7歳上の浅田真央が『昌磨君はフィギュアに来なよ』 宇野昌磨、浅田、安藤美姫…なぜ日本の名フィギュアスケーターは愛知から生まれるのか?

伊藤みどり、安藤美姫、浅田真央、宇野昌磨……なぜ愛知県から名スケーターたちが生まれてきたのか。その歴史と理由を探る

 

 

 今年3月下旬に開催されたフィギュアスケート世界選手権の男子シングルでは、宇野昌磨が2月の北京冬季五輪の銅メダルに続き、悲願の金メダルを獲得した。それと前後して3月15日、宇野を育てた樋口美穂子コーチが、長らく所属した『グランプリ東海クラブ』から独立し、新たなフィギュアクラブ『LYS』の代表に就任すると報告していた

 

 グランプリ東海クラブは、名古屋市内の『名古屋スポーツセンター』をホームリンクとし、山田満知子コーチと二人三脚で日本人初の世界選手権優勝や五輪メダル獲得を果たした伊藤みどりをはじめ、恩田美栄、中野友加里、浅田真央、村上佳菜子など世界で活躍する選手を輩出してきた名門である。樋口コーチも選手時代より山田コーチに学び、指導者に転身後はアシスタントなどを務めながら、宇野昌磨たちの指導にあたってきた。プログラムの振付にも定評がある。山田門下からは、恩田美栄もすでに独立してやはり愛知県内で指導にあたっている

 

 上に名前を挙げた選手のすべてと、先の北京五輪と世界選手権に出場したなかでは女子シングルの河辺愛菜とペアの木原龍一も愛知県出身である。彼・彼女たちだけでなく、愛知からはこれまでに多くの選手が排出されてきた。北京五輪と世界選手権の男子シングルであいついで銀メダルを獲得した鍵山優真も、父・正和が愛知出身で、1991年の世界選手権で6位に入賞し、五輪にも翌1992年のアルベールビル、1994年のリレハンメルと2度出場した日本男子のパイオニア的存在だった

 

これじゃ“日本対世界”じゃなくて“愛知対世界”だ

 今世紀に入ってからの冬季五輪では毎回、愛知出身の選手が日本代表に選ばれてきた。とくに2010年のバンクーバーと続く2014年のソチでは、女子シングルの3選手がすべて愛知出身者で占められた(鈴木明子と浅田真央に加え、バンクーバーでは安藤美姫、ソチでは村上佳菜子が出場)。当時、ネットで『これじゃ“日本対世界”じゃなくて“愛知対世界”だ』というような書き込みがあったのを思い出す。バンクーバーの代表選考ではやはり愛知出身の中野友加里が僅差で出場を逃している

 

 同時期には男子シングルでも小塚崇彦がバンクーバー五輪に出場するなど活躍している。中京大学の豊田キャンパス(愛知県豊田市)にフィギュアスケート専用アイスアリーナ『オーロラリンク』が竣工したのもちょうどこのころ、2007年である。当時、同大学には小塚や安藤美姫附属の中京大中京には浅田真央が在籍し、各校を運営する梅村学園を挙げてフィギュアスケートの選手支援に本腰を入れ始めていた。企業にも支援金を募り、そのひとつが地元を代表する世界企業・トヨタ自動車だった。小塚や安藤、また宇野昌磨は在学中よりトヨタ自動車に所属するが、その関係もこのとき始まった

 

なぜ愛知でフィギュアが盛んになったのか?

 もっとも、愛知県において学校や企業がフィギュアスケート選手を支援する体制が整えられたのは比較的最近のことである。『フィギュア王国・愛知』と呼ばれるまでには、それ以前から地域社会のなかで培われてきた土壌があった。ここからは、歴史をひもときつつ、なぜ愛知でフィギュアスケートが盛んになったのか、その理由を探ってみたい

 

 愛知のフィギュアスケートの歴史を振り返ると、必ず名前の出てくる人物がいる。それは前出の小塚崇彦の祖父である小塚光彦(2011年、95歳で死去)だ

 

 小塚光彦は戦前、中国東北部に成立した満州国の官製国民組織『協和会』のカメラマンだった。20代前半で大陸に戻り、撮影のため各地をまわるなか、フィギュアスケートと出会う。現地に多数住んでいたソ連の人たちからも学びながら、満州国の王者となり、1940年に予定されていた札幌冬季五輪の出場も目前だった。しかし、五輪は日中戦争の戦局悪化にともない返上され、夢はついえる

 

