冷たい風を裂いて、ツキノ先輩が迫りくる。

 一瞬で距離が詰まり、彼女のきれいな、そして刃物のように冷徹な顔がぼくの目の前に――って、そんな悠長なこと言ってる場合じゃなくて!

「わぁ! 嘘です、嘘! 今来たばかりですっ」

 両手で顔を覆いながら、必死に声を上げる。

 

 途端、空気が止まった。

 

 しばらく同じ姿勢で顔をそむけていたけど、何も起こらない。

 恐る恐る手を下げると、腕を組んだツキノ先輩がこちらをじっと見つめていた。

「……何も見ていないのですか?」

 なんの表情も作らないまま、先輩が問う。静かで、しかし質問の拒絶を許さない圧倒的な力を持つ声。

 背筋に一筋、ひんやりとした汗が伝う。なんなんだ、この重圧感は……。

「み、見てません。ぼく、そこの男の人を追ってきて……」

 無我夢中で、これまでのいきさつを説明する。先輩は黙ってそれを聞いていた。

「なるほど、理解しました。つまり君も、あの男の被害者なのですね」

「はいっ」

 何度も頷いてみせると、ようやく先輩は警戒を解いたようだった。

「先ほどは失礼しました。あの男の仲間かと思ったもので」

 そう言って深々と頭を下げる先輩。ぼくはあわあわと両手を振って、

「そんな、やめてくださいっ。ぼくのほうこそ、嘘ついちゃってごめんなさい」

 すると彼女はそっと顔を上げて、ちいさく首を傾げてみせた。

「なぜ、あんな嘘をつかれたのですか」

「うっ、そ、それはですねっ」

 まさか「あなたの気を引きたかったから」なんて、こんな雰囲気で言えるはずもなくて。

「成り行き、です」

 なんとも情けない答えを返したのだった。

 それでもツキノ先輩はおだやかに目を細め、なんとなく笑っているっぽい顔付きで、「そうですか」とちいさくひとつ頷いた。

「そういえば、君はわたしのことを知っているようでしたが……」

 そうだった。ぼくはさっき、先輩の名前を呼んだのだ。

「あの、同じ学校なんです、先輩と。あ、ぼく、一年の芳岡(よしおか)タクミです」

 昨日まで知らなかったくせによく言うよ、ぼく。

「そうなんですか。学校の後輩さんなんですね」

 頷くと、先輩はくるりとぼくに背を向けて、いまだ倒れたままの男を見やった。

「芳岡くん。ほんのちょっとでもここで見たことは、誰にも話してはいけません。いいですね」

「わ、わかりました」

 先輩が振り返り――微笑んだ。

 彼女の笑顔は、それはもうなんとも形容しがたい美しさだった。

 

 待ち合わせしているコウスケを忘れてしまうほどに。

 ごめんね、コウスケ。

 ひょっとしてぼくは、見てはいけないものを目撃してしまったのかもしれない。

 お腹を押さえてうずくまっているスリの男。声が出せないのか、押し黙ったままがくがくと細い身体を情けなく震わせている。

 そしてもうひとり――そんな男を表情もなく見下している女性。

 ぼくはこの人を知っている。

 昨日、ぼくの心をほんの一瞬で魅了した、コウスケいわく『一目惚れ』の人。

 うるうると潤んだ大きな瞳。すこし薄めの、でもぷっくりとしてやわらかそうな、桜色のくちびる。風にふわりとなびく、長い黒髪。なによりぼくと同じ学校の制服。日曜日だというのに、ほんのわずかに着崩すこともなく整然とまとう濃緑色のブレザー。

 間違えようもない。彼女は――

「ツキノ、先輩……?」

 それでも疑問形になってしまうのは戸惑いからか、それとも恐怖からか。

 目の前で倒れている人に手を差し伸べるでもなく、ただただ無表情でそれをじっと見つめている姿は、たしかに怖い。

 ぼくの声に反応して、ツキノ先輩がゆっくりとこちらを見やる。あぁっ、お願いですから、そんな顔で見ないでくださいっ。何も悪いことなんてしていないのに、思わずごめんなさいと謝りたくなりますからっ。

