『異邦人』アルベール・カミュ 4月の読書記録(Ⅴ) | レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

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『異邦人』アルベール・カミュ 窪田啓作 訳 (新潮文庫)

 

(自分のための備忘録として文章を一部抜粋しています)

 

<きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これでは何もわからない。恐らく昨日だったのだろう。養老院はアルジェから八十キロの、マランゴにある。二時のバスに乗れば、午後のうちに着くだろう。そうすれば、お通夜をして、明くる日の夕方帰って来られる。私は主人に二日間の休暇を願い出た。こんな事情があったのでは、休暇をことわるわけにはゆかないが、彼は不満な様子だった。「私のせいではないんです」といってやったが、彼は返事をしなかった。そこで、こんなことは、口にすべきではなかった、と思った。>

 

<空には既に陽の光が満ちていた。それは大地にのしかかって来て、暑さは急速に増した。なぜだかわからなかったが、われわれは歩き出すまでに、ずいぶん長く待った。喪服を着ていて、暑かった。小柄の老人は帽子をかぶっていたが、また改めてそれを脱いだ。私はちょっと彼の方を向いていた。院長が彼のことを話しだしたとき、私は彼を眺めていた。しばしば母とペレ氏は、夕方、看護婦に付き添われて、村まで散歩に出た、と院長はいった。私は自分の周囲の野原をながめた。空に近く、丘々まで連なる糸杉の並木、このこげ茶と緑の大地、くっきりと描き出された、まばらな人家ー これらを通して、私はママンを理解した。夕暮れは、この地方では、憂愁に満ちた休息の一刻にちがいない。今日、あふれるような太陽は、風景をおののかせ、非人間的に、衰弱させていた。>

 

<それはママンを埋葬した日と同じ太陽だった。そのときのように、特に額に痛みを感じ、ありとある血管が、皮膚のしたで、一どきに脈打っていた。焼けつくような光に堪えかねて、私は一歩前に踏み出した。私はそれがばかげたことだと知っていたし、一歩体をうつしたところで、太陽からのがれられないことも、わかっていた。それでも、一歩、ただひと足、わたしは前に踏み出した。すると今度は、アラビア人は身を起こさずに、匕首を抜き、光を浴びつつ私に向かって構えた。光は刃にはねかえり、きらめく長い刀のように、私の額に迫った。その瞬間、眉毛にたまった汗が一度に瞼をながれ、なまぬるく厚いヴェールで瞼をつつんだ。涙と汗のとばりで、私の眼は見えなくなった。額に鳴る太陽のシンバルと、それから匕首からほとばしる光の刃の、相変わらず眼の前にちらつくほかは、何一つ感じられなかった。焼けつくような剣は私の睫毛をかみ、痛む眼をえぐった。そのとき、すべてがゆらゆらした。海は重苦しく、激しい息吹きを運んで来た。空は端から端まで裂けて、火を降らすかと思われた。私の全体がこわばり、ピストルの上で手がひきつった。引き金はしなやかだった。私は銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾する轟音とともに、すべてが始まったのは、このときだった。私は汗と太陽をふり払った。>

 

<他人の死、母の愛 ー そんなものが何だろう。いわゆる神、ひとびとの選びとる生活、ひとびとの選ぶ宿命 ー そんなものに何の意味があろう。ただ一つの宿命がこの私自身を選び、そして、君のように、私の兄弟といわれる、無数の特権あるひとびとを、私とともに、選ばなければならないのだから。>

 

<他のひとたちもまた、いつか処刑されるだろう。君もまた処刑されるだろう。人殺しとして告発され、その男が、母の埋葬に際して涙を流さなかったために処刑されたとしても、それは何の意味があろう?サラマノの犬には、その女房と同じ値うちがあるのだ。機械人形みたいな小柄な女も、マソンが結婚したパリ女と等しく、また、私と結婚したかったマリイと等しく、罪人なのだ。セレストはレエモンよりすぐれてはいるが、そのセレストと等しく、レエモンが私の仲間であろうと、それが何だろう?>

 

<彼が出てゆくと、私は平静をとり返した。私は精根つきて寝台に身を投げた。私は眠ったらしかった。顔の上に星々のひかりを感じて眼をさましたのだから。田園のざわめきが私のところまで上って来た。夜と大地と塩のにおいが、こめかみをさわやかにした。この眠れる夏のすばらしい平和が、潮のように、私のなかにしみ入って来た。このとき、夜のはずれで、サイレンが鳴った。それは、今や私とは永遠に無関係になった一つの世界への出発を、告げていた。>

 

感想)アルジェで船荷証券の点検の仕事をしているムルソーは、養老院に預けていた母が死んだという知らせを受け、アルジェから80キロのマランゴという場所にある養老院に向かう。母の棺が置かれた死体置き場の小部屋に案内され、門衛が柩のふたを取って顔を見るかと聞かれるがムルソーは断った。特別意味があるわけではなかった。門衛に勧められてミルクコーヒーを飲み、煙草を喫った。うとうとして、目が覚めると夜だった。部屋の中へ養老院の老人たちが入って来て音もたてずに椅子に座った。眼の下に白い包帯をしたアラビア人の看護婦がこちらに背を向けて座っていた。翌日、院長と司祭、葬儀屋、母の恋人だったペレ老人ら数人が葬列に参加した。太陽はムルソーから多くの記憶を奪い断片だけが残った。バスがアルジェの街に入ったと気づいたとき、喜びを感じた。これから12時間眠ろう。

