禄命法と子平、さらにはあらゆる命理分析手法において共通して重視されるべき点といえば、「財官」である。

『淵海子平』巻中の「雑論口訣」に曰く:「子平を見極める方法は、専ら財官を論ず。月柱に現れる財官が最も重要である。格に合えば、富か貴のいずれかとなり、格に合わなければ、夭折か貧困のいずれかとなる。」

すなわち、子平の法とは、要するに財官を論ずることに帰着するのである。禄命法もまた財官を論ずるが、この「財官」とは、子平の「財官」とは必ずしも同一ではない。

他の多くの命理説も、基本的に子平の財官論を宗としている。

ただし、任鉄樵が提唱した旺衰論命法は、あまり形式にこだわらず、単に身の強弱のみを基準とする。身が弱ければ扶助を好み、身が旺であれば財官に勝てると考える。

現代人が命式を分析する手法は、おおよそ以下の三つに分けられる:

1:月令から格局を探す  
2:財官の旺盛さを見る  
3:身の旺衰(強弱)を見る  

もちろん、明沖暗衝や遙合などの外格によって、財官を衝き合わせたり、引き寄せたりする方法もある。

したがって、現代人の多くはまず最初に財官を見る。

だが、なぜ財官なのか?

財官という名称については誰もが理解している。財とは命を養う源であり、官とは事業・地位・名声・権力の象徴である。人生在世、結局のところ名と利を追い求めているに過ぎない。財官とはまさに名利そのものである。あなた自身が名利を追求しないとしても、「天下熙熙、皆利のため来り、天下攘攘、皆利のために往く」という事実は否定できない。

確かに人の富貴貧賤は、名利によって定義される。しかし、なぜ「財官」が人の富貴名利を決定づけるのか?

あるいはもっと通俗的に言えば、なぜ「財官」が財官と呼ばれるのか?

財には正財と偏財があり、官には正官と七殺(偏官)がある。

一般的な解釈では、正官・正財は吉とされ、偏財は商売に関係し、七殺(偏官)は凶が多く、故に「有殺先論殺(殺星があれば、まずそれを論ず)」とされる。命式中の煞(さつ)が制御されていれば、それは吉となる。

十神の概念は元をたどれば六親に由来し、六親の概念は漢易の京房納甲法にさかのぼる。

六親とは次の通り:

官鬼爻、妻財爻、父母爻、子孫爻、兄弟爻

実は六親の本質は五行の生剋制化にある。つまり、命理学のあらゆる分析手法は最終的に「生旺の気」、すなわち五行の生剋関係を捉えることに帰着する。

私を生じる者=父母=父母爻  
私が生じるもの=食傷=子孫爻  
私が克する者=妻財=妻財爻  
我を克する者=官鬼=官鬼爻  
我と同じ者=兄弟=兄弟爻

命理学の多くの用語は、このような納甲法の思考様式から来ている。

例えば「逢財看官(財に遇えば官を見る)」「逢官看印(官に遇えば印を見る)」といったのは、相生の関係を取っていることになる。

また「食傷制殺(食傷で殺を制する)」「食傷配印(食傷と印を組み合わせる)」などは、相剋の関係を取っていることになる。

吉なる気は生じ支えることが良く、凶なる気は抑制・克服することが望ましい。こういった構造が良い命式とされる。

命理学の本質は、ただ「生旺の気」、すなわち「旺衰の気」を見るだけである。これはいわゆる「身の強弱」の意味とは異なる。

したがって、命式の吉凶を判断するには、単に十神の名称に惑わされるのではなく、五行の生剋制化の流れを正確に把握する必要がある。ここで「五行查詢(ごぎょうさくい)」というプロセスが極めて重要な役割を果たす。五行查詢とは、命式に現れる天干地支の陰陽五行を一つひとつ特定し、日干を中心として、他の干支が「生ずるか」「克するか」「同類か」「我を生ずるか」「我を克すか」を体系的に分析する手法である。


六親と言っても、実際には五種類しかない。

十神は次のように分類される:

官鬼爻 = 正官 + 偏官(七殺)  
妻財爻 = 正財 + 偏財  
父母爻 = 正印 + 偏印  
子孫爻 = 食神 + 傷官  
兄弟爻 = 比肩 + 劫財  

近年、命理史を研究する人々の中には、「これらすべては徐子平が発明したものだ」と主張する者がいるが、それは誤りである!

十神という用語自体は、徐子平または子平法を学ぶ者たちが後世に定めたと言えるかもしれない。しかし、「十神の概念」そのものは、本質的にただの五行の生剋関係に他ならない。その考え方は西漢の時代にはすでに非常に成熟しており、周代以来ずっと発達してきたものである。当時は現在のような流行語を使わなかっただけであって、概念自体は古くから存在していたのだ。

禄命法の体系においてさえ、十神の応用はすでに高度に発達していた。そして十神とは六親をさらに細分化したものにすぎず、その本質は「画気五行」による生剋制化に基づいている。

例えば:

甲己は土に合化する、乙庚は金に合化する  
丙辛は水に合化する、壬丁は木に合化する  
戊癸は火に合化する

これらはいわゆる「化気五行」であり、十干間の関係性は当初、この化神の生剋制化に基づいて定められた。すなわち、「私を生む者」「私が克する者」は生旺の気を得て吉とされ、「我を克する者」「我を泄する者」は衰敗の気とされ凶とされた。

十干の関係を個別に見てみよう。

甲木の正官は辛金、偏官(七殺)は庚金である。

では、正官と偏官の違いとは何か?

