島田紳助は芸人になってもすぐにはコンビを組まなかった。
理由は、漫才は遊びではなく売れることが目的だったから。

そのため、まずしたことは「自分だけの教科書」を作ること。
漫才には教科書がないから。
18歳でお笑いの世界に入り自分で教科書を作った。
「これで勉強したら、絶対売れる」という「教科書」を。

まず、面白いと思った漫才師の漫才を片っ端からカセットテープで録音していった。
当時は手軽な録音機がなかったので、大きなラジカセを使って。
テレビを録音したり、ラジカセを鞄に隠し持って劇場にまで行って録音した。
そして、録音した漫才を全て紙に書きだした。
紙に書き出すことでどこが「面白い」と感じるのか分かってきた。
他に、教科書には「これからの時代、何が売れるか」「どうやったら売れるか」「俺はこうしたい」
という思いも書き込んだ。
教科書が出来上がってから初めて相方を探し出した。