2日前…獣医師から出走許可が出たのだった

トライアルも前哨戦も出来ない、ぶっつけ本番…単勝オッズは9番人気…やはり故障明けで人気は落ちていた。
だが…それを嘲笑うかのように、サクラスターオーはゴール板を1着で駆け抜けた

2着のゴールドシチーから1/2馬身差でした。
誰もが『奇跡』を観ていた中、調教師はスターオーの脚の事だけを心配していたそうです。
菊花賞が終わったら、ゆっくりと休ませたいと思っていた。
しかし…その予定も変更
ファン投票で1位になり、有馬記念の出走を決めた。

………サクラスターオーが再びゴール板を駆け抜ける事はなかった…

有馬記念出走を決め、仕上げた調教師も…騎乗したジョッキーも同じ事を後に言っていたそうです。
それは……
『あの日のスターオーは…生涯最高の状態だった』、と…。