化気五行の観点から見ると、

甲己は土、丙辛は水。正官の辛金は「私が克するもの」なので、これは吉である。

甲己は土、乙庚は金。偏官の庚金は「私の生气を消耗するもの」なので、これは凶である。

なぜ正官は傷つけてはいけないのか? なぜ「有殺先論殺」なのか?

正官は「私が克するもの」であるのに対し、偏官(七殺)は「私の生气を奪い去る怨の気」であるため、「鬼」または「煞」とも呼ばれる。

したがって、すべての者は生旺を好み、消耗・泄気を好まないのである。

では、正財と偏財の違いとは何か?

正財にも吉凶があり、陽干の正財は吉、陰干の正財は必ずしも吉ではない。これもやはり生剋関係による。

五陽干の場合:

甲木は己を正財とする。しかも甲己は六合であり、化神も土。気が凝集する。  
丙火は辛を正財とする。丙辛は水に合化し、かつ六合。  
戊土は癸を正財とする。戊癸は火に合化し、かつ六合。  
庚金は乙を正財とする。乙庚は金に合化し、かつ六合。  
壬水は丁を正財とする。壬丁は木に合化し、かつ六合。

以上のように、陽干の正財は合化かつ六合で、気が凝集する。

一方、五陰干:

乙木は戊を正財とする。戊癸は火に合化、乙庚は金に合化。表面的には財だが、実質は「財が鬼」となり、火が金を克する象意を持つ。  
丁火は辛を正財とする。丙辛は水に合化、壬丁は木に合化。表面は財だが、実質は「財が鬼」、水が火を克する象意。  
己土は壬を正財とする。壬丁は木に合化、甲己は土に合化。表面は財だが、実質は「財が鬼」、木が土を克する象意。  
癸水は丙を正財とする。丙辛は水に合化、戊癸は火に合化。表面は財だが、実質は「財が鬼」、水が火を克する象意。

以上から明らかに、陽干の正財は合化して気が凝集するが、陰干の正財は消耗・克制される関係にある。よって、正財だからといって一概に吉とは言えない。陰陽の区別が必要である。

次に、化気五行から見た偏財を見てみよう。

甲は戊を偏財とする。甲己は土、戊癸は火。火は土を生む、相生の関係。  
丙は庚を偏財とする。丙辛は水、乙庚は金。金は水を生む、相生の関係。  
戊は壬を偏財とする。戊癸は火、壬丁は木。木は火を生む、相生の関係。  
庚は甲を偏財とする。乙庚は金、甲己は土。土は金を生む、相生の関係。  
壬は丙を偏財とする。壬丁は木、丙辛は水。水は木を生む、相生の関係。

陰干についても検証しよう:

乙は己を偏財とする。乙庚は金、甲己は土。土は金を生む、相生の関係。  
丁は辛を偏財とする。丁壬は木、丙辛は水。水は木を生む、相生の関係。  
己は癸を偏財とする。甲己は土、戊癸は火。火は土を生む、相生の関係。  
辛は乙を偏財とする。丙辛は水、乙庚は金。金は水を生む、相生の関係。  
癸は丁を偏財とする。戊癸は火、丁壬は木。木は火を生む、相生の関係。

以上よりわかるように、財であれ官であれ、その本質は「生旺の気」を得ることにある。

正官と正財は、陽干にとって生扶・旺気をもたらす。  
正官と偏財は、陰干にとっても生扶・旺気をもたらす。  
偏官(七殺)は、陽陰両干にとっても生气を消耗する衰気をもたらす。

気は生じられ、支えられることを喜び、克されたり消耗されたりすることを嫌う。これが道理である。

甲己は土、丙辛は水、戊癸は火。水は私が克するもの、火は私を生むもの。どちらも好ましい。

甲木の場合、丙は食神、辛は正官、戊は偏財、癸は正印、己は正財。  
己土の場合、丙は正印、辛は食神、戊は劫財、癸は偏財、甲は正官。

その他すべては、同様にして類推できる。

七殺が凶神であることは、上記で既に説明した。

ではなぜ偏印(梟)、傷官も凶神とされるのか?

甲木にとって、壬水は偏印である。甲己は土、壬丁は木。木は土を克する。  
甲木にとって、丁火は傷官。甲己は土、壬丁は木。木は土を克する。

乙木にとって、癸水は偏印、丙火は傷官。乙庚は金、癸戊は火。火は金を克する。丙辛は水、水は金を泄する。

以上から明らかなように、七殺、偏印、傷官の本質は、命式の生气を克・消耗・泄することにあるため、忌神とされる。

ゆえに、すべての財・官・印は、本質的に「生旺の気」を得るものであり、  
すべての煞(七殺)、梟(偏印)、傷(傷官)は、本質的に「衰敗の気」をもたらすものである。

現代人は「名称」に惑わされ、その本質を見失っている。誠に誤りである。

命式を見るとは、結局のところ生剋の関係を見るだけである。

生ずるは吉、克ずるは衰である。

すべての名称や用語は、あくまで便宜上の儀礼的枠組みにすぎず、本質は天地の「生旺の気」を観察することにあるのである。