シャチの国へいった男
一人の猟師が皮舟に乗って漁に出たときのこと、沖でクジラを曳いている舟を見つけました。ふしぎなことに猟師が彼らのすぐそばまでいっても、誰ひとり彼に気づきません。彼らのあとからついていくと、クジラ撃ちたちは見知らぬ岸に舟をつけました。
人々が浜に集まってきてクジラの解体をはじめましたが、どれも知らない顔ばかりです。猟師は彼らの間を歩きまわり、肘でつつきましたが、それでも誰ひとり彼に気づくものはありません。彼の姿は誰にも見えないのです。そのうち一人の男が、クジラの肉を一片切りとって妻の足もとに投げました。姿の見えない猟師がその肉を踏みつけると、女はきょろきょろ探しまわります。猟師が女の背中にクジラの肉をはりつけると、女は背中が痛いといってさわぎはじめました。
猟師は、今度は一軒の家に入りこんで、この家の女房に向かって、「肉をくれ」といいます。女房が驚いて、「おや、なにやら耳鳴がする。肉をくれという声がしたのに、誰もいない。なんて不思議なこと…」といいます。猟師は驚いている女をしり目に、肉をたいらげてしまいました。
猟師は姿が見えないのをいいことに、このほかにもいろいろいたずらをしたうえ、一軒の家の前にやってきました。中から女の人のうめき声が聞こえてきます。この家では、シャーマンやまじない師が手を尽くしても、女房の病気が治らず困っているところでした。そのとき、家の入り口に立っている猟師のほうへ一人の男が近づいてきて、「あなたは誰ですか、どこから来たのですか」とたずねました。この男にだけは猟師の姿が見えるのです。猟師がこれまでのことを話してきかせると、男はこの家の病人を治してくれれば、家へ送りとどけてやろうといいます。猟師が病人を見ると、それは彼がクジラの肉を背中にはりつけた、あの女の人でした。男が背中の肉をとってやると、女はすっかり元気になりました。
さてその翌日、猟師はこの村の男たちのこぐ舟に送られて故郷の浜に帰ってきました。男が浜におりたって後ろをふり返ると、もう舟も男たちの姿もなく、沖をシャチの群れが泳いでいくのが見えるばかりです。あの国はシャチの国だったのです。
シャチに襲われたクジラが浜に打ち上げられることから、沿岸に住む漁師たちは、クジラを届けてくれるシャチを自分たちの守護神(海神)として崇拝しています。海神は自分たちの国にいるときは人間の姿をしていますが、人間の国を訪れるときはシャチの姿をしていると考えられています。
エスキモー(アメリカ)の話 『ガイドブック世界の民話』(講談社)より