「……いつから見ていましたか?」

 

 ドキン。

 

 先輩の声に、心臓が跳ね上がる。凛とした、美しい声。こんな美声がぼくに、ぼくだけに放たれているなんて! ぼふん、と音を立てそうなほど、ぼくの顔は一気に紅潮する。

 えっと、ツキノ先輩、いま何て言ったっけ? いつから見てたか? それってつまり、先輩はぼくが声をかけるまで、ぼくのことに気づかなかったってことだよね。

 現状を見てわかること。

 うずくまった男と、見下す先輩。つまりは先輩が男をやっつけたってこと。そうだよね?

「見てましたよ。最初から」

 嘘をつく。すこしでも強く、先輩に自分をアピールしなくちゃね。

 ぼくの会心の機転を利かせた返事を聞いたツキノ先輩は、しかしなぜか悲しそうに眉を下げた。

「そうですか……。では、仕方がありませんね」

 ……あれ?

 先輩は目を細め、悲しい顔から一転して、今度は睨むようにぼくを見据えた。

 左半身を前にして右の拳を腰にためる。これって……空手なんかの構え、だよね?

「すみませんが、ちょっと痛い目にあっていただきますね」

 な、なんですってっ?

 びっくりして目を見開くぼくに向かい、先輩がコンクリートの地面を蹴って、襲いかかった。

 よく晴れた日曜日。

 ツキノ先輩のことがぐるぐると頭を回りながらも趣味のプラモ作りに精を出していると、お昼を過ぎたころにコウスケから電話が入った。駅前でプラモの安売りをしている店を見つけたらしい。ちょうどひと段落ついたところだったから、三十分後に行くと約束して電話を切った。

 なんだかんだ言ってあいつも暇なんだろうなぁ。しょうがないから付き合ってあげよう。

 お母さんに「出かけてくるよ」とひと声かけて、ぼくは駅前商店街へと徒歩で向かった。

 

 さすがに休日だけあって、商店街はそれなりに人通りが多かった。

 行き交う人とぶつからないように気をつけながら、茶色のジャンパーを身体にぴったりと貼り付けるようにして進む。

 夏は暑くて苦手だけど、冬は冬で寒いから苦手。一年中春ならいいのになぁってよく思うんだけど、それをコウスケに話すと大声を上げて笑うんだ。まったくもう、年じゅう頭の中が春の人間に笑われるなんて落ち込んじゃうよ。

 そんなことに思いを馳せていたからか――

「あ、すみませんっ」

 横手から走ってきた男の人とぶつかってしまった。

 その人はこっちを振り返ることもなく、そのまま走っていってしまって……。あっという間に人ごみにまぎれて見えなくなった。

 そしてぼくは気づく。

「あれ? あれれ?」

 おしりの辺りがスカスカする。ちょうど財布を入れてあるポケットの辺だ。

 慌てて手で探ってみるけど、やっぱりというかなんというか、そこに財布の感触はなくて。

「ス、スリっ?」

 なんてこと! あの財布にはおととい貰った今月のお小遣いが全額入っているのにっ。電車の定期券だってあの中なのに!

 さっきぶつかった男か?

 半ばパニックになりながらも、男の消えた方に向かって走る。

 あぁもう、ついてない! ぼくってなんてついてないんだろう!

 男の行き先なんて当然わからないから、それっぽい細い裏道を選んでそこに入る。人ごみは一瞬でなくなって、ただただ寂れた細道が延々と続いていた。かまわずその道をひた走る。ぼくのお小遣いを返せ!

 

 どのくらい走っただろう。

 まっすぐ走って、角を曲がって、また走って――それをいくらか繰り返したとき、不意に視界が開けた。

 マンションやテナントビルに囲まれた、ちいさな空間。空は四角く切り取られている。

 その中央に、あの男がいた。

 いや、正確にはもうひとり。

「ツキノ……先輩?」

 ぼくの目の前には、お腹を押さえてうずくまる男と、それを悠然と見下ろしている可憐な少女――高崎ツキノ先輩が立っていた。