 

翌日、海水浴場にいったムルソーは以前会社の同僚だったマリイと再会する。お互い好意を持っていた二人はすぐに打ちとけ、フェルナンデルの喜劇映画を観た後、ムルソーの部屋で関係をもった。同じアパルトマンに住む病気の犬を連れたサラマノ老人や倉庫番をしているというレエモンとも気さくに話した。ある日レエモンはアラビア人の女とトラブルになって、ムルソーに力を貸してほしいと相談を持ちかける。日曜日、ムルソーはレエモンの友人のマソンの別荘にマリイを連れてやってくる。食事が終わり海岸を散歩していたレエモンとマソン、ムルソーはこちらに向かってやってくるアラビア女の兄と仲間を見かける。しばらくにらみ合ったあと、殴り合いになってレエモンは匕首で腕を負傷した。医者で手当てを受けたレエモンが帰って来てムルソーと散歩に出た。二人のアラビア人は立ち去らず海岸の岩陰で横になり、葦笛を吹いていた。ピストルを取り出したレエモンをなだめ、ムルソーはピストルを預かる。ふたりのアラビア人は後ずさって去って行った。レエモンとムルソーも別荘に戻ったが、ムルソーは再び浜へ向き直って歩き出した。太陽の熱気はムルソーから平常心を奪い全ての感覚を奪い去った。アラビア人の女の兄が岩陰にいた。太陽に焼かれたムルソーに感覚は失われていた。アラビア人に向かってピストルの引き金を引いた。そのあと四発の銃声が鳴り響いた。

 

逮捕され尋問をうけるムルソー。予審判事はムルソーの証言することが理解できない。ムルソーは「すべては簡単なことばかりだ」と答える。「レエモン、浜、海水浴、争い、また浜辺、小さな泉、太陽、そして、ピストルを五発撃ちこんだこと」なぜ、一発目と二発目とのあいだに、間を置いたのかと聞かれてもムルソーには答えるすべがなかった。太陽が眩しくすべての理性はそのとき失われていたから・・・。裁判が始まるが、ムルソーは自分が感じたありのままを話すだけで裁判を有利にするための嘘を証言することはできない。ムルソーにとってはすべてが等価なのだ。自分を救ってくれる神などは存在しない。アラビア人の男をピストルで撃ち殺したことの罪を問われるのではなく、母親の柩の蓋をあけて顔を見なかったこと、柩の前でミルクコーヒーを飲み、煙草を喫い、葬儀で涙を流さなかったこと、葬儀の翌日女とフェルナンデルの喜劇映画を観た事、その女と関係したこと、アラビア女と揉めている女衒のヤクザな男に手をかしたこと、一発目のあと間をおいて4発撃ったこと。殺人の事実とは関係のない反道徳的?な人間性が罪に問われる。マリイを愛していたかもしれないし、愛していなかったのかもしれない、マリイと結婚したかったのかもしれないし、したくなかったのかもしれない。それが何だろう。ムルソーが虚無的な人間であっても、そうでなくとも、発達障害であっても、そうでなくてもムルソーはムルソーだ。だが、人々は反道徳的人間、反社会的人間としてムルソーを糾弾し処刑する。不合理、不条理に満ちた世界。神の寵愛と加護を説きムルソーを苛立たせる司祭が去ったあと、死の近いことを感じたムルソーは生涯の終わりになぜママンが「許婚」を持ったのか、生涯をやり直す振りをしたのか、腑に落ちた。死への恐怖は去り、安らぎがおとずれ、処刑を待つ大勢の見物人が憎悪の叫びをあげることを待ち望んだ。

 

十数年ぶりに再読した。年齢を重ねてムルソーの心象風景が以前よりも実感をともなって理解できるようになった。ありふれた日常の有難さ、マリイ、サラマノ老人、セレスト、職場の同僚、女を食い物にする女衒のレエモンにしてもムルソーの友人に違いない。日曜日のアパルトマンの窓から眺める人々のにぎわい、やがておとずれる静寂。夕暮れの憂愁に満ちた休息のひととき。永遠に無関係になった世界がムルソーにとってどれだけ掛け替えのないものだったか。

 

権利関係、その他の理由でソフト化されなかった映画『異邦人』(ルキノ・ヴィスコンティ監督 1967年 マルチェロ・マストロヤンニ、アンナ・カリーナ主演)がブルーレイ、DVD化され(2021年 11月17日発売)若い映画ファンの目にふれる機会ができたのは、作品が成功作かどうかは別にして喜ばしい。主演はスター俳優でという条件ならば、ムルソー役はアラン・ドロン、マリイはクラウディア・カルディナーレの方が適役に思えた。映画のキャスティングは俳優のスケジュールや製作、配給サイドの興行的な思惑もあり、必ずしもベストの俳優を使えないなどの難しさを感じる。