 終戦直後、満州から引き揚げると、1948年に同好の旧友ら数名とスケート界の復興を願って愛知県スケート連盟を発足させた。以来、光彦はフィギュアの普及と発展に努めることになる。自ら指導した息子の嗣彦は1968年のグルノーブル五輪に出場した。小塚崇彦の父親である

 

まず戦うべき相手は東京だった

 山田満知子がこの世界に入るきっかけを作ったのも光彦である。山田の回想では5歳のころ、父親が友人宅でたまたま会った光彦から『スケートは小さいうちから始めるといいよ』と勧められたという。その2年後の1950年、名古屋では戦後初となるスケートリンクが小規模ながら今池に開場すると、さっそく通い始めた

 

 山田は高校時代に国体とインターハイで優勝もしたが、地元で本格的な指導をなかなか受けられないことに不満を抱いていた。上手い人はみんな東京に出ていた時代である。山田にも高校卒業後、上京を勧める声があったが、親の反対もあり地元にとどまった

 

 そんな山田にとって、素敵なコスチュームを着て、たとえジャンプは大きく跳べなくても、見とれてしまうような気品を持ち合わせた東京の選手は憧れだった。そんな都会的でセンスのいい人たちに、何とか勝ちたいという思いが彼女のモチベーションになっていく。指導者になってからもその思いは変わらず、東京の人たちと戦って勝てる選手を育てたいということだけを漠然と考えていたという。当時の山田には世界に打って出るなどまだ思いもよらず、まず戦うべき相手は東京だったというのが興味深い

 

小5の伊藤みどりを引き取り、家族同然に暮らす

 そんな彼女の前に現れたのが伊藤みどりだった。1974年のことである。当時5歳だった伊藤は、“大須のリンク”と呼ばれる名古屋スポーツセンターの近所に住んでおり、たまたま家族で遊びに来たところすっかりスケートに魅了された。それからというものリンクに通い出す。山田はその幼い少女が楽しそうに滑る姿に目を留め、自分の夢を託したのである

 

 フィギュアスケートには、スケート靴を始め衣装、コーチ、滑走代など何かにつけてお金がかかる。その負担を少しでも軽減するため、山田の生徒たちは、衣装を先輩と後輩で使い回したり、リンクにも早朝と深夜の貸し切り時間だけでなく、昼間の営業時間も一般客に交じって降りる。それもフィギュアの敷居を低くしたいとの山田の考えからだ。山田が伊藤みどりを小学5年のときに引き取り、自分の家族同然に暮らすことにしたのも、彼女の家庭の経済事情を考慮してのことであった

 

 

通年型リンクの数は全国最多タイ

 先述の通り、山田は伊藤のあとも、有力選手を世に送り出していった。浅田真央は伊藤を目標とし、大先輩の衣装で大会に出場したこともある。その浅田を村上佳菜子や宇野昌磨が追いかけた

 

 宇野が大須のリンクに通うようになったきっかけは、5歳のとき、練習中だった7歳上の浅田に遊んでもらったことだった。リンクには、フィギュアのほかスピードスケートとアイスホッケーのクラブもあったが、彼は浅田から『昌磨君はフィギュアに来なよ』と誘われてフィギュアに決めたという

 

 大須のリンクが開場したのは1953年。名古屋の中心部にあるだけに、昔からにぎわっていた。ただ、伊藤みどりがスケートを始めた頃は、お世辞にも設備は十分ではなかった。客が四六時中滑っているのでいつも氷上はガタガタだったが、それを滑らかに保つ機械もなかった。そのため伊藤は、少しでも滑らかなエリアを見つけ、ほかの人よりも早く陣取るため、自然と動作が機敏になっていったという。もっとも、その後、リンクは老朽化も進んでいたため、1983年に改築され、設備も整えられるようになった

 

 スケートリンクには冬季のみプールに氷を張って営業するところが多いが、その場合、1年を通して練習ができない。だが、大須のリンクができてから70年近く、名古屋市内では通年営業のスケートリンクが途切れたことがない。現在、市内にある通年型のリンクは2カ所。もう一つは、鈴木明子や木原龍一などを輩出した『邦和スポーツランドみなとアイスリンク』である。愛知県内でいえば、長久手市の愛・地球博記念公園の屋内リンクと、前出の中京大学のフィギュアスケート専用リンクが加わり4カ所ある。通年型のリンクの数では、東京都と大阪府に並び全国最多である(町田樹『アースティックスポーツ研究序説 フィギュアスケートを基軸とした創造と享受の文化論』所収の2019年のデータを参照)

 

 全国的に見れば、スケートリンクは1980年代前半に急増したものの、バブルが崩壊した1990年代初めを境に減少の一途をたどる。その点は愛知も決して例外ではなかった